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[経営者たち] 初代 大石忠次郎 
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大石薬舗創業者


【在任期間】
1879年(明治12年)~1911年(明治44年) 大石薬舗当主


初代大石忠次郎(おおいしちゅうじろう)は大石薬舗の創業者。1874年江藤新平の乱の際、薬を売り、その資金を元に1879年(明治12年)久留米に大石薬舗を創業した。
背が低く「大黒さま」のような風貌で愛嬌がよく、軽妙洒脱、すこぶる機智に富んでおり薬業界の奇傑と評された。

初代大石忠次郎
1853年(嘉永6年)11月 誕生
1911年(明治44年)4月30日 死去


生涯のあらまし

【経歴・お人柄等】

初代大石忠次郎は、嘉永6年(1853)11月、上妻郡前津村(現・筑後市前津)で誕生した。父は大石忠助(明治35年5月27日没、享年86)。
12歳の時、三潴郡横溝村の医師江口海節に従って医術を修めた。のち辞して家に帰って家業に就いていたが、18歳の時久留米の熊谷薬店に奉公に入った。つぎに羽犬塚町の薬店「竹屋」の店員となったが、友人の松山楠次郎と竹屋薬店の全てを引きうけて共同経営した。2年後の1879年(明治12年)松山と別れ、今町72番地に大石薬舗を開業した。

業務に専心して信用が次第に加わっていき、ついに久留米有数の薬店となった。同店の自家製薬に「旅順丸」・「実母散」・「精鋩水」・「合羽膏」があった。人柄は軽妙洒脱、すこぶる機智に富んでいた。「旅行丸」宣伝に奇想天外の口上をして有名となり、当時、東京銀座街頭に赤天狗の看板を揚げ、自ら赤洋服を着けて宣伝に努め、煙草販売に成功した岩谷松平と東西の好一対といわれた。
体格は背が低く肥満し、大黒天のような顔つきで、無量の愛嬌をたたえ、無限の福相を具え、その温情は一種言うべかざるものがあった。

酒を好み、酒が入ると快活豪放の人と一変し、諧謔風刺の言がほとばしり出て人を笑わせ、宴席においては必ず裸踊をやった。かかる人物であったので、当時、薬業界の奇傑として重んぜられた。
晩年には女婿の二代忠次郎に業を一任し、朝夕酒樽を眺めつつ商事の大体を監視した。梅林寺の檀徒で同寺のために尽力し、老師の信任厚く「黙世界」と称して座禅にいそしむ人でもあった。1911年(明治44年)4月30日、59歳で死去。墓は京町梅林寺。






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