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[経営者たち] 初代 藤村萬作 
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薬舗 藤村萬堂盛堂初代当主


【在任期間】
1894(明治27年)~1920年(大正9年) 薬舗藤村萬堂盛堂当主



初代藤村萬作(ふじむらまんさく)。藤村萬盛堂の初代当主。四国の八幡浜から行方不明の兄を探しに長崎に向かい、そのまま長崎の薬舗西脇金星堂に入店、仕事が認められ、新設された分店の責任者に抜擢。その後1894年(明治27年)藤村萬盛堂を創業し、急成長を遂げる。

初代藤村萬作
1862年(文久2年)8月28日 誕生
1920年(大正9年)11月25日 死去


生涯のあらまし

【経歴・お人柄等】

藤村薬品の創業者、初代藤村萬作は、文久2年(1862年)828日、伊予八幡浜で、3人兄弟の次男として生まれ、十代の後半には「伊予かすり」の行商で九州一円を廻っていた。

明治1415年頃、行商に出た兄の幸作が一向に家に帰らず心配していたところ、長崎にいることがわかり、連れ戻すため萬作は単身長崎に向かった。幸作はその後八幡浜に戻ったが、連れ戻しに行ったはずの萬作が、活気溢れる国際都市長崎に魅せられてしまった。兄の帰郷を知った後も、萬作は長崎の街に自らの将来を感じて職を求めた。

明治1812月、唐薬の輸入販売と自家製剤の製造販売を営む「薬舗 西脇金星堂」に就職する。入社5年目、身を粉にして働いた萬作は明治23年、外国人居留地、大浦相生町に出店する分店の責任者に抜擢される。大浦は、領事館やホテル、貿易商社、劇場などが立ち並ぶ最先端のエリアで、大浦分店は予想を超える成功を収めた。

分店での仕事ぶりを見た当主の西脇金三郎は、次第に萬作をパートナーと考えるようになり、明治27年、萬作に、分店の暖簾分けと、妻リンの妹ナヲとの縁談を持ちかけた。こうして「薬舗 藤村萬盛堂」は、明治27年(1894年)610日に創業した。

同年7月、日清戦争が勃発。兵站港長崎は活況を示し、藤村萬盛堂の売り上げも急成長した。明治30年、九州の有力薬業者が共同出資して設立した九州製剤卸売合資会社の出資者に名を連ね、藤村萬盛堂は早くも長崎の有力企業として認められるまでになった。明治38年には、長崎市商工会の幹事に選任され、明治40年には金三郎の薦めで共に長崎市議会選挙に立候補し、当選を果たす。

結婚して13年、まだ子がなかった萬作は、弟藤七の、10歳になる次男坊を養子に迎えたいと考え、明治41年春、正式に養子として貰い受けることになった。その子も萬作という名だったので、祖父の名をもらい「幸七」と改名する。幸七はすくすくと育ち、九州薬学専門学校(現在の熊本大学薬学部)に進学、後継者としての道を歩み始める。

大正9年、順風満帆と思えた萬作に突然の不幸が訪れる。1125日、肺炎を起こし病状が急速に悪化、幸七の卒業を目前にして帰らぬ人となったのである。享年59歳。志半ばにして倒れた父萬作の遺志を継ぎ、幸七は藤村を長崎の有力企業として、しっかりと育てていく。





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