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[経営者たち] 二代目 藤村萬作 
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P19 藤村薬品(株)二代目社長


【社長在任期間】
1920年(大正9年)~1969年(昭和44年) 藤村薬品(株)((株)藤村商店、藤村幸盛堂、萬盛堂薬局、薬舗藤村萬盛堂)


初代萬作の弟藤七の次男として生まれ、10歳のときに伯父である初代萬作の養子となる。1920年、薬学校の卒業を目前にして初代萬作が急逝。翌年、薬剤師となり入店し、二代目 萬作を襲名。抜群の商才で着実に事業を拡大し、藤村薬品を近代企業へと成長させるとともに、1957年の諫早豪雨では、県薬務課と共に利益を度外視して防疫用薬品の調達に奔走するなど、その誠実な人柄とリーダーシップで信望を集めた。




二代目藤村萬作
1899年(明治32年)6月 誕生
1994年(平成6年)2月 死去


生涯のあらまし

【経歴・お人柄等】

二代目藤村萬作は、初代萬作の弟藤七の次男として延岡市で生まれた。
1908年(明治41年)、子供がいなかった初代萬作の養子となった。その後、後継者となるべく九州薬学専門学校(熊本大学薬学部)に進学、卒業を目前に控えた1920年(大正9年)初代萬作が急逝、翌年、薬剤師となり藤村萬盛堂に入店、二代目萬作を襲名した。

1929年(昭和4年)長崎湾内船の発着場となる大波止に店舗を移転、店は多くの乗客で大繁盛し、離島の得意先との取引きも急激に増えた。海運業への進出や上海への出店計画、温泉病院の建設計画など、本業の傍ら積極的に事業拡大を図った。しかし、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦により、順調だった海運業は継続不可能となり上海出店と病院建設の計画も断念、1945年(昭和20年)敗戦を迎え、上海に貯えていた事業資金は没収、夢は無に帰してしまった。

なんとか原爆の難を逃れ、店も残った二代目萬作は、懇意にしていた大阪の問屋から医薬品を融通してもらい、医薬品供給の社会的使命を果たした。戦後の混乱の中、二代目萬作の誠実な人柄は人望を集め、業界の要職を務め、大波止の店舗には離島の顧客からの引き合いが増え藤村の知名度は広範囲に浸透していく。その後、価格競争の激化や占領下の国税査察による追徴税、朝鮮戦争終結後の大不況により、深刻な経営難を迎えた。

昭和30年代に入り厳しい経営が続く中、一度撤退した佐世保の市場開拓の成功や、離島のシェアアップにより業績は少しずつ好転し、1961年(昭和36年)の国民皆保険の施行で売上げは毎年数十パーセントの伸びを記録するに至った。
1969年(昭和44年)、経営の安定を見極めた二代目萬作は長男の哲朗に社長を譲り、自身は会長に就任、その後も藤村中興の祖として後進を見守り続け、1994年(平成6年)2月、創業100周年の年に96歳の天寿を全うした。





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