一般公開
全文検索
お知らせ 各社の
歴史
経営者
たち
資料室 アーカ
イブス
薬業史   
NOW : 2024/03/29 20:04
[各社の歴史] 宮崎吉村薬品(株) 
「みらい創生史BOOK」用Fコード検索

設立:1958年(昭和33年)宮崎市



歴史の概要

吉村薬品の宮崎進出で地元猛反発。

宮崎吉村薬品(株)は1953年(昭和28年)の吉村陸郎他による吉村薬品延岡出張所の開設を経て、神都薬品卸部門を承継する形で、1958 年(昭和33年)に宮崎市に設立された。宮崎吉村薬品は発足当初吉村、宮崎へ進出として警戒され、二代 益次が、宮崎県卸組合の会合に出席し「安売り乱売は絶対しない。宮崎県の薬業界発展のために注力したい」と、企業理念を宣言したといういきさつがある。1961年(昭和36年)延岡支店を吉村薬品より引継ぎ、江平町の新本社に移転。1965年(昭和40年)に吉村陸郎が社長に就任した。
1964年(昭和39年)に九州南ブロックの宮崎吉村薬品吉村薬品ヤナイ薬品ヨシマツ薬品の4社でダイヤ会を設立。同4社が1992年(平成4年)に合併設立した(株)ダイコーを経て1998年(平成10年)株式会社 アステムとなった。

宮崎吉村薬品本社屋
https://forestpedia.jp/data/file/photo/2578637958_f65ff18d_F13_E5AEAEE5B48EE59089E69D91E7A4BEE5B18B.jpg




宮崎吉村薬品ロゴ


詳細

◆共存共栄こそ我社の理念

発足当初は“吉村、宮崎へ進出”として警戒され、また地元新聞には「吉村資本の宮崎進出は薬業界に革新を起こし、波乱をもたらすだろう」とまで報道されたという。

予想はされたが、吉村の真意が伝わってない事を察知した当時の吉村社長(故吉村益次最高顧問)は、宮崎県卸組合の会合に出席し、「安売り乱売は絶対しない。宮崎吉村は地元法人であり、県内の同業者と協調相融和し、宮崎県の市場安定化と薬業界発展のために注力したい」と、企業理念を宣言したという。しかしお得意先を取り込んで県外業者を阻止しようとする同業者の動きは並々ならぬものがあり、それを乗り越え同業者やお得意先からの理解・信頼を得るまでには相当の月日を要した。

「健康と文化に奉仕するクスリのヨシムラ」を心のささえとして、「先ず大声で」をモットーに全員が力を合わせ骨身を削った。そのため当時の社員は皆声が大きかったそうで、今もなお不易として、宮崎営業部の社内には大きい声が飛び交う。


宗太郎峠を越え五ヶ瀬河畔から県都ヘ

吉村薬品(大分県)は、戦前から県境を越え宮崎県内へも出張販売していたが、1953年(昭和28年)5月に延岡市柳沢町に出張所を開設した。吉村陸郎顧間、吉村富士男氏、佐藤州一管理薬剤師の3人に辞令が出た。五ヶ瀬川に面した木造家屋の粗末な住宅兼倉庫・事務所でスタートした。宮崎県は台風銀座と言われ大型台風が何度も直撃し、高千穂鉄道の決壊や河川の氾濫、国道の陥没が相次ぎ、床上浸水の中近くの延岡警察署に避難したり、台風の中自転車を担いでお得意先訪問一番乗りを果たし感銘頂いたこともあった。注文品を大風呂敷で包み、下駄履き、ジャンバー姿で日向、都農、高鍋、宮崎、都城まで汽車やバスで行き、各駅から自転車に積み替えお得意先回りをしていた。

1955年(昭和30年)には旭化成などの大口取引先が増えたため、幸町へ移転して支店に昇格し、同時に篠原修氏(元ヨシマツ薬品社長)が赴任してきたが、まだまだ吉村の知名度は低く、お得意先開拓やメーカー帳合もままならなかった。

宮崎県の県庁所在地に拠点がなく営業もやりにくいことから、いずれ宮崎市に拠点を構える必要があると考えていた矢先、タイミング良く、三共、田辺系の卸であった神都薬品の卸部門を吸収継承することとなり、1958年(昭和33年)8月25日、宮崎市橘通5丁目24番地に、資本金250万円、社員24名で宮崎吉村薬品が産声をあげた。橘通りといえば市の中心街であったが、会社はその裏通りの木造倉庫を改造した低く暗いバラック建倉庫兼事務所でのスタートだった。隣組には現在の「寿屋」さんがおり、信仰の厚い寿屋さんは合掌と太鼓で、宮吉(宮崎吉村の略称)は大声で社歌斉唱と、共に大分県出身のライバル同士は毎朝の朝礼から競い合った。

ところで設立交渉のため隠密行動をとり空路大阪からフレンドシップ機で宮崎入りした当時の吉村益次社長であったが、何とその翌日には業界関係者にバレてしまったそうだ。今となっては笑い話だが、当時の飛行機は高価な乗り物で、搭乗者名簿を毎日地元の新聞が掲載していたからだという。


日豊線手形

設立以来、辛駿苦難の日々が続いた。不振の原因を探求し、朝礼を7時30分に行い、全員で「社歌」や「幸せの歌」を大声で歌ったこともあった。出発を他卸より早くしたり、特売や拡売の時は集中訪問を行うなど積極的な営業活動を展開したが、その割には思うように業績は向上しなかった。第二期も売上高7,500万円、欠損金107万円と赤字だった。

当時の宮崎県はメーカー筋では「日豊線手形」と称され、不渡り手形が日常茶飯事だった。卸からのメーカー支払いで手形をもらっても平気で不渡りになり、手形といっても紙切れ同然だったという。またお得意先も卸に右に習えの不渡り常習犯や、盆・暮れ払いも多く、売掛回収の習慣を直し改善するのに大変苦労し、時には回収を巡って激しくやりあったケースもあった。

業績不振の原因は売上と経費のバランスが取れないためだった。方策として先ず売上を上げることに集中し、売上を上げるための社員志気昂揚策をいろいろと考えたという。野坂直氏(元ダイコー副社長)のアイデアで、朝会時の30分をリズム音楽を聴いたり、合唱をしたり、次には学術発表と次々と実践していった。そのうちバランス面は何とか格好がついたが内容はお粗末なもので、特売の連続による売上高の達成のため回収も無理な手形回収となり不渡りの連続だった。毎朝不渡り事故について陸郎専務から気合を入れられながらも、内容は次第に改善されていった。コツコツと地道な努力が実を結び、次第にお得意先の信用を得るようになり、第三期には売上高は1億円を突破し、黒字に転換し、経営はようやく軌道に乗った。


よし、ここだ!、こここそ宮崎の拠点だ

業界にとって画期的な出来事だった国民皆保険制度が完全実施されたのは1961年(昭和36年)の4月、この年は宮吉にとっても記念すべき年となった。1961年(昭和36年)の11月、3年間の辛抱を経て、現在地の江平町に鉄筋コンクリート2階建ての新社屋が竣工し、将来の業績拡大に対応出来る宮崎における中核拠点を確保した。用地選定にあたっては当初は県立宮崎病院付近を候補地としていたが、益次社長が来宮し、将来の宮崎市の発展やモータリゼーションの進展、交通事情等の変化を判断して、「よし、ここだ!」とひらめき江平町に決定したいきさつがある。同時に延岡支店を大分吉村薬品より引き継ぎ、社員総数58名となった。吉村陸郎専務、篠原修常務(管理部門)、佐藤次朝取締役(営業部門)、新穂尚部長(特殊薬品部門)の体制であった。


エレジー、ブルース唄って、トップを狙う

その後、1963年(昭和38年)5月、都城出張所開設(39年に支店昇格)、1965年(40年)には日南、1967年(42年)には小林にそれぞれ出張所を開設(それぞれ1973年(48年)および1976年(51年)に支店昇格)業績もまたたく間に拡大成長した。

「♪♪朝は はようから起こされ、 めしを食う間もないままに、 走って行きます 会社まで、 ああ オレたちゃ 営業マン♪♪」(営業ブルース)や、「♪♪至急の配達出たけれど、 バタヤに良く似た服装で、 行かなきゃならないこのつらさ、可愛あの娘のいる店に♪♪」(倉庫員悲歌〈エレジー〉)など、共に当時流行った「受験生ブルース」の替え歌を皆で考えたそうだが、社員の間で苦しい時にも微笑ましい時にも良く歌われていた。それにしても前述の「営業員エレジー」も含めて当時の宮吉の職場の雰囲気、社風が推し量れる歌詞である。

宮吉の躍進を支えたのは、①新規開業先をまずはターゲットに絞り込んだこと、②既存の卸とは社員の気構えの面で違ったこと、③オートバイ部隊を始めとする機動力ある営業部隊を展開したこと、④初荷の時の粋な揃いのハッピ・ハチマキ姿や威勢の良い打ち込みなどの斬新さを売り物にお得意先にアピールしたこと、⑤ 「何としてでも売ってこい」という営業幹部の強い指導力が発揮されたこと、⑥営業・倉庫・管理のチームワークが良く、アットホーム的な社風だったこと、等が挙げられる。創業8年目の昭和40年度には売上高10億円を突破し、創業の10年後、ついに念願かなって宮崎県のトップ卸の地位を獲得した。


https://forestpedia.jp/data/file/photo/2048189031_91509072_E5AEAEE5B48EE59089E69D91_E69CACE7A4BE.png

大分弁<宮崎弁への10年間

1965年(昭和40年)6月、益次会長、代表取締役社長・吉村陸郎体制に移行した。そして超高層ビルの走りとなった霞ヶ関ビルが完成、知的犯罪の極みであった3億円事件が発生した1968年(昭和43年)、この年めでたく創業10周年を迎えた。これまでの得意客に感謝し一層の飛躍をはかるため、県内の薬店、医師、メーカー関係者、県・市町村長など来賓800名を招き、盛大に創立記念式典が開催された。売上高は創業当時の月額平均6百万円から1億円台に伸長し、請求書作成にコンピュータを導入した年でもあった。社内では大分県出身者が多いせいか大分弁が公用話だったが、地元との密着度を強めるにつれて宮崎県出身者が少しずつ入社し始め、この頃から宮崎弁がそのシェアを逆転し始めた、かつて宮吉がシェアナンバーワンを奪取した勢いそのもので。これは宮吉が地域に受け入れられ浸透し始めた証であり、地元卸として成長するための強力で最大の財産である人材を得ることになった。以来、優秀な人材が続々と営吉の門を叩くようになり、その事が社業発展の礎となった。


「陸ちゃんは元気か?」とお得意先

1980年(昭和55年)6月、延岡支店の新社屋が完成。吉村益次商店以来、陸郎顧問が宮崎県に最初の一歩をしるした記念すべき地区であったせいか、お得意先から「陸ちゃん、おめでとう」と大変な祝福を頂いた。また県北地域を営業活動している営業員も、お得意先から「陸ちゃんは元気か」と聞かれて面食らうことがあったそうだ。若き時代から変わらずに豪快な陸郎顧問のファンは県内に多くいるということ。

陸郎顧問は語る。「父である初代益次は、いわゆるスパルタ教育、兄貴には絶対服従と常に言い聞かされた。自分はある時、布団干しから落ちて頭を打ったんで、それから頭が悪くなったのかもしれない(笑)。兄貴である二代益次(四男)は真面目一本という人柄だったが、重喜(五男、元コーヤク社長)は親分肌で仕事も遊びにも長けており、取り巻きも多かった。自分は六男だから、“むつろう”の意味で陸郎と名づけたのではないか(笑)。慶元(八男、現最高顧問)とは4才違い。自分は口下手で、人の良い、内気な人間なんだ、本当は。モットーとしていることは『人に迷惑をかけない』ことかな。船釣りが好きだし、ゴルフもそれなりに…。」と。しかし、地道でオーソドックスさを基本とした度量の大きい熱血漢であることは、常に率先垂範してきた今までの生き様、指導を受けた多くの社員たち、そしてお得意先、メーカーさんの言動で十分に見て取ることができる。


宮崎吉村薬品の土壊を経験した者の中から、過去もそして現在も多くの経営幹部が輩出していること自体が、いわゆる「吉村陸郎学校」の存在価値を証明する証かもしれない。


おかげさまで30年、常に感謝の心で

1985年(昭和60年)10月、日向支店を開設、これで本社と5支店体制が整った。そして翌1986年(61年)、念願の売上高100億円を突破、県内の企業ランキングでもベスト10の常連となった。

この頃から地域への還元事業として、宮日母子福祉事業団や日赤などへの寄付活動を実施し始めた。また地域に対する奉仕活動として、会社の周辺の清掃活動や空缶拾い、草刈りなど、定期的に社員総出で行うようになった。後のDVC (ダイコーグループ・ボランテイア・クラブ)のボランティア活動でも、過去からの経験。実績を十分に活かしながら、宮崎は他の地域の模範となる活動を率先して継続しており、社内はもちろん地域社会からも高い評価を得るまでになっている。

そして1988年(昭和63年)8月、創業30周年を迎えた。「おかげさまで30年、みなさまのよりよい健康を願って…」、「感謝の心で30年、力をあわせ、未来を拓こう!」。新たなスローガンで、次の30年の新たな社歴を創造するため再び歩み始めた。1989年(平成元年)4月の薬粧部門の分社独立による(株)創健の誕生、1992年(平成4年)4月の(株)ダイコー誕生によって、1953年(昭和28年)の延岡出張所開設以来の40年に及ぶ吉村陸郎の陣頭指揮による宮崎エリアの歴史は発展的に解消し、(株)ダイコーを経て(株)アステムヘと受け継がれていくことになった。その後は「宮崎の重鎮」として、大所高所からご示唆、ご支援をいただきながら今日に至っている。


https://forestpedia.jp/data/file/photo/2048189031_808fc71d_E5AEAEE5B48EE59089E69D91E38386E382B9E38388.jpg




沿革

1958年 昭和33年 08月 宮崎吉村薬品(株)設立
1961年 昭和36年 11月 延岡支店を吉村薬品(株)(大分市)より引き継ぐ
1961年 昭和36年 12月 本社新社屋竣工(宮崎市江平町1-2-1)鉄筋2階建
1963年 昭和38年 05月 都城出張所開設
1964年 昭和39年 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品でダイヤ会 発足
1965年 昭和40年 06月 吉村益次 会長へ、 吉村陸郎 社長に就任
1965年 昭和40年 08月 日南出張所開設
1967年 昭和42年 04月 小林出張所開設
1968年 昭和43年 05月 創業10周年記念式典開催(宮崎神宮ジャイアントフラワー)、来賓800名招待。
1969年 昭和44年 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で本部会社㈱ダイコー設立
1970年 昭和45年 10月 宮崎本社増改築。屋上に大看板「クスリのヨシムラ」→以後、旅行する人の道しるべとなる。
1972年 昭和47年 04月 特殊品事業部がヨシムラ産業として独立。→S49.4 サン・ダイコーに改名。
1976年 昭和51年 04月 メディカルヨシムラ独立(その後、S54.3 ヨシムラ医療器に吸収、解散)
1977年 昭和52年 09月 20周年記念式典開催(別府杉の井ホテル、社員180名・サンダイコー、ダイヤ、メディカルヨシムラ含む)
1978年 昭和53年 03月 宮崎本社増改築竣工および記念式典開催(お得意様、関係者約400名)
1983年 昭和58年 08月 創業25周年記念式典。(サンホテルフェニックス)
1985年 昭和60年 10月 日向支店開設
1987年 昭和62年 09月 薬専配送センター竣工
1989年 平成元年 03月 創業30周年 記念講演会「聖路加看護大学学長 日野原重明氏」
1989年 平成元年 04月 薬専部門分離 → (株)創健設立
1992年 平成4年 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品が合併し(株)ダイコー設立



歴代経営者

二代 吉村益次
任期:1958年 (昭和33年) ~ 1965年 (昭和40年)
吉村陸郎
任期:1965年(昭和40年)~1992年(平成4年)



著作や参考文献




セレクト画像・映像


宮崎吉村薬品(株)のディスカッション

1:
書籍APIとWEBAPI用の記述をFHD内で協議の上修正
Posted By 監修者 at 14-07-02 16:50