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[各社の歴史] 藤村薬品(株) 
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創業:藤村萬盛堂 1894年(明治27年)長崎



歴史の概要

創業者は初代 藤村萬作。「藤村萬盛堂」は藤村薬品の源流企業。

1894年(明治27年)、長崎で藤村萬盛堂を創業。創業者の初代藤村萬作は、伊予(愛媛県)生まれで、行方不明の兄を探しに長崎に向かい、長崎の将来性を感じて「薬舗 西脇金星堂」に奉公した。西脇金星堂が業務を拡大するにつれ、初代萬作は新設された大浦分店の主任に抜擢され、その後「薬舗 藤村萬盛堂」として独立した。二代目 萬作は大波止に社屋を移転。1946年に「(株)藤村商店」に、1958年には藤村薬品(株)に改称。1978年、九州北ブロックの共栄協組に加入。1998年のアステムヘルスケア発足時には、薬専事業部を営業譲渡、さらに2000年 には、サン・ダイコーに動物薬事業を営業譲渡した。2005年にはアステムと業務提携、その後の資本提携を経て、2007年にフォレストグループに再合流した。2014年10月、メディカル部門をアステムに営業譲渡。

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藤村薬品本社屋


藤村薬品(株)ロゴ


詳細

◆長崎へ

藤村薬品の創業者、初代藤村萬作は、1862年(文久2828日、伊予八幡浜で、3人兄弟の次男として生まれ、十代の後半には「伊予かすり」の行商で九州一円を廻っていた。明治1415年頃、行商に出た兄の幸作が一向に家に帰らず心配していたところ、長崎にいることがわかり、連れ戻すため萬作は単身長崎に向かった。幸作はその後八幡浜に戻ったが、連れ戻しに行ったはずの萬作が、活気溢れる国際都市長崎に魅せられてしまった。


◆薬業との出会い

兄の帰郷を知った後も、萬作は長崎の街に自らの将来を感じて職を求めた。1885年(明治18年)12月、唐薬の輸入販売と自家製剤の製造販売を営む「薬舗 西脇金星堂」に就職する。入社5年目、身を粉にして働いた萬作は1890年(明治23年)、外国人居留地、大浦相生町に出店する分店の責任者に抜擢される。大浦は、領事館やホテル、貿易商社、劇場などが立ち並ぶ最先端のエリアで、大浦分店は予想を超える成功を収めた。


◆藤村萬盛堂の誕生と隆盛

分店での仕事ぶりを見た当主の西脇金三郎は、次第に萬作をパートナーと考えるようになり、1894年(明治27年)、萬作に、分店の暖簾分けと、妻リンの妹ナヲとの縁談を持ちかけた。こうして「薬舗 藤村萬盛堂」は、1894年(明治27年)610日に創業した。同年7月、日清戦争が勃発。兵站港長崎は活況を示し、藤村萬盛堂の売り上げも急成長した。1897年(明治30年)、九州の有力薬業者が共同出資して設立した九州製剤卸売合資会社の出資者に名を連ね、藤村萬盛堂は早くも長崎の有力企業として認められるまでになった。1905年(明治38年)には、長崎市商工会の幹事に選任され、1907年(明治40年)には金三郎の薦めで共に長崎市議会選挙に立候補し、当選を果たす。


◆二代目藤村萬作の継承

結婚して13年、まだ子がなかった萬作は、弟藤七の、10歳になる次男坊を養子に迎えたいと考え、明治41年春、正式に養子として貰い受けることになった。その子も萬作という名だったので、祖父の名をもらい「幸七」と改名する。幸七はすくすくと育ち、九州薬学専門学校(現在の熊本大学薬学部)に進学、後継者としての道を歩み始める。
1920年(大正9年)、順風満帆と思えた萬作に突然の不幸が訪れる。11月25日、肺炎を起こし病状が急速に悪化、幸七の卒業を目前にして帰らぬ人となったのである。享年59歳。1921年(大正10年)6月、薬剤師となった幸七は再び改名し、二代藤村萬作を襲名する。第一次世界大戦による戦時景気の反動の不況に見舞われる中、二代萬作は、先代から引き継いだ自家製剤や、医家向けの販路を拡大し、着実に経営基盤を固めていく。

◆大波止への進出

1923年(大正12年)2月、上海航路が就航した。出島に岸壁が築造され、長崎駅から岸壁まで臨海線が開通、長崎港は、東洋一の国際都市上海と東京を最短で結ぶ玄関口となった。また、臨海線周辺の大波止が埋め立てられ、分譲されることになった。二代萬作は、この埋立地に何度も足を運んだ末、ここに店を移転することを決意する。
1929年(昭和4年)6月に移転した新店舗の辺りが湾内船の発着場となり、多くの乗客で大変な賑わいをみせ、対岸にある三菱造船所の退社時間には、夕食もとれないほどの忙しさであった。また離島航路の発着場でもあり、離島の医院や薬局との取引が急激に増えた。この時に店名を「藤村幸盛堂」へと変更している。
太平洋戦争突入前の昭和12年、二代萬作は海運業の経営に乗り出した。当時は中国で商売をする人が多く、上海航路による海運業に商機ありと判断したためで、事業は順調に推移したが、1941年(昭和16年)の開戦により船が軍に徴用され、事業の継続が不可能となった。

その後、上海で出会った中国の日系薬品卸、重松薬房の重松為治に触発され、上海への出店を計画するが、戦局の悪化によって、この夢も捨てざるを得なかった。さらに重松と共同で、温泉併設の病院建設を計画し、ボーリングを行ったが、掘り当てることができず断念した。こうして敗戦を迎え、上海に貯えていた事業資金は没収、夢は無に帰してしまった。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)89日、長崎市に原子爆弾が投下された。幸い二代萬作は無事で店も残った。その後物資の欠乏が続いたが、懇意にしていた大阪の問屋から、乏しいながらも医薬品を送品してもらい、薬業人としての使命を果たした。

◆個人薬局から株式会社へ

戦後の物資不足はインフレを引き起こし、政府は対抗策を断行、個人事業所は事業資金に厳しい枠をはめられる恐れが出てきた。そこで資金枠が大幅に広がる法人化を決意、1946年(昭和21年)2月、株式会社藤村商店が、資本金10万円で発足する。品不足の中、大波止の本店には離島の得意先が船で訪れ、藤村の知名度は広範囲に浸透していった。二代萬作の誠実な人柄は信望を集め、1948年(昭和23年)に長崎県地方医薬品配給株式会社から改組された長崎地販協会の初代会長に就任する。この頃、公定価格廃止による競争激化、占領下の税制改正に伴う大規模な国税査察による追徴税や、朝鮮戦争終結後の大不況により、藤村商店は深刻な経営難を迎える。


◆三代目後継者の入社

苦しい経営が続く1950年(昭和25年)、父と同じ熊本薬学専門学校を卒業した長男哲朗が、藤村商店に入社する。二代萬作は、従来の経営手法の限界を悟り、哲朗に近代経営を学ばせるため、神戸の三星堂での修行を命じた。


◆経営の悪化と近代経営への転換、商圏の拡大

1957年(昭和32年)7月25日、諫早市を中心とした県南地区は1時間に177ミリという集中豪雨に見舞われ、死者815人、重軽傷者3738人という大災害となった。藤村商店は県薬務課と共に防疫用薬品の調達に奔走した。寸断された陸路を経て福岡から空路大阪に入り、大阪府庁と交渉し医薬品を確保、船便で送った結果、4万人の被災者から1人の伝染病も出ることがなかった。医薬品はほぼ他社取引で、利益は全くなかった。

社名を藤村薬品株式会社に改称した1958年(昭和33年)頃は、神武・岩戸景気で賃金は上昇するが、医療費が3年間据え置かれた。その結果、保険財政の危機は脱出できたが、得意先の経営が悪化し、支払いの遅滞が続出、卸の資金繰りが悪化した。さらに高度成長期突入に伴う過当競争も経営悪化に拍車をかけた。

1959年(昭和34年)には佐世保出張所を開設。この10年ほど前にも市場開拓に取り組んだが、無謀な競争を避けるため開拓を中断、この時は二度目の挑戦で、懸命な努力の結果、業績を伸ばし、1964年(昭和39年)に支店に昇格、1966年(昭和41年)に哲朗の次弟で常務の健次が支店長として着任。健次は地元に溶け込むため本籍を佐世保に移し、終生県北の要として活躍する。


1962年(昭和37年)9月26日、福江大火が発生。開所を翌日に控えた五島出張所も全焼するが、仮設店舗で救援医薬品を提供した。五島には終戦後、大波止の本店で二代萬作の人柄に触れた得意先が多く、トップシェアを獲得する。

1965年(昭和40年)、大波止の本社が手狭となり、扇町に移転、近代的薬品卸として再スタートを切ったが、配送手段がバイクから車に代わったため、駐車場の確保が急務となり、13年後、再び本社を移転することになる。


◆社長交代と近代的経営の加速


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1961年(昭和36年)に施行された国民皆保険や大衆薬の大量販売により、医薬品卸の売り上げも、数十パーセントの伸びを続ける。この時期、医家向けの比率が急速に高まり、40年代後半には医家向けの販売が8割を超えた。1969年(昭和44年)、二代萬作は会長に就任、哲朗が社長に就任した。激変する経営環境の中、哲朗は収益性重視の経営を実践し、その成果は着実に現れてくる。
経営が安定すると積極策に転じた。昭和48年に県外初進出となる武雄出張所を開設、1975年(昭和50年)には五島支店を新築。1977年(52年)に資本金を1千万円、1978年(53年)には2千万円に増資する。同年、商品管理、物流体制の強化と駐車場確保を目的に、長崎市田中町に造成された卸団地へ本社を移転、翌年には大村営業所を開設する。
1981年(昭和56年)、二代萬作の時代から交流があった諫早の重松薬房との合併に踏み切る。同年、佐賀医科大学の新設に合わせ、佐賀営業所を開設した。1982年(昭和57年)7月23日、記録的豪雨が長崎を襲い、死者・行方不明者262人という大災害となった。幸い本社は被害を免れたが、電気・水道は停止、本社は陸の孤島となった。その中で、長崎県や県警と連携をとりながら、緊急医薬品の輸送・防疫対策に奔走した結果、1件の伝染病も発生せず、長崎市長から感謝状が贈られた。
昭和40年代前半以降、売上げは5年間で2倍となったが、経常利益は低迷した。このような中、販売管理の高度化が急務となり、1981年(昭和56年)に電算システムを導入、これにより、売掛・販売管理は効率化し、科学的な分析に基づく経営が可能となった。


◆新社長誕生とフォレストグループへの参加

1984年(昭和59年)に上五島連絡所を開設、1985年(昭和60年)、島原営業所開設の年には、哲朗の長男昌憲が、3年間の三星堂での修行を終え、藤村薬品に入社した。1987年(昭和62年)、医療材料や介護用品を扱うコーセイメディカル部を新設。平成元年、資本金を1億円に増資。1992年(平成4年)4月に完全建値制が施行され、30年余り続いた商慣習が一挙に変化した。
 1990年(平成2年)、藤村薬品が加盟していた共栄医薬品卸協同組合の各社が共同出資して設立した、キョーエイ・システム(株)に薬粧業務を委託する。1993年(平成5年)5月、県北を支えた哲朗の次弟健次が61歳で永眠。創業100周年の1994年(平成6年)2月、中興の祖、二代萬作が96歳で永眠する。1996年(平成8年)7月、藤村昌憲が4代目社長に就任し、哲朗は会長に就任する。同年11月、会長就任から4ヶ月余りで哲朗が永眠、67歳だった。


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1998年(平成10年)、藤村薬品が加盟する共栄医薬品卸協同組合の3社が合併して設立したキョーエイ薬品(株)と、南九州4県の卸が合併して設立した(株)ダイコーが統合し、株式会社アステムが発足。両社の薬粧事業を統合して設立された株式会社アステムヘルスケアに、藤村薬品の薬粧事業部を営業譲渡する。
2000年(平成12年)、アステムのグループ会社(株)サン・ダイコーに動物薬事業を営業譲渡。2004年(平成16年)に施行された国立病院機構の共同購入により、藤村薬品のような地域卸による単独入札が難しくなった。そんな折、懇意にしていたアステムの社長、吉村恭彰からグループ入りの話を受けた。考えた末、昌憲はアステムフォレストへの参加を決断した。
1998年(平成10年)、藤村薬品が加盟する共栄医薬品卸協同組合の3社が合併して設立したキョーエイ薬品(株)と、南九州4県の卸が合併して設立した(株)ダイコーが統合し、株式会社アステムが発足。両社の薬粧事業を統合して設立された株式会社アステムヘルスケアに、藤村薬品の薬粧事業部を営業譲渡する。

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1968年(昭和43年)に共栄医薬品卸協同組合に加盟して以来、37年の歳月をかけて築いた信頼関係に基づくグループ入りであった。2008年(平成20年)には佐賀営業所をアステムに営業譲渡し、長崎県に集中する体制を整える。2011年(平成23年)に、長崎市中心部の配送力強化を目的とした興善町フロントを開設、2013年(平成25年)には佐世保京町フロントを開設。10月には長崎第一営業所・第二営業所・浦上営業所・島原営業所をそれぞれ支店に昇格した。2014年10月、メディカル部門が、アステムメディカル社・天愚堂と統合し、アステムメディカル社長崎支店となった。
明治18年、長崎に魅せられ、薬業の世界に飛び込んだ萬作青年の夢は志となり、後輩達に受け継がれ、「長崎の藤村」として、今も地元の医療を支え続けている。





沿革

1862年 文久2年 08月 初代藤村萬作愛媛県八幡浜で生れる 父 幸七 母 チヨの二男
1885年 明治18年 12月 萬作「薬舗西脇金星堂」就職
1894年 明治27年 06月 西脇金星堂大浦分店を譲り受け独立 薬舗藤村萬盛堂 長崎県西彼杵郡戸町村大浦内一四四番戸(現長崎市大浦相生町)
1908年 明治41年 05月 萬作(二代目)を幸七に改名
1911年 明治44年 03月 幸七を萬作・ナヲの養子として入籍
1920年 大正9年 11月 初代萬作永眠(五八才)
1921年 大正10年 01月 幸七 二代目萬作を襲名
1921年 大正10年 03月 萬作九州薬学専門学校卒業
1921年 大正10年 06月 薬舗を継承し萬盛堂薬局に名称変更
1929年 昭和4年 長崎市元船町五丁目十五番地 新築落成 木造二階建て四六坪
1946年 昭和21年 02月 株式会社藤村商店発起人会 代表取締役 藤村萬作 取締役 藤村芳子 藤村哲朗 川原辰之進 笹村球吾 監査役 藤村啓子 鍵山三郎
1946年 昭和21年 07月 株式会社藤村商店設立 資本金10万円
1958年 昭和33年 07月 藤村薬品株式会社に改称
1958年 昭和33年 09月 藤和会(薬局薬店のグループ)結成
1959年 昭和34年 01月 佐世保市潮見町に佐世保出張所開設 所長 中瀬清治
1959年 昭和34年 03月 福江氏福江町に中央薬局開設
1962年 昭和37年 09月 五島出張所開設 所長 松田英雄 福江市大火により解説直後の焼失
1965年 昭和40年 01月 長崎市扇町一二ノ二三に新築移転 旧社屋は大波止小売部とする
1967年 昭和42年 07月 福江市集中豪雨 五島出張所 被害水位一、四m
1968年 昭和43年 06月 九州医薬品共栄協同組合に加入
1969年 昭和44年 05月 藤村哲朗社長に就任 藤村萬作会長に就任
1969年 昭和44年 06月 大波止営業所開設 所長 円城寺紘
1969年 昭和44年 08月 本社事務所三階増築(扇町)
1971年 昭和46年 06月 株式会社重松薬房と業務提携 森西政義 取締役就任
1972年 昭和47年 11月 扇町本社三階建 事務所増築
1973年 昭和48年 08月 武雄出張所開設 所長 円城寺紘
1974年 昭和49年 04月 扇町本社一階車庫の部分を事務所に改装
1978年 昭和53年 02月 本社新築移 長崎市田中町二〇二二番地 旧社屋は浦上営業所となる
1979年 昭和54年 06月 浦上営業所火災発生 三階建倉庫一棟全焼
1979年 昭和54年 08月 大村営業所開設 所長 児玉孝彦
1980年 昭和55年 02月 大波止営業所を浦上営業所に統合
1981年 昭和56年 06月 株式会社重松薬房と合併 重松薬房旧本社は諫早支店とする 支店長 栗林慧
1982年 昭和57年 06月 大波止小売部を藤村薬局本店として分離独立
1984年 昭和59年 12月 上五島連絡所を開設 所長 中村忠明
1985年 昭和60年 11月 島原営業所開設 所長 紙英一
1987年 昭和62年 11月 コーセイメディカル部を新設 部長 浜辺安弘
1988年 昭和63年 04月 決算期三月を四月に変更
1990年 平成2年 薬専事業を㈱キョーエイ・システムに委託
1994年 平成6年 02月 二代目藤村萬作 永眠
1994年 平成6年 06月 創業一〇〇周年記念祝賀会
1996年 平成8年 07月 藤村昌憲 社長就任
1998年 平成10年 薬専事業部を㈱アステムヘルスケアに譲渡
1999年 平成11年 11月 大村営業所を諫早支店に統合
2000年 平成12年 動物薬事業を㈱サン・ダイコーに譲渡
2005年 平成17年 12月 アステムと資本及び業務提携
2007年 平成19年 アステムの 連結対象会社に
2008年 平成20年 佐賀県下の営業権をアステムに譲渡
2011年 平成23年 11月 興善町フロント配送センター開設(長崎市)
2013年 平成25年 04月 佐世保京町フロント配送センター開設(佐世保市)
2013年 平成25年 10月 長崎第一営業所・長崎第二営業所・浦上営業所・島原営業所を支店に昇格
2014年 平成26年 10月 メディカル事業を アステムに譲渡、メディカル社長崎支店となる
2021年 令和3年 04月 藤村尚賢 社長就任



歴代経営者

初代 藤村萬作
任期:1894(明治27年)~1920年(大正9年)
二代目 藤村萬作
任期:1920年(大正9年)~1969年(昭和44年)
藤村哲朗
任期:1969年(昭和44年)~1996年(平成8年)
藤村昌憲
任期:1996年(平成8年)~2021年(令和3年)
藤村尚賢
任期:2021年(令和3年)~



エピソード録

◆藤村薬品取材 紙地常務、山田監査役(2013年7月23日 井上)

先代の哲朗社長のエピソードや人となりなどを少し。 

紙地)
今の社長が三星堂さんから帰ってこられたのが、システムを立ち上げてホストを動かして、A-COSを入れて、専用端末のN5200シリーズを使っていた頃。 将来の幹部を育てるということで、哲朗社長が正月に宿題を出されたんですよ。京セラがあれだけの会社になった背景とか、稲盛会長に関する記述についてどう思うかとか、論文形式で出させるんです。それで9人選抜して、日曜日の朝から哲郎社長が中心になって経営にまつわる話とか、今読んでる本の感想を述べよとか、勉強会をするんですね、当時は土曜日は休みじゃなかったんです。

当時のメンバーはみんな次長クラスにはなったはずです。当時の役職は、主任・係長・副長・課長・次長・部長で、副長からが管理職、課長代理ですね、部長はほとんどいなくて、デポ長は次長なんです。 あと、資金繰りが厳しくてメーカーから責められるので、夜の巷に繰り出して泥酔させて、うやむやにしたということはよくあったと聞きました。(笑)
哲郎社長の妹さんの旦那さんで、当時専務で副社長までなられた川原和之さんという方が営業本部長的な役割をされて、哲郎社長とのコンビでメーカーさんからの評判は高かったですね。その下に志岐さん、森澤さんというのが営業ラインでした。外の専務、内の社長という感じでしたね。

ホストを入れて、コンピュータを入れて、データ分析、利益管理やり始めてから、債権管理とか債権短縮とか、だんだん会社の体質がよくなってきましたね。 私が35才のときですから30年前ですか、電算課を立ち上げた翌年に、ど素人集団が勉強して1年でメインフレームを動かしました。
昭和59年の5月にシステムを稼動させたんですが、若造の私が取締役会で提案したんですよ、システムを導入しないとだめだと。私も若かったので、がんがんまくしたてて導入の運びになったんですが、後日、ある飲み会のとき哲郎社長から「あのとき俺はお前から胸元に短刀を突きつけられた心持ちだった」と言われました。

 井上)
そのころ昌憲社長は入社されてなかったんですか。

紙地)
今の社長は三星堂で修行されてから、昭和60年の入社です。 システムを入れた後、修行から戻られて、哲郎社長から「君のところで一年預かってくれ」と言われまして、これからはコンピュータの知識も必要だということで。 

 井上)
哲朗社長のエピソードは? 

紙地)
豪快なイメージですね。ビールオンリーで、アサヒしか飲まれませんでした。懇意にしていた酒問屋がアサヒビールの代理店だったからだそうです。 スタンドとかバーなんかで飲むんですけど、ウイスキーとかキープしとって、私たちには飲ましてくれるんですよ、でもご自分はビールしか飲まないんです、それでビールが冷えてないと「氷持って来い!」って言われてました。

 とにかく会社の宴会でも、ビールを持って社員の間を回られてましたね。 昭和44年に社長になられて、私はその2年後に入社したんです。まだ浦上が本社の頃。川原専務がおられて、私は専務が社長かと思いました。お年も上で貫禄があったから。 井上)二代目萬作さんは平成6年、100周年のときに亡くなられたんですね。 山田)哲朗社長は三代目萬作を襲名しろといわれてたらしいんですけど、それがいやで、息子に襲名させるということにして逃げて、そのまま襲名しなかったと聞いたことがあります。そのとおりに行けば昌憲社長が萬作を襲名してたんですかね。

 井上)
哲朗社長のときは二代目萬作さんは完全に隠居さていたんですか?

 紙地)
お元気でしたよ、相談役で会社にもたまには来られてました。90歳超えてからも真向法とかいう体操をされて、出社されるときは小峯さんが番頭さんみたいな感じでお世話されてました。 

井上)
長崎水害のときに資料などが全部流されたんですか? 

紙地)
あのときはここに移っていて、全く影響なかったです。ただ、停電と断水が続いたんで、川原専務が陣頭指揮をとって保冷品あたりは浦上営業所に移しました。 昔の資料は大波止にあったんですが、古い資料は原爆でやられて全部なくなったんですよ。 それから、大波止から浦上、ここと、移転する間に処分してしまったのもあるかもしれません。
そういうこともあって、100年誌の編纂はかなり苦労されたそうですよ、ルーツを探るために四国の八幡浜まで行ったという話ですから。 コーヤクを筆頭にした共栄協組というのに昭和43年に加盟して、色んな委員会をつくって交流したいたんですが、哲朗社長はコーヤクの吉村重喜社長から非常に可愛がられとったそうです。「哲っちゃん、僕の隣に座れ」とか言って。あのとき藤村薬品も非常に勉強させてもらったんですね。
そのながれでダイコーさんとも親しくなったんですね。
 
梁井)
お二人が入社された頃の藤村薬品さんの規模はどれくらいだったんですか? 

紙地)
山田さんが昭和47年、私が46年の3月。あの頃、年商18億円くらいじゃなかったかな?重松さんと一緒になった昭和56年頃、目標100億円といってました。  

井上)
重松さんと昭和46年に業務提携して、その間10年くらいで、急激に売り上げが伸びてますね。 

紙地)
急激に伸びてます、倍々、右肩上がりの時代ですね。 その頃の在庫管理は、カーデックスという台帳で引き出して、手でガチャンとやってたんですよ、計算もメーカーの価格表を引きながら、女の子が一品ずつ手計算でやってましたからね。コンピュータなんてありませんから。昭和47年頃、ソニーのソバックスっていう化け物みたいにでかい電卓がきたんです、みんなそろばんでしたけどね。
営業は計算尺で何プロ引きとかね。会社から営業カバンと計算尺が支給されるんですよ。コピーなんかありませんからガリ版で書いて謄写版で青刷りですよ、集計。原価を手計算して、それを手計算でメーカー別集計するんですから、鉄筆で書いて間違ったらロウを垂らしてまた上から書く、役員会議の前なんか残業の連続ですよ。

タイピストの女子社員は花形でした、受注メモを持っていってタイピストに清書してもらうんです、複写になっていて、請求額を手計算で出して鏡にして請求書を出すんですよ。コンピュータが入ってから生産性が飛躍的に上がったんです。 

 井上)
藤村薬品の社風は? 

紙地)
一言で言えば「質実剛健」、「誠実」、地道に一歩一歩歩んでいくという社風ですね。これはずっと変わってません。本業以外のことに手をつけない。投資とか、そいういうことから弱体化するんだと、それが哲朗社長の信条でした。会議のたびに「営業は利益を獲得し、内勤が利益を留保する」、「請求書は社長の顔だ、絶対に汚してはいかん」といつも言われてました。


◆フォレストグループ参加の経緯と昌憲社長の誕生(藤村昌憲社長インタビュー) 


井上)
アステムとのことについて、決断に至った経緯をお聞かせいただけませんか? 

藤村)
共栄協組は昭和43年からですけど、その前の青雲会から、親父とコーヤクの重喜社長とのお付き合いがあって仲が良かったんですね。共栄協組ができたのが昭和33~34年で、うちが正式に参加するまでに10年あるんですが、その間も勉強会などに参加させていただいていました。
しかしエリアが離れているのもあって正式参加には至っていなかったんです。その後シンコーさんができたときに三九会の縁もあって、昭和57年に共栄協組に参加されて、北部九州の横串がつながったということじゃないかと思います。 重喜さんとうちの親父はとても気が合ったんです。

重喜社長が亡くなって、キョーエイシステムの話は進めていくんですが、さらにその先というところまでは行きませんでした。キョーエイ薬品ができたとき、藤村の承諾が必要だということで親父に話があって、それについては承諾したそうなんですが、「うちは入らないが、共栄協組には思い入れもあるし、続けたい」ということだったそうです。 そして平成8年に私が40才で社長になるんですが、あの時なぜ急に私を社長にすると言い出したのかはわからないんですが、その一年前に親父が健康診断を受けて、担当の先生に私が呼ばれて、「あんたの親父さんはちょっと難しかばい」と言われて、帰ってから弟と川原副社長に相談すると、黙っておいた方がいいだろうと、しかし途中から本人は気づいて、僕に社長を譲るという気持ちになったんじゃないかと。

そのときに、この後こうしろ、なんて話は全くなかったんです。 結局親父が亡くなったままに共栄協組グループという状態で、それから3年経ってアステムができたんです。そのとき今の社長と副社長が来てくださって「これからどうするんだ」と、それで「共栄協組には思い入れがあるし、その前の段階から、九州はひとつということでダイコーグループとも協力してきたので、これからもグループの一員として残していただきたい」と答えたんですね。 

結局そのときは正式参加には至らなかったのですが、OTCの仕入れはキョーエイシステムというかたちで一本化していたので、ヘルスケアだけはあのタイミングで一緒にさせていただいたんです。 正式にグループ入りした直接のきっかけは、国立病院機構のブロック入札の話が出たとき泰彰社長に「そろそろ考えた方がいいんじゃないか、きちんとしたかたちにしておいた方がいいぞ」と言われて、「それではお願いします」ということにさせてもらったんです。
ですから、繋がりとしてはとても深いんです。昨日今日の話ではないんですよ。 自分としてはよかったと思います、今まで築いてきた友好関係が大切にできたし、社員も喜んでますし、得意先に対するサービスも強化できたし。実際には、まだこれからの部分が多いですけどね。

梁井)
じっくりと丁寧にかたちづくってきたという印象がありますね。

藤村)
確かに合意形成をもとにというか、みんなで納得したからこそという部分はあると思いますよ。



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