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[各社の歴史] キョーエイ薬品(株) 
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設立:1994年(平成6年)北九州




歴史の概要

コーヤク、大石薬品、シンコー薬品の合併で「キョーエイ薬品」誕生。

1994年(平成6年)、コーヤク大石薬品シンコー薬品の3社が合併し、キョーエイ薬品(株)を設立。会長に慶元が、社長には大石忠雄が就任。合併に至るまで大石薬品とコーヤクは35年間、シンコー薬品が12年間の共栄協組を通じての協業活動があり、自然の流れの中での発展的な選択であった。

その後統合推進本部会社(株)アステム(福岡市)が設立されると、1995年(平成7年)ダイコーとキョーエイ薬品は業務提携を行い、合併に向けてのカウントダウンをスタートさせ、1998年(平成10年)ダイコーとキョーエイ薬品が合併し、(株)アステムが設立された。


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キョーエイ薬品(株)サイン


詳細

九州北ブロックの小倉薬局を中核に、市場環境変化に対応し協組内企業3社が合併。「キョーエイ薬品(株)」へ


前身となった小倉薬局の旗揚げ

1940(昭和15)益次大石忠次郎商店と共同経営で小倉薬局を発足させた。代表社員は大石の浜田宗四郎であり、大石系主力の会社であった。八幡製鉄、小倉造兵廠、門司鉄道局の三大手に対する販売権を譲り受けていたため、発足当時は好調であった。しかし1941(昭和16)の戦争開始とともに統制が強化されるにつれ、資材不足の深刻化と共に開店休業の状態となり、一方で空襲による被害が大きくなったため、浜田は郷里へ引き揚げた。

戦後になっても商売は一向に振るわず、営業権を吉村に譲渡、1946(昭和21)9月、吉村から三重野支配人が長岡を連れて小倉へ赴任、吉村益次商店の小倉支店として新発足した。北九州市場の将来性を期待して総勢8名でのスタートであった。三塚が六男の陸郎と共に転勤、続いて阿部春鳥が入社した。

 

重喜を社長に、業績は大幅増収

益次の意に反して重喜と三重野は反発しあった。悩んだ益次は、重喜に一切の権限と責任を与えることしか彼を一人前に出来ないという判断を下したが、それは小倉薬局をつぶす結果になるかもしれぬ賭けであった。実直な興一と違って芸術家肌の重喜に、小倉の店を賭けてみようと決心し、重喜を代表取締役社長とし、三重野をその下の支配人にした。お山の大将になれたことで重喜は文字通りハッスルし、1948(昭和23)は売上7760万円と3倍以上の増収となった。


 業界初めての機械化した新社屋ビルの建設

1954(昭和29)、重喜は馬借に新社屋を建設する計画を発表した。板戸の開け閉めに悩まされるボロ家から、鉄骨コンクリートの3階建てのビルへ移転することを社員は何より喜んだ。その年には、京都薬専を卒業した弟の慶元が入社した。1956(昭和31)5月に完成した鉄骨コンクリート3階建ての新本社は、機械化した物流倉庫と事務所をまとめた全国でも初めてのビルで、独創的な試みは薬業界の話題となった。

 

卸協同組合で業界革新を、本社を大手町に移転

企業理念が同じ者同志が結束して薬業界を革新していく必要性を唱えた重喜は、直方の松井薬局、福岡の高瀬薬局、若松の佐藤薬局そして大石薬品と共に5社で、1959(昭和34)11月、北九州医薬品卸協同組合を発足させた。

5社の人事、商品および会計の管理という各社の共通業務を福岡事務所に集約し、5社はセールスチームに徹するという構想を重喜は抱いていた。その趣旨は、(1)経営改革を考える、(2)経営の集団化ないしは協同作業、(3)物心両面の提携、(4)資本の交流提携による公開的経営結合、(5)過当競争の排除であった。社員が二百名を突破した小倉薬品の馬借の社屋は、4年もたたないのに手狭となり、1960(昭和35)の暮れには、大手町の造兵廠跡の敷地と建物の払下げのメドがつき、1962(37)夏には改修を終わった大手町社屋に本社機能の一切を移転した。 


コーエーと合併、コーエー小倉薬品の誕生

1960(昭和35)、重喜が防府の旭薬品の再建に協力し始めてから七年間で、山口県の卸旧七社(旭、浅田、磯部、河田、小倉、佐村、能美)の統合合併が終わり、1967(昭和42)、(株)コーエーが誕生した。この再編劇は、もともと山口県の薬剤部会からの依頼と経営者の要望に応じて始まったことであった。その後、1971(昭和46)11月、資本金を1億円に増資したコーエーと、同じく2億円に増資した小倉薬品は合併して商号をコーエー小倉薬品()に改めた。


下曽根新本社へ移転、健康フェアも開催

1962(昭和37)に大手町に移転して7年がたち、売上高は5倍になり、倉庫は満杯となった。荷物の運搬はバイクから軽トラックに変わっていく頃であったため、特に駐車場の確保に困っていた。かねてより武田薬品の物流センターと小倉薬品の新本社建設用地として折衝を行っていた下曽根の7千坪の敷地に、重喜は新本社を建設したいと思った。計画については、1969(44)12月から副社長となっていた慶元に、予算総額4億円の枠を守ることを条件に一切を任せた。

慶元は欧州最大の卸であるシュルツを参考にして倉庫の設計をし、鉄骨地下1階地上3階の、延べ四千坪の壮大なプランを作った。1972(昭和47)8月、コーエー小倉薬品は、創立25周年と新社屋完成披露の祝典を挙行した。メーカー、卸、地元経済界、得意先など総勢800名が参加、健康フェアも開催された。新社屋の玄関には益信(九男)の作品が記念建造物として設置された。

 

医療機器分野に進出

1977(昭和52)5月、日本アビリティーズとコーヤク、それにリハビリに従事している医師数十人が出資してコーヤクメディカルアビリティーズ()が設立された。身障者による身障者の会社、リハビリテーション機器を特色とする医療機器部門(後のコマックの前身)の出発であった。

 

コーヤク()に社名変更

 1977(昭和52)11月、コーエー小倉薬品の30周年記念式典が本社社屋で挙行された。医薬品業界の幹部、経済界、得意先、海外企業の関係者らが多数つめかけた。ガタピシ事務所と呼ばれた米町の事務所で汗と涙のスタートを切って30年、地元のみならず日本卸という中央業界でも風雲児として期待を集めるようになった重喜にとって、その日は昇りつめた太陽の輝きのような一日であった。翌年1978(昭和53)1月、商号をコーヤク()に変更した。

 

◆吉村重喜の死

1981(昭和56)7月、重喜は今までとは違った激痛に襲われ、9月から入院することになったが、入院してからも東京へ出張し、会社へ出社もした。入院を固辞する重喜に対し、二代益次が説得にあたり、1016日、産業医大に入院することとなった。12月に入り病状はさらに悪化、1221日、早朝より発熱、呼吸困難に陥り、吉村重喜は息を引き取った、享年56歳であった。

 

重喜の志・夢を引き継ぎ、弟(八男)の慶元が社長に

重喜の後を継ぎ社長には弟の慶元が就任した。重喜の名指揮により怒涛の成長を果したコーヤクだが、あまりに急成長した企業であったため、地域社会や業界からの評価としては「厳しい会社」と見られていた。

重喜の後を引き継いだ慶元は、規模の追求のみには拘らず、地域や業界の発展につながる質的な向上をも求め、明るく開放的な社風を築き、社外からも好感度の高い会社づくりに注力していくこととした。また、医療を取り巻くあらゆる分野への進出を狙いに、「ヘルスインダストリーとしてのフルライン体制の確立」をめざし、社内の多角化、社外との協業化も積極的に推し進めていった。

 

◆「共栄協組」の共同事業化を積極推進

1981(昭和56)12月に共栄協組の理事長にも就任した慶元は、協業の成果を求めて共栄協組の共同事業化を具体的に推進し始めた。

1982(昭和57)5月には、車両リース、車両整備や、得意先向けの共同配送、物品の共同購入や管理業務の内製化等のグループ共通の業務を請け負うため、協組各社の共同出資によりキョーエイサービス()を設立、グループ共通業務の一本化とともに業務の標準化・効率化・ローコスト化を具現化することに取り組んだ。

 また1989(平成1)4月には、加盟企業の薬専事業の一元化に取り組み、事業共同化の第二弾として、グループ薬専部門の仕入・物流・情報の一本化のための「薬専の情報・物流共同センター」を飯塚に建設、1990(平成2)5月にキョーエイサービスの業務をも継承したキョーエイ・システム()がこれら業務を担うこととなり、協組の結束力は更に強まっていった。

さらに1991(平成3)12月には、「共栄協組グループの理念」を決定。

(1)自らの経営を良くする、(2)協業により自らの向上を図る、(3)自らの発展とグループの繁栄を一致させる、という3つの理念にのっとり、各社社長による理事会を筆頭に、六つの委員会、十二の分科会が設置され、各社よりそれぞれの分野の代表者が参加し、活発な活動が始まった。

 
北の統合、キョーエイ薬品()の誕生

共栄協組は、正当な競争を前提に、共有できる部分は共有する相互扶助を目的とするため、グループ内でもシェア争いがあり、メンバーとなるのは武田薬品主力の卸のみならず、三共系列卸がメンバーとなっている点が特徴でもあった。

 1994(平成6)5月、協組加盟6社のうちの医専部門の3社、コーヤク、大石薬品、シンコー薬品の3社が、卸競合関係の変化やメーカー政策の転換といった環境変化や、協組内での市場の隣接や重複を勘案し合併を決意。九州南部の()ダイコーの誕生から2年遅れて、北部のキョーエイ薬品()が誕生した。代表取締役会長には慶元が、代表取締役社長には大石忠雄が就任した。

協組メンバーのうち、ヤクシンはメーカー系列の違いにより合併には加わらず、後に東邦薬品()と業務提携[2001(平成13)8]を経て資本提携[2003[平成152]、その後、鶴原吉井()と合併[2007(平成19)4]、商号を九州東邦()と変更し、森薬品()との合併[2009(平成21)10]を経て今日に至っている。

また、医療機器専門卸のコマックは、1998(平成10)4月の()アステムへ統合合併するまでの間は、独立企業として事業を継続した。

さらに藤村薬品は、市場の重複もなく、長崎市場の安定性や将来展望等から判断しこの時点で合併には加わらず、1998(平成10)4月に、南北統合で発足した()アステムヘルスケアに薬粧部門の営業権のみを譲渡した。その後、医療用医薬品部門を中心に営業を展開してきた藤村薬品は、機が熟したと判断し合流を決断、2006(平成18)12月に再編後のアステムとの第一次資本提携を経て、2007(平成19)6月にフォレストグループに正式に加入することとなった。

 

九州は一つ、南北連携の推進

時代の変化とともに、メーカーも競合卸も「九州は一つ」を認識し始め、卸の適正規模が従前の九州南・ダイコー、九州北・キョーエイ薬品という時代から更にもう一歩スケールアップする必要性が出始めてきた。そこで、これから大手卸同士による本当の競争が始まると判断した南の二代益次と北の慶元は、近い将来、「九州はひとつ」という前提で、南北両社による共同戦線を敷く必要性を感じ始めていた。

 両者は連携について協議を重ね、キョーエイ薬品設立から11ケ月後の1995(平成7)3月、ダイコーとキョーエイ薬品は協業への移行を社内外に発表した。




沿革

1994年 平成6年 コーヤク・大石薬品・シンコー薬品が合併しキョーエイ薬品㈱を設立
1995年 平成7年 キョーエイ薬品㈱と㈱ダイコーと南北協業合意
1996年 平成8年 新本部機構(株)アステム(福岡市)を共同で設立
1998年 平成10年 キョーエイ薬品、ダイコー、コマック、サン・メックが合併し医療卸㈱アステムを設立



歴代経営者

大石忠雄
任期:1994年(平成6年)~1998年(平成10年)



著作や参考文献




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