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[各社の歴史] 吉村薬品(株) 
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創業:吉村薬局 1919年(大正8年)大分市



歴史の概要

創業者は初代 吉村益次。志は二代 益次に引き継がれグループを牽引。

1919年(大正8年)、大分市で初代吉村益次が吉村薬局を創業。1930年に法人化して合名会社吉村益次商店に改組。医薬品の小売のみならず同業小売店への卸や自社商品の家庭薬マスノリン等を製造販売して、業容を着実に拡大していった。
 1945年の大分大空襲により吉村益次商店も焼失したが、戦後すぐさま再建に着手。1948年、急速な成長の矢先に初代益次が急逝すると、四男興一が二代吉村益次を襲名し社長に就任、(株)吉村益次商店を設立した。戦後の混乱期、薬の大乱売合戦の中でも「流通秩序の確立」を目指し「脱価格競争への挑戦」の企業姿勢を鮮明にした。
 1956年、吉村薬品(株)に改称。戦後の荒廃の中から中興の祖として、先取の気質と類まれなる強力なリーダーシップをもって九州の薬業界を牽引し続けた。創業以来親密な関係にあった宮崎吉村薬品ヤナイ薬品ヨシマツ薬品の4社で、1964年ダイヤ会を結成。経営内容の公開、情報の交換、人事交流などを通して結束を強めていった。グループ化のメリットを追求するため協業体として法人化し、1969年本部会社ダイコーを設立した。
 激変する経済環境や医薬品業界の構造変革を乗り越えるため、1992年、4社は合併して(株)ダイコーとなった。その後1998年、キョーエイ薬品(株)コマック(株)(株)サン・メックと合併して(株)アステムとなった。

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吉村薬品本社屋


吉村薬品(株)ロゴ


詳細

◆創業者「初代 吉村益次」の生い立ち

吉村薬品(株)の創業は1919年(大正8年)7月1日。創業者は初代 吉村益次。益次は1885年(明治18年)、福岡県浮羽郡竹野村(現在の田主丸町)で村会議員などを務めていた吉村五次郎の長男として生まれた。家業は紺屋(染め物)と農業であったが、幼少の頃からなんとか家を興して、身を立てたいと大きな希望に燃えていた。成長した独立心旺盛な益次は家業に見切りをつけ、24歳の暮に家を飛び出し南満州の大連へ向けて海を渡った。現地の小学校時代の友人を頼りに雑貨店、土木業で働いた後、満州鉄道病院の薬局の小使いとして就職。これが薬剤師になる始まりであり、その後の吉村薬局を築く基となった。
満鉄病院勤務を通じて、薬剤師に大きな将来性を感じた益次は1911年(明治44年 当時26歳)東京の明治薬学校に入学した。当時、文部省の薬剤師試験に合格し、薬剤師の免許を得るのは1割足らずという狭き門だったが、益次は必死に、ひたむきに勉強し、その結果1年半で念願の薬剤師の免許を取得した。

◆大石忠次郎商店との出会い

薬剤師となった後、一時は日田での開業を考えたが、いきなり開業するより経験を積んで開業した方が良いという周囲の助言を受け、久留米市今町の大石忠次郎商店に入店することになった。
大石忠次郎商店では醸造薬品を研究開発し、販路の拡大に実績を挙げるなど経験を積み、開業の基礎を築いていった。そして1914年(大正3年)に二代目大石忠次郎夫人の妹(幸)と結婚、生涯で10男3女を儲け、四男 興一(二代吉村益次)、五男 重喜(後のコーヤク社長)、六男 陸郎(後の宮崎吉村薬品社長)、八男 慶元(後の二代コーヤク社長)と現フォレストグループの礎を築いた大功労者4名を輩出している。

◆大分市に吉村薬局を開業

1919年(大正8年)大分市大道町に家を借り、吉村薬局を開業。幸夫人と弟の満の3人からのスタートであった。当地を選んだ理由は1919年(大正8年)の帝国議会で久留米・大分間に鉄道(現在の久大線)を建設することになったこと、健康を害していた体に大分の気候が良いとの判断からであった。
開業の無理がたたって肋膜炎を患ったが、その間、弟、満の献身的な努力に支えられて6ヶ月ほどで回復する。そのころ徐々に店の存在も得意先から認められはじめ、県立病院や諸官庁、会社などから注文がくるようになった。また、小売店からも卸をして欲しいとの要望も出てきた。加えて、大阪の中央問屋筋からも訪問が相次ぎ、大分地域での販売に注力してもらえるようになった。背景には二代大石忠次郎から中央の問屋やメーカー筋へ支援の依頼があった。その支援が成長の大きな力になったという。

初代 益次の健康は回復し、信用が加わって商売は日を経るごとに拡大していった。1年目の売上は1万5千円。翌年は3万円、3年目には6万円、4年目には12万円に達した。
益次は本来、営業に対して自分の天職に誠実に働くことを主義とした「一心一向」主義を貫いていた。武田長兵衛氏(五代目)の教えもあり、様々な名誉職、あるいは公職などに就くことは堅く避けていたようである。しかし、地域社会に対する義務感や責任感と、業界の発展に対しては積極的に貢献したいと考えていた。やむを得ず選任されたものについては、それなりに精一杯努力し、責任を果たしている。この気風は二代益次へも引き継がれ、吉村薬品独自の企業風土と文化を生み出していった。

家庭薬『マスノリン』販売で大成功。九州業界屈指の企業に成長。

1925年(大正14年)店を大分駅前に移転、店員は10人位であり、売上高は20万円ほどであったという。はじめは広さに余裕があった店も社業の発展に伴い、どんどん狭くなり、筋向いの倉庫を買収して薬品倉庫にし、営業拡大に備えた。その後も発展の一途をたどり、得意先は大分県のほぼ全域にわたり、宮崎県も延岡付近から宮崎市にまで、さらに福岡県も行橋市あたりまで営業エリアを拡大していった。1930年(昭和5年)経営の合理化と、時代変化に対応することを目指して法人組織化を進め、店を会社組織に改組し、資本金19万6千円の「合名会社 吉村益次商店」とした。

1933年(昭和8年)製造部門の設置を計画し、日出町の木下公家伝薬『龍虎圓』の製造権を買い取り、その他シロップやクレゾール石鹸液、重曹などガルヌス製剤の製造を本格的に始めた。1935年(昭和10年)家庭薬『マスノリン』『マスノール』の製剤に乗り出し、同時に大々的な宣伝を行い、マスノリン旋風を巻き起こし、当時としては相当の売上実績をあげている。
業績はすこぶる順調に推移し、昭和10年前後、開業15年ほどで、(合)吉村益次商店は九州では業界屈指の実績を誇る企業にまで成長している。

吉村薬局の店頭にて「マスノリン宣伝隊」
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◆戦中・戦後の激変期を生き抜いた初代益次が急逝。

1937年(昭和12年)に始まった日中戦争が長期化し、1938年(昭和13年)に国家総動員法が公布されて統制経済下になると、医薬品も統制品による割当以外は極度の品不足状態となった。また店員も徴兵・召集などにより、減少の一途をたどり40人近くいた店員もついに3人まで減少し、開店休業の状態となった。薬業に関わる会社だけでなく、当時、日本の多くの会社や商店が開店休業を余儀なくされていた。

1945年(昭和20年)7月、大分市は空襲により焦土と化した。吉村益次商店も焼失したが、金池本宅だけが奇跡的に戦災を免れたため、戦後再建の本拠となった。1945年(昭和20年)9月、本宅縁側を利用して僅かな在庫品を並べ、ささやかではあったが力強く再建の一歩を踏み出す。外堀通りに約300坪の用地を取得し、立退き交渉の問題から段階的に本店舗を拡充していった。完成したのは約10年後のことであった。
当時、窮乏インフレが進行しているなかでは、医薬品も含めた物資・商品の仕入れには大変な苦難を強いられたが、販売すると薬品は右から左に飛ぶように売れた。1945年(昭和20年)当時は6~7人の従業員であったが、1948年(23年)には60人に急増。売上も年間1億円の大台に乗せた。

1948年(昭和23年)1月、初代益次は結婚以来31年目にして初めて、幸夫人と夫婦水入らずの関西旅行に出かけたが帰宅後、突然原因不明の発熱に見舞われた。検査を繰り返した結果、関西旅行中に腸チフスに感染していたことが判明する。ペニシリンがようやく出始めた頃であり、腸チフスの特効薬ストレプトマイシンはいまだ市販されていなかった。やっと手配したストレプトマイシンが届いた時は既に手遅れであった。入院して6日目、家族や社員の献身的な輸血も空しく不帰の人となった。時は1948年(昭和23年)2月12日未明、63歳であった。

◆二代益次が社長就任。「株式会社吉村益次商店」へ。

1948年(昭和23年)3月4日、遺言により社長に就任した四男興一は、これも遺言により「益次」を襲名。ここに、二代吉村益次が誕生した。
戦後変動の激しい時代を生き残るためには、企業は時流に対応できる体制に整備する必要があるとの二代益次の考えから同年5月、株式会社吉村益次商店を発足させた。つづいて翌年12月、別府市に分離独立していた(有)吉村薬局を合併し別府支店とした。
新生吉村益次商店の本格的な「創造と革新」を目指してのスタートであった。その革新への決意は誰よりも強く、考え方はどこよりも先進的であった。

◆荒廃から近代薬業創造を目指す。

1949年(昭和24年)峯崎薬局進出により、九州で最初の薬の大乱売合戦が発生した。吉村益次商店も相当な苦戦を強いられたが3年半ほどで収束した。二代益次が乱売合戦のなかでも見失わなかった信念「企業にとって損をする商売は罪悪である。苦しくても乱売をくいとめ、内には節減し、赤字だけは避けねばならない」は、目先の利益のみを優先する営業から、利益を超越した取引「安心のゆく流通秩序の確立」を目指したものであり、「脱価格競争への挑戦」という基本姿勢として、吉村益次商店の社会的責任に根ざしたものであった。この信念はこの後「経営憲章」をはじめとした理念、経営方針の発表や、数々の提言を生み出す基礎となった。
また、この時の教訓として、商売においては「一時的な独占は可能としても永続的な独占はない」と二代益次は考えた。お互いが良くなっていかなければ、必ずまた問題が起こる。その打開策として「青かび会」という小売店の組織化、病院課の設立、指定品制度や得意先を招いての月例研究会の開催などを構想した。

◆相次いだ天災被災の中、施設拡充が進む。

1949年(昭和24年)に襲来したデラ台風で倉庫のトタン屋根が飛ばされ商品が大被害を受けた。約1週間、全社員が後処理と整理に追いまくられた。翌1950年(昭和25年)のキジア台風でも事務所の屋根が飛ばされるなど、2年続きの天災被災であった。
1952年(昭和27年)には本店東奥の空き地に鉄筋コンクリート構造2階建の倉庫が完成。このおかげで1953年(28年)の大豪雨に見舞われた折も、浸水その他の被害から免れることができた。1957年(昭和32年)には本格的に本店店舗の建設に取り組み、1958年(昭和33年)小売部を含めた3階建鉄筋コンクリート造りの社屋が完成した。

◆「薬業を通して社会に奉仕する企業」として新たな成長ステージへ。

昭和20年から昭和30年に至る、戦後の世情不安と様々な天変地異に悩まされたこの時期は、インフラや食品・物資の流通などの社会システムも復興段階であり、世の中が非常に混乱し、人心はすさんだ時代であった。戦後の象徴のひとつである「闇屋」が横行し、吉村益次商店も幾度と無く盗難による被害を受けた。社員の持出し事件も何度か発生した。当時社員約80人を抱えるまでに拡大していたが、若い社員にとって、このような時代の中で何のために働くのか、働くことの目標が明確にされていなかったところに問題があった。この時、二代益次は真剣に思い悩み、苦しい日々が続いたという。その回答を見出す機会となったのが、1952年(昭和27年)日本最年少でのロータリークラブ入会であった。

「本社営業の根本理念は、薬業のもつ公共的真価を認識しかつこれに権威あらしめ、職業を通じてより多く社会に奉仕することにある」1953年(昭和28年)に制定された会社の根本理念は、時のロータリー綱領を参考にし、社員のモラルと自覚及び誇りと存在価値を認識する上で、また企業の責任者としてより高い人間形成への願いが込められたものであった。この理念は、やがて若い社員たちにも徐々に浸透していった。心身ともに(株)吉村益次商店は新しい成長ステージに向かっていた。

◆新しい機能創造への挑戦と吉村薬品株式会社への改称。

1953年(昭和28年)に病院課を新設。新しい分野の開拓として当時手がけていなかった郡部の開業医との直接取引が目的であった。初代病院課長には長尾昭二(後の吉村薬品 二代目社長)が就任し、総勢5名体制でスタートした。
1954年(昭和29年)二代益次は「心のかよいあった店が、手をつないでいく」という経営の組織化を目指して、60店で「青かび会」を発足させた。(その後この組織は段階的に発展し、加盟190店の躍進会に発展)
1955年(昭和30年)「ヨシムラ第1次長期5ヵ年計画」が策定された。売上計画は二代益次自ら計画・予測したものであり、事業別人員予測やメーカーとの関係、得意先の地区別・方面別ABC分析、仕入商品分析などが提示・検討されている。先進的なマーケティング手法の採用・駆使であった。
昭和30年代の前半には、経営近代化のために次々と以下のような改革を実施している。

  • 伝票式会計制度(ワンライティングシステム)の導入 
  • 先端事務機器の導入 
  • コンピュータ導入*

労使関係では1953年(昭和28年)二代 益次の発議で労使間の下意上達のパイプ役として、人事委員会という組織を設置。それが後の従業員会「金蘭会」となる。
1956年(昭和31年)「吉村薬品株式会社 」に改称。1959年(昭和34年)この時期混乱した流通機構のなかにあって卸に問われている本当の問題は何か、その対策はいかにあるべきかなどが記述された二代益次の「統合合併論」が薬業界に向けて提言、発表された。

◆産業構造大転換の時代。ドラッカーに学んだリーダーシップを発揮。

1958年(昭和33年)12月国民皆保険法が公布され、国民皆保険制度の基礎が確立されると、医薬品の生産額も年々大きな伸びを見せ、需要を上回る供給体制が出現。乱売問題や購買問題の発生など流通機構が混乱した。
1960年(昭和35年)第2次長期5ヵ年計画が策定された。経営の近代化を標榜した革新的な計画であった。
二代益次はピーター・ドラッカーの『現代の経営』に感銘を受け、同書をもとに自ら「経営憲章」を作成し、幹部社員の研修教材とした。
1961年(昭和36年)高度経済成長の時代を迎え、さらに流通革命が提言される。「問屋無用論」これに対し「問屋有用論」マーケティング・セミナーブームの時代が到来する。二代益次は常に時代の一歩先を見つめ、実践していた。

医薬品業界は1961年(昭和36年)の国民皆保険の実施から、この年を含め1970年(昭和45年)までの10年間に、医薬品総生産額が毎年対前年20数%増という驚異的な生産増を続けた。これは過剰生産によるメーカー間の過当競争を出現させ、卸間の販売競争が熾烈を極める結果となった。実勢価格は低下の一途をたどり、市場の混乱を増すばかりであった。

1964年(昭和39年)創業者以来親密な関係をもっていた鹿児島のヤナイ薬品、熊本のヨシマツ薬品、宮崎の宮崎吉村薬品との4社でダイヤ会を結成、九州市場の南北ブロック化と将来のグループ経営を睨んだものであった。

1965年(昭和40年)には医薬品業界を担う、卸を含めメーカーにも姿勢を正す意味での反省を求めた二代益次の「医薬品企業健全化についての提言」と題した要望書が九州医薬品卸連合会から提出された。将来に向けて本質を見つめ直した、真の社会使命に根ざした提言だった。
同年、薬業界自体が転換期に入ったなか、企業の社会性と安定性の確立を目指し、新しい観点から地域総合商社への脱皮を考えた第3次長期5ヵ年計画が策定される。
1967年(昭和42年)の薬価大幅改定やM.S.C事件*7)の発生など、試練の嵐のなか、1968年(昭和43年)二代益次は「製企協への提言」と「第三の革新」を記述した。この2つの文書は、吉村薬品の「古くて新しく、決して変わることのない経営に対する基本理念」を公にし、真を問うたものであった。


吉村薬品のエリア展開と吉村薬品グループの形成。

地域密着型卸を指向するうえで、得意先の要望や期待を満たすために営業拠点としての支店営業所の設置を進めた。生命と健康を守る医薬品の特性として商品の迅速正確な供給は不可欠であり、さらに緊密な情報の連帯が必要である。地域に密着し、電話一本で配達できる体制づくりであった。
1955年(昭和30年)1月、中津に出張所(1959年支店に昇格)、1958年(昭和33年)2月、日田に出張所(1959年支店に昇格)、1959年(昭和34年)4月、佐伯に山本大祐薬局と合弁で山本吉村薬品(株)を設立(1963年合併し佐伯支店となる)、1964年(昭和39年)4月、豊後高田市の酒井薬局と合弁で酒井薬品(株)を設立(2007年アステムと合併し高田支店となる)、1965年(昭和40年)11月、竹田市に山口薬品(株)を設立(1993年ダイコーと合併、三重町に移転し大分南支店となる)した。
同時に、経営基盤を磐石にするために事業の多角化を模索、推進して行った。

1956年(昭和31年)医療機器事業の先駆けとなる大分医療器有限会社を共同設立、後にヨシムラ医療器(株)を経て(株)サン・メックとなり自立する。
1956年(昭和31年)農薬・醸造薬品、工業薬品・動物薬品の専門取扱い部門として特殊薬品部を新設した。1961年(昭和36年)特殊品事業部と成長拡大、1972年(昭和47年)宮崎吉村薬品特殊品部を統合し、ヨシムラ産業(株)として自主的経営に踏み切った。1974年(昭和49年)(株)サン・ダイコーと改称し、ヨシマツ薬品(株)特品部を統合ヤナイ産業(株)を合併し南九州4県をカバーする体制を確立した。

1963年(昭和38年)近代医療への貢献を趣旨とし大分医師会の賛同を得て大分臨床検査センターを設立。後にコーヤク(株)との共同出資による(株)西日本特殊臨床検査センター設立、南北グループの臨床検査部門統合による(株)リンテックの設立と繋がる。
1967年(昭和42年)医療雑貨関連商品専門卸として躍進会会員店との共同出資で(株)ダイヤを設立、1989年(平成元年)吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の薬専事業を統合し(株)創健を設立した。
多角化部門を分社し、独立採算とするグループ経営の体制は当時の医薬品卸の業界では斬新であり、かついずれの企業も黒字経営を成し遂げたということは快哉であった。

◆創業50周年社員総会を開催。大分大道町近代的社屋が完成。

1969年(昭和44年)創業50周年を記念した社員相互の親睦を兼ねた社員総会が7月、愛媛県松山市奥道後のホテル奥道後で盛大に催された。吉村薬品グループ572名が参加し、宇和島運輸の「べっぷ丸」をチャーターしての移動であった。
50周年最大の記念事業として、創業の地、大分市大道町に鉄筋3階建の近代的新社屋を建設し、その披露を兼ねて記念行事を盛大に繰り広げた。明るい機能的な諸施設は、広大な駐車場と二代益次の実弟益信氏の企画・建築デザインによる、シンボル逆ピラミッドと共に注目され、多くの見学者が訪れた。

◆(株)ダイコー設立

交通網、モータリゼーションの発展普及、加えて情報の発達が経済単位の大型化、広域化を必然的に推し進めていた。この変化を先取りしてダイヤ会4社の思想はあらゆる面で統一され、既にゆるぎない結束力を保持していた。また、予想以上に大きく変化する環境を背景に、更にグループ化のメリットを追求することも当然の帰着であった。ここに「協業体」として法人化すべきだという方向が生まれ、中枢管理会社いわゆるシンクタンクとしての(株)ダイコーが1969年(昭和44年)、業界注視の中設立された。

◆激動の70年代へ

1970年(昭和45年)激動の70年代が幕を開けた。二代益次の幕開けにあたっての基本方針は「創造と革新」「明るく、正しく、たくましく」「感謝の真心、謙虚な反省」「さあ新しい半世紀だ 新社屋にふさわしい、日本一の生産性をあげよう」であった。
1972年(昭和47年)一段と厳しい環境を迎えるにちがいない薬業界の情勢を洞察し、業界の構造変化に対応するために二代益次は、ダイコー社長として『三つの挑戦』を全社員に提示した。

  1.  ヘルスインダストリーへの挑戦
  2.  スケールアップ、レベルアップへの挑戦
  3.  脱価格競争への挑戦

1973年(昭和48年)二代益次は地元経済界の強い要請を受け、第18代大分商工会議所会頭に就任した。
1973年(昭和48年)10月のオイルショック以来、経済は低迷し不透明な状況が続いていたが、医薬品業界も激動期にあり、企業間格差は顕著に表面化し、卸の再編成も必至と考えられた。医薬品業界自らが大型卸へ脱皮しようとする動きが活発となったのはこの1970年代である。
これに対し、吉村薬品は地域密着医療指向の営業を経営の基本方針としていた。得意先にとって魅力ある付加価値の高いサービスとは何かを常に真剣に考え、実行した。病医院管理研究講座の定期実施、臨床検査センター設置、健康フェアー、医療機器フェアーの開催である。1976年(昭和51年)には病医院薬局薬店の期待を担ってDIセンターが設置された。

◆ダイコー(本部)設立10周年と創業60周年を迎える。

1979年(昭和54年)吉村薬品は創業60周年を迎えた。同時にダイコー(本部)設立10周年にもあたる意義深い年であり、ダイコー(本部)新第1期長期経営計画策定にあたり、吉村薬品には“理想の卸をめざしていかにあるべきか”を示唆し、検討させ構築させている。
7月には創業60周年を記念して別府スギノイ国際ホールにて「創業60周年記念祭」を開催。参加者はご招待者に社員、家族、同心会のメンバーを加え約1、700人に及び、第一部創業60周年記念式典、第二部文化講演と記念コンサート、第三部懇親会記念パーティと盛大であった。
また60周年を記念して先輩物故者の慰霊塔「桃蹊殿」を建立した。
1980年(昭和55年)二代益次は会長となり、後任の社長に長尾昭二が就任した。

◆高度成長からの転換へ

1979年(昭和54年)10月に改正された租税特別措置法及び、1981年(昭和56年)6月の薬価基準大幅引下げは、病医院の経営に大きな影響を与え、高度成長を突き進んできた病医院経営も構造不況業種ともいえる状況へ様変わりしていった。この急激な環境変化に対応するために、ダイコーグループ各社も経営計画を修正する必要に迫られた。
1981年(昭和56年)蓄積された戦力を発揮すべく基幹戦略品を選定し、面拡へ総力を挙げて取り組んでいくことが示された。
1982年(昭和57年)二代益次会長より、益々きびしくなる経営環境に対応できる経営の優劣は「生産性」にあるということで、四次元の生産性が提唱された。
一次元の生産性=個人=点、線 
二次元の生産性=組織、チームワーク=面 
三次元の生産性=戦略、創造力=意識 
四次元の生産性=精神環境=環境、空間

この4つの調和が高い生産性をもたらし、その責任は経営者にあると示唆した。1982年(昭和57年)の「吉村薬品5大ニュース」には、その具体化のための発想が残されている。

①“トライアル200”200億円への挑戦、出発進行
②中期経営計画(Cプラン)の策定
 “CONTRIVANCE”ものまねでない、新しい工夫、創造
③第三の波到来
 ・パソコン、ワードプロセッサー登場
 ・O.C.S委員会発足(オフィスコンピューターシステムの具体化、58年4月より本格稼動
 ・全店オンライン化58年2月本格稼動
④TQC運動エンジン始動
⑤薬系販促フェアー開催
 ・はじめてものを売らないフェアー

そして1973年(昭和48年)のオイルショックを契機に大幅赤字となった国家財政再建の一環として推進されてきた医療費抑制策に、医薬品卸の経営も徐々に影響を受けてきたが、1981年(昭和56年)6月18.6%、1983年(昭和58年)3月4.9%、1984年(昭和59年)3月16.6%の3次にわたる薬価基準の引下げは、経営環境を一気に厳しいものとした。「昭和60年は新時代である。業界にとっては大転換・再編成の山場に突入する大事な年。」と長尾社長は年頭挨拶で語った。

◆営業第40期記念洋上社員大会

1986年(昭和61年)10月、吉村薬品の営業第40期およびサン・メックの営業第15期を記念して、フェリー・さんふらわあ7をチャーターして、洋上社員大会を盛大に開催した。

◆「プラン70初年度決起社員大会」

1987年(昭和62年)7月「プラン70初年度決起社員大会」が杵築市住吉浜リゾートパークにおいて、吉村薬品、酒井薬品、山口薬品、ダイコー(本部)の全社員が集い開催された。創業70周年に向けての3ヵ年計画「プラン70」の初年度にあたり、新しい時代への挑戦の年と位置づけ、長期的な視野に立った企業の在り方、新しい流通機能の在り方を再構築するスタートの年という認識を共有することが目的であった。

◆創業70周年を迎える

1989年(平成元年)6月、別府杉乃井ホテルにおいて、吉村薬品創業70周年・ダイコー(本部)設立20周年記念祝賀会を開催。メーカー、業界関係者、平松大分県知事をはじめとする行財界の代表約500名の出席をいただいての開催であった。大分の一村一品の材料をふんだんに使った料理や、手作りアトラクションの数々、心のこもったおもてなしに参加された方々の評価も上々だった。祝賀会の翌日には吉村薬品本社、新築成った創健の会社見学会と記念式典・記念コンサート(菅原洋一と真梨邑ケイ)が開催され、約2,000人の参加者も満足し、大盛況であった。改めて吉村薬品70年の伝統を医薬品業界及び社会へ披露し、関係の皆様に感謝する会となった。

◆薬業界再編につながる新たな合併プロジェクトが動き出す。

平成になり、度重なる薬価基準の引下げや医療機関の経営緊迫化など、卸経営を揺るがす課題が山積するうえに、1992年(平成4年)に実施される「新仕切価制」完全移行による新流通時代の到来で、卸裁量の価格競争過熱や、全国の卸再編の急激な加速等が予想された。これを受け、ダイコーグループ4社が「合併は時流に即した決定である」と合併に合意。1991年(平成3年)5月、翌年4月の4社合併に向けたプロジェクト「MIKSプロジェクト」が活動を開始した。

◆4社合併「株式会社ダイコー」誕生。

1992年(平成4年)4月、吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の四社が合併し株式会社ダイコーが誕生し、吉村薬品はその73年の歴史を、新たな世代へと託した。

◆初代益次とともに苦労を分かち、礎を築いた功労者/ 吉村 満

初代益次(胸像)と弟・満
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明治37年福岡県浮羽郡で吉村五次郎、コトの三男として生を受けた。大正8年7月、僅か15歳の年に長兄初代益次の許に参じた満は、吉村薬局創業以来、誠実をもってそ の道に励み、初代益次とともに創業の苦労を分かち、吉村薬品の基盤を築いた創業の人である。初代益次の創業時の6ヶ月にわたる闘病生活の間、まさに創業の 危機とも言える時、店を支えたのが満である。彼は工業学校に行くのをやめ夜間中学に通いながら、店の仕事に全力を投入した。この献身的な努力は、県立病院 や片倉製糸、刑務所など諸官公署との取引として実を結び商売拡大に大いに貢献した。

昭和23年、志半ばで逝った初代益次亡き後、若き二代益次への陰に陽に有形無形の力添えは、まさに一人二役の緊張の連続であった。

吉村薬品では専務取締役、最高顧問を歴任、衆望を得て昭和45年から53年まで4期8年の長きにわたって大分県薬業共同組合の理事長として活躍した。

故人の友人で あり、兄とも慕った杉原薬局店主、(株)ダイヤ社長であった杉原剛氏は「創業時、兄である初代益次を助け、孜々営々として働き、大道峠をリヤカーに薬品を満載 し、歯をくいしばって登った話や、会社が危急存亡の時、夜を徹して対策を練った話」などを語っている。情熱家で磊落、洒脱の人、会社を想い、薬業界の将来 を憂い、激すれば涙し、心情を訴え、酔えばお得意の小咄や替歌を聞かせてくれた。故人はこのうえなく人を愛し、商売を愛し、街を愛し、ロータリークラブを 愛する、慈しみの人であったとある。

「私は青年の頃からあなたの力強い言動から多くの励ましを受け、強く心を打たれ奮起したこともたびたびでした。本当にありがとうございました。」故人へ贈る二代益次の弔辞の言葉のなかから、故人の偉大な功績と豊かな人徳がしのばれる。




沿革

1919年 大正8年 07月 吉村薬局創業(大分市大道町)
1925年 大正14年 大分駅前に店舗を移転
1930年 昭和5年 合名会社吉村益次商店に改組
1940年 昭和15年 小倉薬局設立。吉村・大石・大石の支配人 浜田宗四郎との共同経営
1946年 昭和21年 大分駅前の外堀通りに本店移転
1948年 昭和23年 02月 初代吉村益次が急逝、4男興一が二代益次を襲名
1948年 昭和23年 05月 ㈱吉村益次商店(資本金100万円)設立、二代益次社長就任
1949年 昭和24年 別府支店開設
1949年 昭和24年 06月 デラ台風で木造トタン屋根が飛ばされ、倉庫浸水
1950年 昭和25年 キジア台風で事務所の屋根が飛ばされる
1950年 昭和25年 「健康と文化に奉仕するクスリのヨシムラ」を会社のモットーに掲げる
1952年 昭和27年 08月 本社の鉄筋倉庫が完成
1953年 昭和28年 05月 病院課を新設し、延岡出張所を開設
1954年 昭和29年 01月 青かび会を発足
1955年 昭和30年 01月 中津市出張所を開設し、延岡出張所は支店に昇格
1955年 昭和30年 05月 第一次長期五カ年計画立案
1956年 昭和31年 05月 大分医療器(有)を設立(資本金100万円)
1956年 昭和31年 05月 特品部農薬課新設
1956年 昭和31年 12月 (株)吉村益次商店から吉村薬品(株)に改称
1957年 昭和32年 05月 特品部食品課新設
1958年 昭和33年 02月 日田出張所開設
1958年 昭和33年 03月 特品部防疫課新設
1958年 昭和33年 05月 宮崎吉村薬品(株)設立(宮崎市)
1959年 昭和34年 04月 山本吉村薬品(株)設立(佐伯市)
1959年 昭和34年 06月 中津出張所と日田出張所の支店への昇格
1960年 昭和35年 05月 第二次長期五カ年計画立案
1961年 昭和36年 06月 事業部制を導入、医薬品事業部と特殊品事業部を新設
1961年 昭和36年 11月 延岡支店を宮崎吉村薬品(株)に譲渡
1963年 昭和38年 04月 躍進会発足(青かび会改組)
1963年 昭和38年 06月 大分臨床検査センター設置
1963年 昭和38年 10月 山本吉村薬品(株)を合併し、佐伯支店とする
1964年 昭和39年 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で「ダイヤ会」を発足
1964年 昭和39年 02月 佐伯臨床検査センター設置
1964年 昭和39年 04月 豊後高田市に酒井薬品(株)(資本金100万円)を設立
1964年 昭和39年 09月 第三次長期五カ年計画立案
1965年 昭和40年 特殊品事業部動薬課新設
1965年 昭和40年 11月 竹田市に山口薬品(株)を設立
1966年 昭和41年 08月 (株)ダイヤ設立
1969年 昭和44年 07月 創業60周年記念社員総会開催
1969年 昭和44年 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で本部会社㈱ダイコーを設立
1969年 昭和44年 11月 本社社屋の竣工・大分市大道町への移転(旧本社土地建物は売却)
1970年 昭和45年 02月 宇佐臨床検査センターを設置
1972年 昭和47年 01月 「三つの挑戦」発表
1972年 昭和47年 04月 特殊品事業部を分離し、ヨシムラ産業株式会社を新設
1974年 昭和49年 日田臨床検査センター設置
1976年 昭和51年 04月 DI室設置
1979年 昭和54年 創業60周年・ダイコー設立10周年記念祭開催、桃蹊殿建立
1980年 昭和55年 長尾昭二 社長就任
1986年 昭和61年 10月 営業40期記念洋上社員大会開催
1987年 昭和61年 07月 プラン70決起大会開催
1989年 平成元年 06月 創業70周年・ダイコー設立20周年祝賀会開催
1992年 平成4年 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品が合併で(株)ダイコーを設立



歴代経営者

初代 吉村益次
任期:1919年(大正8年)~1948年(昭和23年)
二代 吉村益次
任期:1948年 (昭和23年) ~ 1980年 (昭和55年)
長尾昭二
任期:1980年(昭和55年)~1992年(平成4年)



エピソード録

◆「変化を読み取る」   

1946年(昭和21年)政府が実施した預貯金封鎖と新円切替は、市中に流通しているダブついた貨幣を吸収し、一挙に悪性インフレを解消しようというものであった。この大きな経済変革のなかで、金よりも商品を持っていた方が得策という考え方もあったが、支配人の三重野が切替前に在庫はすべて販売すべきと主張、初代益次も三重野の意見を入れ在庫商品のほとんどを惜しげもなく販売した。当時、ほとんどの店は在庫を大事に抱え込み利益を上げようと狙ったが、新円切替後にドッと新製品が出回ったため、その在庫品が売れず大きな損害を出した店が多かった。メーカーが新円切替を待って新製品を出してくるであろうと見通した三重野の予測は見事に的中した。同時に他店が売り惜しみをしている時に必要医薬品の安定供給をしたことが、多くの得意先から大きな信用を得る結果となった。 

◆「1949年(昭和24年)峰崎薬品進出による乱売合戦」 

1949年(昭和24年)の秋、峯崎薬品が「打倒ヨシムラ」の旗印をもって別府に支店を出し市場の切り崩しにかかった。大変な乱売だった。九州で卸の乱売合戦が始めて起こったのは意外にも大分県であった。当時社内的にも営業政策や対抗手段についてもいろいろと意見が分かれたが、正面から対抗、競争して安売りをしなかったのは正しかった。この乱売合戦のなかに他の卸が巻き込まれた。採算の合わない商売が長続きするわけがなく3年半あまりで峯崎薬局も大阪の本社がメーカーの管理下に入り、別府支店も引き上げざるをえなくなった。当時乱売のなかでそのような卸に対する得意先の信用も次第に落ちていった事は事実である。そうしたなか適正価格と品質を守り、薬品の安定供給に努めたことは、その後得意先との信頼関係を育成するうえで大いにプラスになった。 

◆「被災地域の救援」 

1953年(昭和28年)5月25、26日西日本は大水害に襲われ、大分県内でも99名の死傷者を出し100億円を超す史上類を見ない豪雨災害が発生した。交通網は各地で寸断され、このため郡部の医療機関は薬品の在庫を欠き、治療にも重大な支障をもたらした。大水害の発生後起こるであろう不測の事態を予想した二代益次は全社員に檄をとばし、医薬品の公共性とその使命を訴えた。社員はこれに呼応し、自転車を乗り継ぎながら僻地をいとわず医薬品を届け、数多くの医師からその献身的な行動に対して、敬意と激賞を受けその真価を発揮した。緊急災害時に、その救済活動の最先端には必ず吉村の社員が立っているという評価は、以降も奉仕の伝統として続けられている。



著作や参考文献

修身斉家
九州・山口の人脈
選ばれた経営者たち
展望
一心一向
吉村益次翁を偲ぶ
吉村益次追悼集
経営者の時代
創造と革新の日々
桃蹊の記
飛翔
念頭所感集



セレクト画像・映像


吉村薬品(株)のディスカッション