大分医療器(有)→ヨシムラ医療器(株)→(株)サン・メック
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(株)サン・メックロゴ
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詳細
◆医療機器部門の発足
医療機器部門は1956年(昭和31年)大分医療器(有)の設立により営業を開始した。大分県立病院レントゲン部長であった壺井良雄の退職を機会に、二代 吉村益次が提携援助して設立。島津製作所の代理店業務を中心に、医療機器関連消耗品の販売を行っていた。倉庫もわずか数畳で、カンシやピンセットなどを20個ほど石炭箱に入れて並べただけの粗末なものだったという。
しかし、その後の急速な科学技術の発展と、新しい医療機器の出現、医療施設の改善・新設などで需要は年々急増していくことになる。
◆(株)ダイコーによる多角化戦略の推進
1969年(昭和44年)に吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の4社でダイコーグループの本部会社であり、シンクタンクとなる(株)ダイコーが設立された。時代は経済が国際化、広域化する中で、新しい価値観に立った新しい時代への取り組みが望まれる転換期にさしかかっていた。地域の医療業界もメーカー間、卸間の競争が激化するに伴い、経営環境が厳しくなると同時に、競合市場が拡大していくのは必然であった。
このような厳しい環境を洞察したうえで1972年(昭和47年)二代 吉村益次ダイコー社長より「三つの挑戦」が発表された。その1番目の「ヘルスインダストリーへの挑戦」に「関連部門への多角化戦略の推進」が掲げられていた。この明確な指針が示されたことで、この発表以降、ダイコーグループ各社の多角化部門への注力に拍車がかかった。
一方、大分医療器は需要の急激な拡大に経営体質の改革を迫られていた。1972年(昭和47年)ヨシムラ医療器(株)へ改組すると、医療機器メーカーを開拓して取扱品を大幅に拡大していった。
しかし、経営の様々な問題と新人の教育等に手間取り、計画通りの実績を達成できず経営不振に陥り、再び大改革を迫られることになった。
1975年(昭和50年)経営幹部の刷新を断行し、代表取締役を長尾昭二(当時吉村薬品副社長)が兼任、宮崎吉村薬品(株)延岡支店長であった吉田守が取締役営業部長に就任するなど、大胆な立て直しを図った。その結果、新体制初年度から一転して黒字となり、三期目には売上倍増を達成する勢いで急成長し、大分県下の医療機器業界のトップに立つまでになった。
1976年(昭和51年)に宮崎医大の開学を機に発足させた(株)メディカルヨシムラを、1979年(昭和54年)統合合併し、宮崎支店とした。
1980年(昭和55年)ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の医療機器部門を分離・統合して(株)サン・メックに商号変更した。これにより南九州ブロック全域の市場をカバーすることになった。
◆医療器械の総合卸を目指す
1980年代、まず高度医療技術の専門分野を重点的に手懸ける戦略を展開した。そのために社員のレベルアップ、人材育成に注力し、日進月歩の高度医療技術に対応するために医療機器の専門集団としての自覚を促し、専門分野営業の確立を目指した。
同時に医療材料等の消耗品の販売も積極的に拡大していった。その背景には医療機器の売上は確かに大きいが、必ずしもいつも需要がある訳ではないため、経営の浮き沈みが激しくなるという事情があった。消耗品はコンスタントに需要があるため、経営の安定を図るうえでも重要な戦略であった。
◆システム化元年
医療機器・医療材料の業界は製品の分野が極めて広く、10万アイテム以上の製品数に及ぶ。そのため、多品種少量物流で小規模卸が多く、流通が複雑でシステム化しにくい業界環境が長く続いていた。そこには管理精度、生産性の向上といった面でなかなか改善が難しいという悩みがあった。
1994年(平成6年)グループ各社に比べて遅れていたシステム化に、全社挙げて取り組み、経理・新物流・仕入買掛システムなどの基幹システムを相次いで開発、運用をスタートさせた。
◆企業間格差の拡大
21世紀を前に、患者の高度医療サービス要求と医療機器の進歩・高度化要求は高まっていた。一方、医療費削減や規制緩和、PL法、保守点検、修理業、償還価格設定品目の増加、医療機器材料の海外との内外価格差是正と業界に変革を要求する課題も山積していた。
医療機器卸業界は、経営の近代化が遅れていたことから、企業間格差の拡大により、吸収・合併等の淘汰が進むことが予想された。
◆「九州はひとつ」へ。アステム合併へ合流。
平成を迎え、業界は地方の卸同士の局地戦ではなく、九州全体を舞台に巨大な自販力をもつ大型卸同士の激突へと局面が変化した。かつて南北2つのブロックで「共存共栄のダイコー」と「競争と共有の協組」といわれたダイコーも次の展開を模索する時期に来ていた。
1989年(平成元年)ダイコーは挑戦目標「九州をネットワークする総合健康企業集団」を掲げた。協組はコーヤクと大石薬品、シンコー薬品、ヤクシン、藤村薬品の医薬品卸5社と医療機器卸コマックを加えた6社での構成となっていたが、ダイコーと同じく新たな展開を模索していた。
1992年(平成4年)吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品4社合併による(株)ダイコー設立、1994年(平成6年)コーヤク、大石薬品、シンコー薬品3社合併によるキョーエイ薬品設立と南北ブロック内での統合再編が行われた。しかし医療関連業界の加速する変化により、21世紀を目前にしてメーカーも卸も「九州はひとつ」と考えるようになった。市場の全国ネット化時代への対応のため、より広範囲なスケールの中で再編を考えなければならなくなった。
そして南北連携協議のうえ再編が合意され、医療機関の視点に立ち医薬品も診断薬・機器・医療消耗品までワンストップで供給できる利便性を訴求して1998年(平成10年)4月、(株)ダイコー、キョーエイ薬品(株)、(株)サン・メック、コマック(株)の4社が合併し「株式会社アステム」が発足した。
沿革
・ | 1956年 | 昭和31年 | 05月 大分医療器(有)設立 壺井良雄社長就任 |
・ | 1968年 | 昭和43年 | 05月 壺井一良社長就任主任 |
・ | 1972年 | 昭和47年 | 07月 ヨシムラ医療器(株)に商号変更 板井寛社長就任 |
・ | 1975年 | 昭和50年 | 04月 長尾昭二 社長就任(吉村薬品副社長兼任) |
・ | 1979年 | 昭和54年 | 04月 (株)メディカルヨシムラを吸収合併し、宮崎支店とした |
・ | 1980年 | 昭和55年 | 04月 (株)サン・メックに商号変更 長尾昭二社長就任 |
・ | 1980年 | 昭和55年 | 04月 ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の医療機器部門を分離・統合 |
・ | 1982年 | 昭和57年 | 09月 10周年記念式典開催 |
・ | 1982年 | 昭和57年 | 04月 熊本事業所社屋建設 |
・ | 1986年 | 昭和61年 | 10月 15周年記念洋上社員大会開催(さんふらわあ) |
・ | 1987年 | 昭和62年 | 04月 亀島弘社長就任 |
・ | 1992年 | 平成4年 | 05月 売上100億円達成記念社員大会開催(南阿蘇国民休暇村) |
・ | 1993年 | 平成5年 | 03月 大分本社屋(大分市大字三芳字下堂ノ本572-1) 竣工 |
・ | 1994年 | 平成6年 | 04月 森元信社長就任 |
・ | 1996年 | 平成8年 | 03月 営業25期記念 →日本赤十字大分支社へ5百万円寄付 |
・ | 1997年 | 平成9年 | 11月 合併契約書締結承認(臨時株主総会) (ダイコー、キョーエイ、コマック及びサン・メックの4社合併) |
・ | 1998年 | 平成10年 | 04月 キョーエイ薬品、ダイコー、コマック、サン・メックが合併し医療卸㈱アステムを設立 |
歴代経営者
壺井良雄
任期:1956年(昭和31年)~1968年(昭和43年)
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壺井一良
任期:1968年(昭和43年)~1972年(昭和47年)
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板井寛
任期:1972年(昭和47年)~1975年(昭和50年)
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長尾昭二
任期:1975年(昭和50年)~1987年(昭和62年)
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亀島弘
任期:1987年(昭和62年)~1994年(平成6年)
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森元信
任期:1994年(平成6年)~1998年(平成10年)
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