一般公開
全文検索
お知らせ 各社の
歴史
経営者
たち
資料室 アーカ
イブス
薬業史   
NOW : 2024/11/01 08:44
[各社の歴史] (株)ダイコー沖縄 
「みらい創生史BOOK」用Fコード検索

1951年(昭和26年)設立の光南薬品(株)と南陽薬品(株)が前身 



歴史の概要

光南薬品(株)と南陽薬品(株)合併コーヨー薬品(株)設立。(株)ダイコーの発足に伴い(株)ダイコー沖縄に改称

光南薬品(株)は1951年(昭和26年)、国際通りで創業した。初代社長は屋嘉勇。在京、在阪の大手メーカーとの強固な結びつきを背景に第一期より経営は順調。 1972年(昭和47年)本土復帰と同時に業務提携によりダイコーグループの一員となる。

 1974年(昭和49年)光南薬品が存続会社となり、南陽薬品(株)と合併しコーヨー薬品(株)を設立。コーヨー薬品の初代社長には南陽薬品の社長であった宮平義雄が就任したが、沖縄県薬剤師会の立ち上げや日本薬剤師会への参入に腐心するなど、公務と社業の双方で多忙を極めたため、光南薬品(株)の社長であった福山朝計が社長に就任。ダイコーグループとの協業を活かし、人事交流や営業面・管理面での機能強化を図り、経営の近代化を実現した。

1987年(昭和62年)に合資会社サミット商事の医家向卸部門を吸収。 1992年(平成4年)、南ブロック4社の合併による(株)ダイコーの発足に伴い、(株)ダイコー沖縄に改称した。

光南薬品(株)店舗
https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_5edcef4a_E58589E58D97E896ACE59381.jpg


コーヨー薬品本社社屋
https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_ea2a50d5_F21_E382B3E383BCE383A8E383BCE896ACE59381E7A4BEE5B18B.jpg




(株)ダイコー沖縄


詳細

◆ダイコー沖縄、源流誕生の背景

(株)ダイコー沖縄の源流は光南薬品(株)と南陽薬品(株)の2社である。いずれの会社も終戦後米軍統治下にあって1951年(昭和26年)米国民政府令第40号『薬剤師及び薬局に関する布令』により薬品会社の自由開業が認められたことに伴い創業した。光南薬品の初代社長は屋嘉勇、南陽薬品の初代社長は金城清松であった。両者とも、米軍薬品管理部直轄管理の下、配給商品を取り扱っていた米国海軍薬品配給所(Medical Supply Depot)のリーダーであった。

戦後の国情が混迷する中、会社の舵取りの困難は必定だったが、2社とも戦後沖縄市場のシェアアップを目指し、凌ぎを削った。光南薬品は田辺製薬(株)、萬有製薬(株)、第一製薬(株)、塩野義製薬(株)、大日本製薬(株)、藤沢薬品工業(株)といった在京、在阪の大手メーカーとの強固な結びつきをもち、商売は順調に拡大して行った。

◆労働争議を機会に福山朝計が社長に就任。労使を目覚めさせる

ダイコー沖縄の中興の祖といわれる福山朝計が、光南薬品の社長に就任したのは1971年(昭和46年)である。当時の沖縄はいずれの業界においても労使関係が不穏な状況にあった。薬品卸の業界も例外ではなく、沖縄県労組の指揮のもと、社内の組合活動が激化し、労働争議にまで及んでいた。事態の収拾を図るために前原信明社長は辞意を表明し、琉球銀行の紹介で薬業界との関わりが薄かったものの、沖縄では広くその名を知られていた福山商事(株)の福山朝計社長に社長就任を要請した。

光南薬品(株)社長に就任した同氏は、業界のしがらみを一掃し、紛糾の要因と考えられる諸問題に次々と答えを出していった。その結果、労使からの信頼を得ることができ事態は改善した。福山朝計が争議の中で労使に語った「ニーズが何処に存在し、どうすればこれに応えられるか、その結果我々の得る利益はいかほどか」という明快な発想が、薬業界の長年の常識と慣習に埋没していた労使に大きなインパクトを与えたのだ。この後、福山朝計の信条「市場ニーズの探求」「数字への執着」は基本方針として光南薬品、コーヨー薬品、ダイコー沖縄でも徹底されていくことになる。

◆ダイコーグループの一員となりコーヨー薬品へ改称。福山朝計が再び社長に就任

1972年(昭和47年)、ダイコーと業務提携し、ダイコーグループの一員となると、経営の近代化、人事交流、社員教育を次々と推進していった。福山社長の口癖は「時間を守れ!」と「方言を使うな!」であったという。「方言を使うな!」とは、本土から来た人に対しての心遣いであり、内緒話をしているとか、のけ者にされているように思われるという無用の誤解を生まないためであった。
1974年(昭和49年)には浦添市牧港に本社を移転し、同年、光南薬品が存続会社となって、南陽薬品と合併し、コーヨー薬品株式会社を設立した。コーヨー薬品(株)の初代社長には南陽薬品の社長であった宮平義雄が就任したが、沖縄県薬剤師会の立ち上げや日本薬剤師会への参入に腐心するなど公務と社業の双方で多忙を極め、合併後1年間、両社融合の進捗を見極めたうえで旧光南薬品の社長であった福山朝計に社長職を禅譲した。

◆ダイコー沖縄に改称し、医療分野の業容を拡大

1987年(昭和62年)合資会社サミット商事の医向卸部門を吸収合併、外資系メーカーとの取引を拡大する。
1991年(平成3年)売上100億円を突破し、翌1992年(平成4年)ダイコーグループの再編とともに「株式会社ダイコー沖縄」に称号を変更した。

◆アステムとの関係強化

2004年(平成16年)2月にアステムとの資本提携を強化してアステムの連結子会社となり、同年10月、宜野湾市大山へ念願の新本社社屋・倉庫を新築移転した。2011年(平成23年)に(株)沖縄三和メディカルを子会社化。2015年(平成27年)7月に更なる資本提携強化でアステムの完全子会社となる。翌2016年(平成28年)3月には、(株)沖縄三和メディカルを完全子会社化し、現在フォレストグループの一員として医療分野の業容を拡大し続けている。







沿革

1951年 昭和26年 02月 那覇市5区12組に、資本金500万円(B円)(日本円15,000千円)で光南薬品(株)を創業 屋嘉 勇 社長就任
1961年 昭和36年 04月 資本金$42,000(日本円15,120千円)  通貨切替えに伴い増資
1962年 昭和37年 05月 前原信明 社長就任
1963年 昭和38年 07月 本社移転 那覇市松山町2丁目120-68
1964年 昭和39年 05月 資本金$48,300(日本円17,388千円)に増資
1967年 昭和42年 05月 資本金$65,142(日本円23,451千円)に増資
1970年 昭和45年 07月 資本金$96,600(日本円34,776千円)に増資
1971年 昭和46年 01月 福山 朝計 社長就任
1972年 昭和47年 06月 ダイコーグループ(現フォレストグループ)と業務提携、経営の近代化、人事交流、社員研修等を実施
1973年 昭和48年 05月 資本金3,000万円に増資
1974年 昭和49年 01月 浦添市牧港694番地に本社移転
1974年 昭和49年 05月 光南薬品と南陽薬品が合併しコーヨー薬品(株)を設立 宮平善雄 社長就任
1974年 昭和49年 05月 資本金5,000万円に増資
1974年 昭和49年 12月 福山 朝計 社長就任
1981年 昭和56年 12月 本社社屋及び倉庫新築落成
1987年 昭和62年 06月 合資会社サミット商事の医家向卸部門を吸収合併
1992年 平成4年 04月 ㈱ダイコー沖縄に改称
1994年 平成6年 04月 二代吉村益次 社長就任
1997年 平成9年 05月 大城満一 社長就任
1997年 平成9年 10月 資本金9,500万円に増資
2004年 平成16年 10月 宜野湾市大山七丁目9番2号へ本社及び倉庫を新築移転
2004年 平成16年 02月 資本提携の強化でアステムの連結子会社となる
2005年 平成17年 04月 島末洋司 社長就任
2010年 平成22年 04月 平野和之 社長就任
2015年 平成27年 07月 アステムの完全子会社となる
2016年 平成28年 03月 ㈱沖縄三和メディカルを完全子会社化
2017年 平成29年 04月 今井寿春 社長就任
2019年 平成31年 04月 村上伸一 社長就任
2023年 令和5年 04月 秋信裕一 社長就任



歴代経営者

屋嘉 勇
任期:1951年(昭和26年)~1962年(昭和37年)
光南薬品(株)
前原信明
任期:1962年(昭和37年)~1971年(昭和46年)
光南薬品(株)
福山 朝計
任期:1971年(昭和46年)~1974年(昭和49年)
光南薬品(株)
宮平 善雄
任期:1974年(昭和49年)~1975年(昭和50年)
コーヨー薬品(株)
福山 朝計
任期:1975年(昭和50年)~1994年(平成6年)
二代 吉村 益次
任期:1994年(平成6年)~1997年(平成9年)
大城満一
任期:1997年(平成9年)~2005年(平成17年)
島末洋司
任期:2005年(平成17年)~2010年(平成22年)
平野和之
任期:2010年(平成22年)~2017年(平成29年)
今井寿春
任期:2017年(平成29年)~2019年(平成31年)
村上伸一
任期:2019年(平成31年)~2023年(令和5年)
秋信裕一
任期:2023年(令和5年)~



セレクト画像・映像




リンク


(株)ダイコー沖縄のディスカッション

1:
2014/05/08 あらまし元原稿
(株)ダイコー沖縄の源流は光南薬品(株)と南陽薬品(株)の2社である。いずれの会社も終戦後米軍統治下にあって昭和26年米国民政府令第40号『薬剤師及び薬局に関する布令』により薬品会社の自由開業が認められたことに伴い創業したもので、光南薬品(株)の初代社長は屋嘉勇、南陽薬品(株)の初代社長は金城清松であった。両者とも、米軍薬品管理部直轄管理の下、配給商品を取り扱っていた米国海軍薬品配給所(Medical Supply Depot)のリーダーであった。国情混迷の中、舵取り困難は必定であったが各社とも戦後沖縄市場の席巻を目指し凌ぎを削った。光南薬品(株)は田辺製薬(株)、萬有製薬(株)、第一製薬(株)、塩野義製薬(株)、大日本製薬(株)、藤沢薬品工業(株)といった在京、在阪の大手メーカーとの強固な結びつきをもち、一方で南陽薬品(株)は戦争により一旦空白が生じたものの戦前より武田薬品(株)の販売総代理店として同社との関係が深く、いずれも商売は順調に拡大して行った。
(株)ダイコー沖縄中興の祖といわれる福山朝計が光南薬品(株)の社長に就任したのは昭和46年である。当時の沖縄は何れの業界においても労使関係が不穏な状況にあった。薬品卸の業界も例外ではなく、沖縄県労組の指揮のもと社内の組合活動が激化し労働争議にまで及んだ。事態の収拾を図るために前原信明社長は辞意を表明し、琉球銀行の紹介で薬業界との関わりが薄かったものの沖縄で広くその名を知られていた福山商事(株)の福山朝計社長に社長就任を要請したのである。光南薬品(株)社長に就任した同氏は、業界のしがらみを一掃し紛糾の要因と考えられる諸問題に次々と答えを出して行き、労使からの信頼を得るところとなった。顧客のニーズが何処に存在し、どうすればこれに応えられるか、その結果我々の得る利益はいかほどか、という着想は薬業界の「常識」・「慣習」に埋没していた労使に大きなインパクトを与えた。福山朝計の信条である「市場ニーズの探求」「数字への執着」は光南薬品(株)、コーヨー薬品(株)、(株)ダイコー沖縄でも徹底されることになる。
翌昭和47年(株)ダイコーと業務提携し、ダイコーグループの一員となり経営の近代化、人事交流、社員教育を推進。
昭和49年に浦添市牧港に本社移転、同年光南薬品(株)が存続会社となり南陽薬品(株)と合併し、コーヨー薬品(株)を設立した。コーヨー薬品(株)の初代社長には南陽薬品(株)の社長であった宮平義雄が就任したが、沖縄県薬剤師会の立ち上げや日本薬剤師会への参入に腐心するなど公務と社業の双方で多忙を極め、合併後1年間両社融合の進捗を見極めたうえで旧光南薬品(株)の社長であった福山朝計に社長職を禅譲した。
昭和62年合資会社サミット商事の医科向部門を吸収合併、外資系メーカーとの取引を拡大する。
平成3年売上100億円を突破し、翌平成4年ダイコーグループの再編とともに(株)ダイコー沖縄に称号を変更した。
その後社長は平成6年吉村益次(兼任)、平成9年大城満一、平成17年島末洋司、平成22年平野和之(現在)が就任し、沖縄の薬業界において確固たる地位を築いてきた。その間、平成16年宜野湾市大山へ念願の新本社社屋・倉庫を新築移転。平成23年(株)沖縄三和メディカルを子会社とし医療分野の業容を拡大している。
 
◆志手編集
Posted By 管理者 at 14-05-08 13:54