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[経営者たち] 初代 吉村益次 
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吉村薬局創業、(合)吉村益次商店社長


【在任期間】
1919年(大正8年)~1948年(昭和23年) 吉村薬局((合)吉村益次商店)当主

初代吉村益次(よしむらますじ)は吉村薬局の創業者。独立心旺盛で家業に見切りをつけ満州鉄道病院の薬局に就職。薬剤師となり、創業を決意し、修行のため久留米の大石薬舗に入店、経験を積み、1919年(大正8年)大分市で吉村薬局を創業。一心一向主義のもと、薬剤師を自分の天職とし、誠実に働き業績を拡大していった。

初代 吉村益次
1885年(明治18年)3月25日 誕生
1948年(昭和23年)2月12日 死去


生涯のあらまし

【生い立ち
初代吉村益次は1885年(明治18年)福岡県浮羽郡竹野村(現在の田主丸町)で村会議員などを務めていた吉村五次郎の長男として生まれた。家業は紺屋(染め物)と農業であったが、幼少の頃よりなんとか家を興し身を立てたいと大きな希望に燃えていた。独立心旺盛な益次は家業に見切りをつけ、24歳の暮に家を飛び出し南満州の大連へと海を渡り、小学校時代の友人を頼り雑貨店、土木業で働いた後、満州鉄道病院の薬局の小使いとして就職した。これが薬剤師になる始まりであり、その後の吉村薬局を築く基となった。

薬剤師免許取得
満鉄病院勤務を通じ、将来性のある薬剤師に自分もなりたいという気持ちが強くなり、親に嘆願し許しを得たうえで1911年(明治44年)(当時26歳)東京の明治薬学校に入学した。卒業し文部省の試験に合格し薬剤師の免許を得るのが1割足らずという狭き門のなか必死に、ひたむきに勉強した結果1年半で念願の薬剤師の免許を取得した。

大石薬舗入店
薬剤師となりふたたび満鉄病院で働きたいという希望をもっていたが、両親の強い願いにより断念。大分県日田に開業を考えるも、いきなり開業するより実地の経験を積んで開業した方が良いという周囲の助言により、久留米市今町の大石薬舗に入店した。1913年(大正2年)春のことであった。

大石薬舗で働きながら約1年間の大学研究室生活、そして醸造薬品を研究開発し販路の拡大に実績を上げるなど経験を積み、開業の基礎を築いていった。そして1914年(大正3年)11月二代大石忠次郎夫人の妹(幸)と結婚、生涯で10男3女(長女、三男、十男は夭逝、長男は昭和12年20歳で逝去)をもうけ、四男興一(二代益次)、五男重喜(後のコーヤク社長)、六男陸郎(後の宮崎吉村薬品社長)、八男慶元(後の二代目コーヤク社長)とフォレストグループの礎を築いた大功労者を4名も輩出している。

独立開業
1919年(大正8年)7月1日大分市大道町に家を借り、吉村薬局を開業した。幸夫人と弟の満の3人からのスタートであった。当地を選んだ理由は大正8年の帝国議会で久留米・大分間に久大線を建設することになったこと、健康を害していた体に大分の気候が良いとのことであった。

躍進
開業の無理がたたって肋膜炎を患ったがその間の満の献身的な努力に支えられて6ヶ月ほどで回復すると、同時に店の存在も得意先から認められ県立病院や諸官庁、会社などから注文がくるようになり、小売店からも卸をして欲しいとの要望も出てきた。また、大阪の中央問屋筋からも訪問が相次ぎ、大分地方の販売に力を入れてくれるようになった。背景に二代大石忠次郎から中央の問屋やメーカー筋に支援を頼んでくれたことも大きな力となったという。健康は回復し、信用が加わって商売は日を経るごとに隆盛となってきた。1年目の売上は1万5千円。翌年は3万円、3年目には6万円、4年目には12万円に達した。

初代益次は本来、営業に対して一心一向主義のもと、自分の天職に誠実に働くことを主義としており、武田長兵衛氏の教えもあり様々な名誉職、あるいは公職などに就くことは堅く避けていたようである。しかし、地域社会に対する義務感や責任感と、業界の発展に対しては積極的に貢献したいと考えており、やむを得ず選任されたものについては、それなりに精一杯努力し、責任を果たしている。

1925年(大正14年)、借家が手狭になったことから、大分駅前に進出した。店員は10人位、売上高は20万円ほど上げていたという。社業の発展に伴い、筋向いの倉庫を買収し薬品倉庫とすることにした。その後も発展の一途をたどり、得意先は大分県のほとんど全域にわたり、宮崎県も延岡付近から宮崎市にも及んでおり、さらに福岡県も行橋市あたりまで伸ばしていた。

法人化・業容拡大
1930年(昭和5年)11月、経営の近代化を目指し、時代の趨勢に照らして法人組織、会社組織に店を改め、資本金19万6千円の「合名会社吉村益次商店」とした。

1933年(昭和8年)、製造部門の設置を計画し、日出町の木下公家伝薬『龍虎圓』の製造権を買い取り、その他シロップやクレゾール石鹸液、重曹などガルヌス製剤の製造を本格的に始めた。1935年(昭和10年)家庭薬『マスノリン』『マスノール』の製剤に乗り出し、同時に大々的な宣伝を行いマスノリン旋風を巻き起こし相当の売上実績をあげている。
業績はすこぶる順調に推移し、1935年(昭和10年)前後、開業15年程度にして九州にあって業界屈指の実績を誇りうるまでに成長している。

戦災
1937年(昭和12年)に始まった日中戦争が長期化の様相を呈し、国家総動員法が公布され統制経済下となってから、商売の方は統制品による割当以外は極度の品不足状態となり、また店員も徴兵、徴用、召集と激減の一途をたどり40人近くいた店員もついに3名まで減少し開店休業の状態となった。

復興
大空襲により焦土と化した大分市にあって、金池本宅だけが奇跡的に戦災を免れて戦後再建の本拠となった。1945年(昭和20年)9月、本宅縁側を利用して僅かな在庫品を並べ、ささやかではあったが力強く再建の一歩を踏み出す。外堀通りに約300坪の用地を取得し段階的に本店舗を拡充していった。

物資は窮乏しインフレが進行するなか商品の仕入れには大変な苦難を強いられたが、薬品は飛ぶように売れた。20年当時6~7人の従業員であったものが、1948年(昭和23年)には60人に急増し、売上も年間1億円の大台に乗せている。

不帰の人となる
1948年(昭和23年)1月、初代益次は結婚以来31年目にして初めて、幸夫人の堅忍不抜の内助の功に報いるために、夫婦水入らずの関西旅行に出かけた。帰宅後、突然の原因不明の発熱に見舞われ、検査を繰り返した結果、関西旅行中に腸チフスに感染していたことが判明。ペニシリンがようやく出始めた頃であり、ストレプトマイシンはいまだ市販されていなかった。やっと手配したストレプトマイシンが届いた時は既に手遅れだった。入院して6日目、家族や社員の献身的な輸血も空しく不帰の人となった。1948年(昭和23年)2月12日未明、63歳であった。




エピソード録

<家憲> 
一、 営業に対しては一心一向たるべき事を本領として自分の全力をこれに集中して行くこと
一、 政治などの事には一切関与しないこと
一、 相場をするとか若しくば株式の売買取扱いとかそうした事には絶対関係しないこと
一、 一夫一婦を堅い主義とし決して手かけ妾などをおかないこと
一、 常に家に伝わる宗教を信ずるというその信仰の生活を忘れてはならぬこと
一、 保証裏書を依頼したりまた引受けたりせぬこと
    昭和12年1月1日  吉村 益次



著作や参考文献

創業30周年記念 拓く
吉村薬品六十年史 創造と革新の日々
冬の稲妻
吉村益次伝 一心一向



セレクト画像・映像


初代 吉村益次のディスカッション

1:
FHD内で打ち合わせの行いながら、「参考文献」まで全体的に改訂
Posted By 監修者 at 14-07-03 15:03