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[経営者たち] 溝上勝一 
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溝上薬品(株)の二代目社長


【社長在任期間】
1944年(昭和19年)~1976年(昭和51年) 溝上薬品(株)(溝上薬局)


溝上勝一(みぞかみかついち)。溝上薬品の二代目社長。1944年、戦争の激化に伴い大阪から白石町に引き揚げ、そのまま家業を継いだ。 翌年の長崎の原子爆弾投下の際、救護班を作って現地入りし、飲まず食わずでひたすら傷ついた人々に火傷の薬を与え続けた。佐賀で赤痢が流行した際は、開発されたばかりのサルファー剤を、大阪道修町まで出かけ、自転車で駆け回って集め、約千人の尊い人命を救った。

溝上勝一
1929年(大正12年)12月 誕生
1984年(昭和59年)12月 死去


生涯のあらまし

【経歴・お人柄等】

昭和13年、岐早薬学専門学校を卒業の後、大阪の製薬会社に勤務。昭和19年、戦争の激化に伴い白石町に引き揚げ、そのまま家業を継ぐこととなった。父が手掛けた「人参強壮圓」の製造も、昭和20年に入り原材料の入手が困難となり、やむを得ず中止した。
昭和20年8月、長崎に原子爆弾が投下された際、勝一は救護班を作って現地入りし、2泊3日、自分は飲まず食わずでひたすら傷ついた人々に火傷の薬を与え続けた。 同じ頃に佐賀で赤痢が流行。その際は、化学療法剤として開発されたばかりのサルファー剤を、佐賀では入手困難なため大阪道修町まで出かけ、白転車で駆け回って集め、約千人の尊い人命を救った。
その後、昭和24年、勝一は、次男久夫(専務)、三男徹(常務)とともに溝上薬品(株)を発祥の地、白石町で設立、三兄弟体制がスタート。

勝一はお得意先を非常に大切にした。ゴルフが上手で、酒もよく飲んだ。敷地内に打ちっ放し場を作り、先生方にも開放し一緒にトレーニングをし、『緑踏会(りょくとうかい)』なるものも結成していた。
昭和26年4月、佐賀支店を開設し、県内一円の病医院・薬局などに販路を広げることとなる。



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