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[経営者たち] 梁井益蔵 
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梁井一心堂初代当主


【社長在任期間】
1919年(大正8年)~1965年(昭和40年) (株)梁井一心堂((合)梁井一心堂、梁井一心堂)




梁井益蔵(やないますぞう)梁井一心堂の初代当主。基山の梁井薬店で修行し、熊本支店在籍中に薬剤師の資格を取得。独立にあたっては主家の商圏に配慮し、1919年(大正8年)鹿児島市にて創業した。血縁のない地での商売は当初苦労したが、やがて認められ業績は急成長した。その誠実さは競合する同業者からも信望を集めた。

梁井益蔵
1885年(明治18年)4月誕生
1970年(昭和45年)死去


生涯のあらまし

【経歴・お人柄等】

梁井益蔵は鹿児島で梁井一心堂を創業したが、1945年(昭和20年)3月18日以降、8回もの空爆で全てを失った。梁井家の戦後は一面灰だらけの焼け跡の中から全てが始まった。


益蔵はこの時61歳。鹿児島の薬業界の重鎮であり、初代大石忠次郎・初代吉村益次と並び九州の薬業界において列伝中の人物であった。ひろて屋の屋号をもつ雑貨商の家庭に生まれ、14歳で田代高等小学校を修了後、佐賀県基山の梁井薬店に奉公した。

益蔵は裏表のない正直な性格で、昼夜厭わず一心不乱に働いた。 また、奉公当時から晩年に至るまで無類の相撲好きで、観るばかりではなく、実際の腕前も相当なものだったようで、小兵ながら前褌を掴むと向かうところ敵なしであった。
主家では大阪から集金に訪れるメーカーのセールスを集め、「相撲をとって勝てば代金を余分に払う。」とけしかけ、盛んにメーカー対メーカーの対戦を組んだ。 相撲三昧の話は得意先にもあり、なかには卸の若いセールスを招集し、相撲をとらせて勝った方にその日の注文をする先生がいたが、『…私は体は小さかったが、相撲には可成りの自信があったから、大抵私が注文をいただく結果になった。』(梁井益蔵著『我が生涯の記』より)と益蔵自身語っていた。

1902年(明治35年)、医薬品の販売を薬剤師に制限するという法律の改正案が出され、今後、薬剤師の資格が必要になると痛感、主人に薬学校への就学を直訴し、明治36年熊本薬学校(現在の熊本大学薬学部)へ入学。当主は大層喜び翌年熊本支店を開設。明治40年薬剤師免許取得と同時に熊本支店長となった。支店長着任後はそれまで以上に粉骨砕身の働きで当主の恩義に報いた。

益蔵は「報恩」と「仕事への姿勢」を実践で示した。 西郷南洲を敬愛し、心学(陽明学)の“実践主義”を尊重した益蔵の日頃の姿から、部下は「もの言わずして百を語る」彼の姿勢を学び、仕事に励んだ。
業績は年々上昇を続け、ついに全支店でトップとなった。 1919年(大正8年)益蔵(当時35歳)は主家の許しを得て独立。独立に際しては、長崎・大分・鹿児島の各エリアの歴史・風土・商況を熟考した結果、選んだのは主家の本店(佐賀)、そして熊本支店から最も遠い鹿児島の地であった。

地縁血縁に加え、方言の壁というハンディキャップを、誠実さと粘り強さで乗り越え、益蔵は梁井一心堂を鹿児島を代表する卸へと育て上げる。しかし、第二次大戦により、これまで育て上げた全てを失ってしまう。
その頃のエピソードとして、二代吉村益次の述懐を引用する。
『……私共の一家には住む家は残されたのです。その頃梁井さんの方は、店舗も自宅も一切を空襲で失い、城山の麓の防空壕を住いとして長いこと住んでおられたらしい。鹿児島は特に空襲がひどかったわけですが、戦後すでに一年以上もたった頃と思います。
ある日父は、梁井さん一家が未だに防空壕生活で不自由をしておられる話を耳にし、お見舞いなり慰めなり激励の手紙を出し、折り返し梁井さんからの返事がきました。その時その手紙を父は何度も読み直し「梁井君が可愛想だ。うちはまだまだ幸いだった。」と涙を流していたことをハッキリと記憶しております。そして同時に、私共に「感謝」の道を懇々と説諭してくれました。梁井さんも又父の手紙を見て喜び、友人の真情に涙した由承っていますが、終戦当時のあの悲惨な環境の中に、六十を超えた男の友情が、清く美しく咲きにおい、本当に心温まることで私にとっては、今もって忘れ得ない想い出であります。……』 (『我が生涯の記』への寄稿文より抜粋)

当時の日本では、各地にコレラやチフス、赤痢などが流行して薬がないばかりに多くの人が次々と死亡した。 益蔵は自らの窮地を度外視し、懸命に商品の安定供給のために奔走した。

その後も益蔵の実践主義の結果エリアシェアは一変し、梁井一心堂に対する「信用」は同業他社の追随を許さぬほど盤石なものとなった。 かねてより周囲の信望が厚かった益蔵は、1951年(昭和26年)鹿児島県医薬品卸業組合の会長に就任、1954年(昭和29年)には九州医薬品卸業組合連合会の初代会長に推挙された。

この時益蔵69歳、次男謹二(後の副社長)は37歳、三男恭三(後の社長)33歳、四男洋之介(後の社長、ダイコー副会長)は20歳であった。高齢の当主を3人の息子が堅い結束でしっかりと支え、「鹿児島の梁井」の名を不動のものとした。



著作や参考文献

我が生涯の記



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