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[各社の歴史] 溝上薬品(株) 
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創業:溝上薬局 1910年(明治43年)佐賀




歴史の概要

創業者は溝上金一。「溝上薬局」は溝上薬品の源流企業。

1910年(明治43年)、溝上金一が佐賀県有明町に溝上薬局を創業。金一は、蜂蜜や朝鮮人参を原料とした練り薬・滋養強壮剤「人参強壮圓」の製薬を開始。二代目勝一は1949年(昭和24年)、次男久夫と三男徹とともに、溝上薬局(株)に改組、三兄弟体制がスタートした。県内の病医院・薬局などに販路を広げた。1965年(昭和40年)、国民皆保険以降の急激な変化と発展に伴い、佐賀県嘉瀬町に本社ならびに支店社屋を統合移転。

1965年(昭和40年)、長崎の藤村薬品、重松薬品、佐賀の神代薬品の3社と「三九会」を設立。経営に関する情報交換や共同販促を行なった。

1978年(昭和53年)、神代薬品と合併、シンコー薬品(株)が誕生した。1982年(昭和57年)、共栄協組へ加盟。1993年(平成5年)、シンコー薬品の新本社の基礎工事完了の時、コーヤク(株)、大石薬品(株)との合併を決意、1994年(平成6年)、キョーエイ薬品(株)が誕生した。


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溝上薬局店舗前



溝上薬品(株)


詳細

◆「医学のみならず薬学の発展が不可欠」溝上金一が創業

「これからの医療は、医学のみならず薬学の発展が不可欠である‥」溝上薬品の創業者、溝上金一が相談にのってもらった町の診療所の医師のこの一言が、医師を志していた金一を薬学の道へと進ませることとなった。
金一は熊本薬学専門学校の第1期生として入学、1907年(明治40年)に薬剤師免許を取得の後、1910年(明治43年)、長崎街道沿いの佐賀県有明町高町に薬局を開業し、1935年(昭和10年)には白石町に支店を開設した。

◆「製薬で人々のお役に立ちたい」の決意

金一は、もともと製薬の盛んな佐賀県の地域性を鑑み、また栄養の乏しい時代に何か人々のお役にたてる事はないかと考え、蜂蜜や朝鮮人参を原料とした練り薬・人参強壮剤の製薬を始めた。思うように栄養の摂れなかった時代だったため、沢山の人々に愛用され、販売エリアは九州各県はもとより西日本一円まで広がり、大きな成功を収めた。
金一は8人の子供(4男4女)をもうけた。長男勝一(二代目社長)、次男久夫(三代目社長)、三男徹、末っ子の四男宏であり、金一は子煩悩で、忙しい時間を割いては子供達の面倒をみたという。その後、佐賀支店を開設し、県内一円の病医院・薬局などに販路を広げた金一は、1951年(昭和26年)、63歳で他界した。
 

◆原爆投下、赤痢流行 世のため人のために尽力

二代目・勝一は、1938年(昭和13年)、岐阜薬学専門学校を卒業の後、大阪の製薬会社に勤務。1944年(昭和19年)の戦争の激化に伴い白石町に引き揚げ、家業を継ぐこととなった。父金一が手がけた製薬も、1945年(昭和20年)に入り原材料の入手が困難となり止むを得ず中止した。
昭和20年の8月、長崎に原子爆弾が投下された際、勝一は救護班を作って現地入りし、飲まず食わずでひたすら傷ついた人々に火傷の薬を与え続けた。また同じ頃に佐賀で赤痢が流行した際も、当時化学療法剤として開発されたばかりの「サルファ剤」を、佐賀では入手困難なため大阪の道修町まで出向き、自ら自転車で駆け回って集め、約千人の尊い命を救った。人々の苦しんでいる時に、わが身を顧みずに世のため人のために尽くす、これこそが勝一の真価の発揮であった。

◆三兄弟が力を併せ持ち味を活かして

その後、勝一は1949年(昭和24年)、次男久夫、三男徹とともに溝上薬品(株)を発祥の地・白石町で設立。三兄弟体制がスタートした。二代目はお得意様を非常に大切にし、次男は主に管理部門を担当。三男は経理を担当し、三兄弟がそれぞれの持ち味を活かして、良い意味でお互い補完し合っていたことが、溝上薬品の強みとなった。三男徹は縁の下の力持ちとして兄を支えたが、残念ながら40歳過ぎで亡くなり、その後、四男宏が入社、新たに経営の一翼を担うこととなった。
1965年(昭和40年)、国民皆保険以降の急激な業界環境変化と発展に伴い、本社ならびに支店社屋を統合し、佐賀県嘉瀬町に移転した。

◆「三九会」の誕生

「三九会」とは、昭和40年代初頭の西九州(佐賀・長崎)の武田薬品のシェアの高い、経営基盤の比較的似かよった卸4社による緩やかな業務提携によるグループ化であった。長崎の藤村薬品・重松(かさまつ)薬品、佐賀の神代薬品・溝上薬品の4社がそのメンバーであり、4社は武田薬品の指導の下、経営に関わる情報交換や共同販促等を行っていた。名前の由来は、主力の武田薬品からリベートをいただく3月と9月という意味と、リベートをいただいて「Thank you」という意味も掛けていた。
その後、1978年(昭和53年)の神代薬品と溝上薬品の合併によるシンコー薬品の誕生、1979年(昭和54年)の藤村薬品と重松薬品の合併により、以降は2社で継続され、毎月1回、佐賀・長崎にて交互に開催された。

◆良き好敵手が合併、シンコー薬品の誕生

環境変化を的確に捉え、将来に亘って勝ち残っていくためには何をなすべきか、武田薬品の指導もいただきながら、「心のふれあいを大切に、地域医療に貢献したい」、「地元医療に密着した、愛され、喜ばれる問屋となる」をモットーに、昭和53年11月、三九会のメンバーであった神代薬品(創業:明治23年)と溝上薬品(創業:明治44年)の両社は合併した。まさに好敵手同士、当時としてはあまり例のない地元同士の合併であった。
新社名は「シンコー薬品(株)」とした。「シン=神」「コー=溝」という両社の頭文字をとったものであったが、お得意様への「心交」「新興」「親交」への願いと、お得意様、メーカー様と心の通い合う会社でありたいという強い思いが込められた社名のネーミングであった。

◆共栄協組への加盟

コーヤクを中核とした共栄協組への加盟は、シンコー薬品となっての1982年(昭和57年)からだった。三九会の盟友である藤村薬品は既に昭和43年から加盟しており、協業化活動に取り組んでいた。共栄協組の理念である(1)自らの経営を良くする (2)協業により自らの向上を図る (3)自らの発展とグループの繁栄を一致させる」に従って行動し、共に努力を重ねていった。




沿革

1910年 明治43年 溝上薬品創業
1935年 昭和10年 白石町に支店開設
1944年 昭和19年 二代目 溝上勝一就任(創業者の長男)
1949年 昭和24年 08月 溝上薬品(株)設立 勝一の次男(久夫)と三男(徹)とともに 発祥の地 杵島郡白石町大字福田1500番地にて設立
1951年 昭和26年 04月 佐賀支店の開設 ~ 県内一円の病医院・薬局などに販路拡大
1964年 昭和39年 佐賀支店改築(佐賀市水ヶ江町新道271番地)
1965年 昭和40年 溝上、神代、藤村、重松で三九会結成
1966年 昭和41年 01月 本店、佐賀市嘉瀬町大字中原1965番地に移転 旧本店を営業所として継続し、白石店に名称変更
1966年 昭和41年 小売部門分離独立
1978年 昭和53年 10月 唐津支店閉鎖(合併に伴い、旧神代薬品 唐津支店に吸収)
1978年 昭和53年 シンコー薬品(株)設立



歴代経営者

溝上金一
任期:1910年(明治43年)~1944年(昭和19年)
溝上勝一
任期:1944年(昭和19年)~1976年(昭和51年)
塚原 肇
任期:1976年(昭和51年)~1978年(昭和53年)



著作や参考文献

源流の地を訪れて 佐賀



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