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[経営者たち] 福山朝計 
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(株)ダイコー沖縄初代社長


【社長在任期間】
1971年(昭和46年)~1974年(昭和49年) 光南薬品(株)
1975年(昭和50年)~1994年(平成6年) (株)ダイコー沖縄(コーヨー薬品(株))



「コーヨー薬品」誕生と福山朝計の社長就任
光南薬品は1951年(昭和26年)、国際通りに創業した。初代社長は屋嘉勇。在京、在阪の大手メーカーとの強固な結びつきを背景に第一期より経営は順調であった。
  1972年本土復帰と同時に業務提携によりダイコーグループの一員となる。1974年光南薬品(株)と南陽薬品(株)は合併しコーヨー薬品(株)を設立。コーヨー薬品の初代社長には南陽薬品の社長であった宮平義雄が就任したが、沖縄県薬剤師会の立ち上げなど、公務と社業の双方で多忙を極め、合併1年後、旧光南薬品(株)の社長であった福山朝計に社長職を禅譲した。 以降、長年にわたる努力の結果、付加価値の高い提案力を併せ持つ、理想の「ハイブリッド型卸」としての地位を確立した。 1987年に(合)サミット商事の卸部門と合併。 1992年(株)ダイコー沖縄に改称した。  

福山朝計


生涯のあらまし

【経歴・お人柄等】

「豪胆」で知られた柄山朝計氏は戦後の混乱から這い上がった傑物であった。1922(大工11)年彼は名門福山家の次男として沖縄で生まれた。1939(昭和14)年17歳のとき長兄朝弘氏同様大連に渡り、南満州鉄道株式会社に入社。1942 (昭和17)年にはハルピン鉄道学院を卒業してハルピン鉄道局経埋部勤務。翌1943(昭和18)年には満鉄在職のまま21歳で兵役についた。彼は所属部隊の移動により図らずも沖縄で終戦を迎えることになる。彼が所属していた部隊合計470名のうち最後まで生き残ったのはわずか7名であった。生存率1.5%の状況の中でなんとか生きていたのである。この時福山朝計氏23歳。その後語学(特に英語)堪能であった彼は米軍補給部に勤務。「通訳」としての力量と生来の「豪胆」を買われ、占領軍から厚遇された。幸い疎開していた家族も無事沖縄に帰ってきた。取り敢えず「食わねば」ならなかった。

占領施策の緩和がいつ頃になるかは分からなかったが現実を直視すれば、「その時」が来るまではなりふり構わず出来得る限りの「準備」をすべきであった。20代の若輩ながら倉庫内の「物」の流れを捉える感覚の鋭さは同僚の従業員ばかりでなく米軍幹部をも唸らせた。5年の間、着々と「地歩」を固めた彼は、那覇にあった米軍MG倉庫(Military Goversment Civil Supply DepotⅡ)において全従業員の総責任者兼主席通訳を務めるまでになった。そしてついに「その時」は来た。1950(昭和25)年民間貿易の解禁(米軍政府布令第26号『琉球列鳥における外国為替と貿易手続』である。当時、MG倉庫の従業員の総責任者であった彼は米軍から補給倉庫の民間移行に参画するよう懇願されていた。彼自身が米軍に「人物」として認められた証として光栄な誘いであったが、同僚を一部解雇することが条件であったため断った。終戦後労苦を分かち合った同僚を解雇してまでひとりだけ立身しようとは思わなかったのである。倉庫の解散と同時に軍作業に終止符を打つことを決意。実業界へ身を投じた。福山商事(株)の前身合資会社「丸久商事」の設立である。

前述のLCプームに乗り、初動は順調であった。ビール・サイダー・食用油等、本土からの「輸入」品の他、米軍倉庫から払い下げられた規格用紙(模造紙・更紙)ファイル用紙、タイプ用紙、カーボンペーパー、タイプ消しゴム、クリップ等の文房具類などを扱った。1951 (昭和26)年11月福山商事(株)を設立。丸久商事の土台を受け継ぎ、「輸入」も本格化した。なかでも「紙」の売れ行きが著しく、本土からの「輸入」品は飛躍的に増大。 『沖縄タイムス』『琉球新報』『モーニングスター』等の新聞各社、官庁関係や印刷所への納入で「商売」は繁盛した。「紙」市場の牙城はゆるぎなく継続し、新聞各社への納入は50年経った今も福山商事(株)が一手に引き受けている。



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