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[各社の歴史] 神代薬品(株) 
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創業:神代薬局 1919年(大正8年)佐賀



歴史の概要


創業者は神代良太郎。「神代薬局」は神代薬品の源流。

1890年(明治23年)、神代良太郎は佐賀県立病院「好生館」の初代薬局長となり、兼務した形で神代薬品を佐賀市で創業。二代目神代良孝が若くして病没すると、妻スガが三代目の当主となり、女性中心の体制で乗り切り、それ以来、家族的な企業として知られるようになった。1965年、長崎の藤村薬品、重松薬品、佐賀の溝上薬品の3社と「三九会」を結成。 1978年、溝上薬品と合併、シンコー薬品(株)が誕生した。1982年、九州北ブロックの共栄協組へ加盟。1994年、コーヤク(株)大石薬品(株)と合併し、キョーエイ薬品(株)となった。

創業当時の店舗前にて
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神代薬品


詳細

神代薬品 株式会社

◆神代(くましろ)の由来

神代薬品の神代家の先祖といわれる武内宿弥(すくね)は、神功(じんぐう)皇后の三韓(新羅、百済、高句麗)遠征の時、副将軍として活躍、筑後の国を賜り、「神に代わる働きをした」という意味で「神代」の二文字を授かったという。
1274年の蒙古襲来の折、時の執権・北條時宗は諸国の軍勢を博多湾に集結するように命じた。しかしながら筑後川が増水し川を渡ることが出来なかった時、神代良忠はおびただしい舟を集め筑後川に「舟いかだ」による「浮き橋」をつくり、諸国の軍勢はこれを渡り出陣することが出来た。その跡地は史跡となり筑後川べりに石碑が建立され、今も「神代橋」としてその面影を残している。

神代橋
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◆神代良太郎が創業

神代薬品の創業は1890年(明治23年)2月11日(紀元節、現在の建国記念日)にさかのぼる。弱冠20歳の創業者・神代良太郎は、金沢の第三高等学校医学部薬学科を卒業の後、佐賀県立病院「好生館」の初代薬局長となり、それと兼務した形での薬局創業であった。なぜ薬学を志し、何のために金沢へ出向いたか「創業の志」は、今となっては知る由もない。


◆二代目・良孝が若くして病没、妻・スガが当主に

二代目・神代良孝はスポーツ万能で、硬式野球、テニス、柔道何でもこなしたという。中でも柔道は全国中等学校柔道大会・個人戦で準優勝の実績を持ち、佐賀中学卒業後は京都の武道専門学校へ進学したいと言って良太郎を困らせたそうだ。しかしその瀬戸際で熊本薬専に進学、家業を継ぐこととなった。良孝は1932年(昭和17年)4月、43歳の若さで病没し、代わって妻・スガが三代目の当主となった。男性の店員はすべて兵役に応召し、番頭の岡山次六(後の神代薬品専務)と女性2~3任で切り盛りして戦時中をつないだという。
やがて終戦となり、店員が復員してきたが、主だった者は男主人のいない店の将来に不安を抱いたのか独立するものが多く、人手の確保には苦労が多かったという。

◆家族的な会社だから頑張れた!

年末は12月31日の夜中の12時過ぎまで仕事をした。資金繰りに苦慮し、31日の手形を年明けの1月の2日に落とさないと不渡りとなるので、楽しみにしている「紅白歌合戦」も見れず、店員が戻ってくるのをスガは火鉢に手をあてながら店番をしていた。1月1日のみ休んで2日は初荷。給料の支給が遅れることも時にはあったが、家族的な会社だから皆で助け合い頑張れた、給料には変えられない何かを店員達は感じていた。

◆四代目・良次が後を継ぐ

スガと良孝の間には4男1女がいたが、長男の辰巳は文学をこよなく愛し、「薬屋は継ぎたくない」と良孝に告げ、映画界に入り映画監督となり、日活で活躍した。そのため次男・良次が後を継ぎ、1963年(昭和38年)に株式会社へと変更し社長に就任した。
当時は、佐賀県の卸や薬局の相次ぐ倒産のあおりを受け、神代薬品も危機に見舞われ、資金繰りに苦しんだ。取引メーカーが相次いで離れていく中、主力の武田薬品に支えられ、何とか生き延びることができた。

◆「三九会」の誕生

「三九会」とは、昭和40年代初頭の西九州(佐賀・長崎)の武田薬品のシェアの高い、経営基盤の比較的似かよった卸4社による緩やかな業務提携によるグループ化であった。長崎の藤村薬品・重松(かさまつ)薬品、佐賀の神代薬品・溝上薬品の4社がそのメンバーであり、4社は武田薬品の指導の下、経営に関わる情報交換や共同販促等を行っていた。名前の由来は、主力の武田薬品からリベートをいただく3月と9月という意味と、リベートをいただいて「Thank you」という意味も掛けていた。
その後、1978年(昭和53年)の神代薬品と溝上薬品の合併によるシンコー薬品の誕生、1979年(昭和54年)の藤村薬品と重松薬品の合併により、以降は2社で継続され、毎月1回、佐賀・長崎にて交互に開催された。

◆良き好敵手が合併、シンコー薬品の誕生

環境変化を的確に捉え、将来に亘って勝ち残っていくためには何をなすべきか、武田薬品の指導もいただきながら「心のふれあいを大切に、地域医療に貢献したい」「地元医療に密着した、愛され、喜ばれる問屋となる」をモットーに、昭和53年11月、三九会のメンバーであった神代薬品(創業:明治23年)と溝上薬品(創業:明治44年)の両社は合併した。まさに好敵手同士、当時としてはあまり例のない地元同士の合併であった。
新社名は「シンコー薬品(株)」と命名された。「シン=神」「コー=溝」という両社の頭文字をとったものであったが、お得意様への「心交」「新興」「親交」への願いと、お得意様、メーカー様と心の通い合う会社でありたいという強い思いが込められた社名のネーミングであった。

シンコー薬品 社屋
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◆共栄協組への加盟

コーヤクを中核とした共栄協組への加盟は、シンコー薬品となってからの1982年(昭和57年)からだった。三九会の盟友である藤村薬品は既に昭和43年から加盟しており、協業化活動に取り組んでいた。共栄協組の理念である(1)自らの経営を良くする (2)協業により自らの向上を図る (3)自らの発展とグループの繁栄を一致させる」に従って行動し、共に努力を重ねていった。




沿革

1890年 明治23年 創業者 神代良太郎 佐賀県立病院「好生館」初代薬局長を兼務したまま薬局創業
1968年 昭和43年 神代薬品㈱に改称
1969年 昭和44年 04月 本社社屋建設用地購入(北川副町大字光法1469-1)
1974年 昭和49年 03月 社屋新築移転(佐賀市北川副町大字光法1469-1)
1978年 昭和53年 09月 合併契約書承認、定款変更決議(商号:シンコー薬品㈱)
1978年 昭和53年 神代薬品と溝上薬品が合併しシンコー薬品㈱を設立



歴代経営者

神代良太郎
任期:1890年(明治23年)~1939年(昭和14年)
神代良孝
任期:1939年(昭和14年)~1942年(昭和17年)
神代スガ
任期:1942年(昭和17年)~1963年(昭和38年)
神代良次
任期:1963年(昭和38年)~1978年(昭和53年)



著作や参考文献




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