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[経営者たち] 二代 吉村益次 
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ゆるぎない思想と卓越した指導力で会社・グループ・業界・地域経済を強力に牽引した


【社長在任期間】
1948年(昭和23年)~1980年(昭和55年) 吉村薬品(株)((株)吉村益次商店)
1958年(昭和33年)~1965年(昭和40年) 宮崎吉村薬品(株)
1972年(昭和47年)~1983年(昭和58年)/1997年(平成9年)~1999年(平成11年) (株)サン・ダイコー(ヨシムラ産業(株))
1978年(昭和53年)~1997年(平成9年) (株)リンテック((株)西日本特殊臨床検査センター)
1994年(平成6年)~1997年(平成9年) (株)ダイコー沖縄



1948年(昭和23年)初代益次が急逝した後を継ぎ、四男・興一(二代益次を襲名)が社長に就任。二代益次により(合)吉村益次商店は(株)吉村益次商店に改組、昭和31年には吉村薬品(株)に改称。
 経営に関しての哲学とずば抜けた先進性を併せ持ち、昭和30年代に既にドラッカーの著書を経営思想のバイブルとしていた。北ブロックにあって共栄協組を主導した実弟の重喜とは共に支え合い、時にライバルとして刺激を与え合う関係を続けた。「修身斉家治国平天下」「桃李不言下自成蹊」を座右の銘とし、「経営憲章」の策定、「統合合併論」「三つの挑戦」「新・三つの挑戦」を示すなど、その思想は、ダイコーやアステムの誕生を経て、現在もなおフォレストグループの発展と独自の企業文化の価値形成を支え続けている。地域社会においても8期23年にわたって大分商工会議所会頭として大分県経済界をリードし、地域経済の発展に多大な功績を残した。
 両グループの事業再編・統合による医療卸(株)アステムが発足した1998年4月を機に慶元とともに最高顧問となり、吉村恭彰を中心とする若い経営陣にバトンタッチした。1999年(平成11年)75歳で死去。
 生前最後の言葉が「会社がキレイだ。会議所がキレイだ。」であったという。時代を先取りした経営手腕と卓越したリーダーシップを遺憾なく発揮し、会社、薬業界、地域経済のために全力で走り続けた一生であった。




二代 吉村益次
1924年(大正13年)1月1日 誕生
1999年(平成11年)8月7日 死去


生涯のあらまし


【生い立ち

初代吉村益次の四男として1924年(大正13年)1月1日大分市で誕生した。前年の大正12年9月に関東大震災があり、その「復興第一」にちなんで、四男にもかかわらず「興一」と名付けられた。


家業に就く

大分中学2年の時、長兄が急逝し薬剤師の道に進むことになり、熊本薬専に入学した。1943年(昭和18年)9月卒業し、家業に就いたが戦時中ということもあり開店休業状態で一時母校大分中学の教壇に立った。その経験は後の企業経営に役立ったという。

海軍に入隊し薬剤官の集合教育で陸軍軍医学校甲府分校で終戦を迎えた。帰郷したが駅前の店舗や倉庫は焼失し、唯一残っていた金池町の自宅で復興の第一歩を踏み出した。1946年(昭和21年)軍隊時代の肺結核が再発し約6ヶ月入院した。退院後、初代益次から副社長を命じられ、経営の大半を一任すると宣言され、早速大分本店の経営近代化に着手した。


二代 吉村益次襲名

売上高1億円を突破し復興が軌道に乗り始めた矢先の1948年(昭和23年)2月、初代益次が急逝した。かねてより後継者とされていたため24歳という若さで興一が二代目社長に就任し、遺言により益次と改名した。吉村益次商店で実務を習い開業したOBの会「吉村同心会」のメンバーによる物心両面の応援もあり、1948年(昭和23年)5月株式会社吉村益次商店を設立した。


試練

1949年(昭和24年)大阪の有力卸の進出による廉売攻勢や1950年(昭和25年)の小倉薬局に対する国税局査察・追徴金支払い問題が発生し、大変な試練を受けることになったが、長年培った「信用」による得意先やメーカーの支援と全社員の奮闘によりこの連続した危機を乗り切ることができた。「商売の原点は何といっても信用であると痛感させられた。」とている。

廉売攻勢の最中、三度目の喀血をしたが幸いにして薬物療法で3ヶ月で復帰することができた。この時貴重な教訓を得ることになった。主治医からの教示「競争意識をもたないこと」、このことから競争相手を考えずに「“理想の卸”とはいかにあるべきか」を目標にすることになり、現在もその考え方が受け継がれている。


経営の近代化を牽引

1950年(昭和25年)有能な社員の採用・定着のために分かり易い「キャッチフレーズ」「ビジョン・経営理念」をつくるべきと考え、「健康と文化に奉仕するクスリのヨシムラ」というモットーをつくり、1953年(昭和28年)就業規則の大改定をした際に「わが社の営業の根本理念」の一項を加え「薬業のもつ公共的真価を認識しかつこれに権威あらしめ、職業を通じてより多く社会へ奉仕することにある」と会社の存在意義を明確に示した。同年12月、長期経営戦略を策定する役員会を開催した。戦略の1つは「一般用医薬品政策」で有力小売店を組織化し共存共栄、物心両面で変化に対応していこうというもの。もう1つは「医療用医薬品市場対策」で、「病院課」を新設して全県の医療用医薬品市場の構築を図るというもの。理念を会社経営の軸とする近代経営と、戦略経営の導入は、当時としては先進的で画期的なものであった。その一環として1月、有力小売店で組織される「青かび会」が発足し、後に「躍進会」と改名発展。また地域密着、在庫を持ってのクイックサービスで得意先のニーズに応えていこうと考え、支店網の構築にも着手した。

労使関係では1953年(昭和28年)下意上達のパイプとして人事委員会という組織をつくり、それが後の組合ではない労使協調の従業員会「金蘭会」へと繋がった。


社内外への提言

1959年(昭和34年)6月、混乱した流通機構のなかにあって卸に問われている本当の問題は何か、その対策はいかにあるべきかなどを記述した二代益次による「統合合併論」を提言、発表された。その後も薬業界のあるべき姿を考え、業界に積極的に物申す姿勢を貫いていく。

一方、社内では1960年(昭和35年)第2次長期5ヵ年計画を策定した。経営の近代化を標榜した計画であった。ピーター・ドラッカー著『現代の経営』に感銘を受け、同書をもとに自ら「経営憲章」を作成し、幹部社員の研修教材とした。

医薬品業界においては1961年(昭和36年)の国民皆保険の実施から、この年以降10年間、医薬品総生産額は毎年20数%増という驚異的な生産増を続けている。これは過剰生産によるメーカー間の過当競争を招き、卸間の販売競争も熾烈を極めた。実勢価は低下の一途をたどり、市場の混乱を増すばかりであった。1965年(昭和40年)12月医薬品業界を担う卸を含め、メーカーにも姿勢を正す意味で反省を求めなければならないとする二代益次の「医薬品企業健全化についての提言」と題した要望書が九州医薬品卸連合会から提出された。


ダイヤ会結成

昭和30年代後半、日本は高度成長期にあり、経済動向や交通体系の変化、国際化時代の到来といった将来見通しから、いずれ地域経済は県単位から広域化、ブロック化の方向へ向くと考えられていた。そして九州の薬業界においては、取り扱う商品の特殊性、多様性とメーカー・卸との関係、卸と得意先との複雑な取引関係などを考えた時、当時の九州をブロック化するとすれば、南北2つのブロックに分けて捉えるのが妥当であると見られていた。

南九州ブロックでは、創業以来親密な関係をもっていた宮崎の宮崎吉村薬品(株)、鹿児島のヤナイ薬品(株)、熊本のヨンマツ薬品(株)との4社で1964年(昭和39年)「ダイヤ会」を結成した。全国的にも初めての「グループ経営」のスタートであった。

1965年(昭和40年)、薬業界自体が転換期に入ったなか、企業の社会性と安定性の確立を目指し、新しい観点から地域総合商社への脱皮を考えた第3次長期5ヵ年計画を策定した。

1967年(昭和42年)の薬価大幅改定など試練の嵐のなか、1968年(昭和43年)二代益次が記述した「製企協への提言」と「第三の革新」はヨシムラの一貫して変わることのない経営に対する基本理念を公にし、真を問うたものである。


グループ本部会社(株)ダイコー設立

昭和40年代に入ると薬業界も大きく変貌した。時代はようやく本格的な国際化時代に入り「世界は一つ」「日本は一つ」「九州は一つ」と言われ、交通網、モータリゼーションの発展普及、加えて情報の発達が 経済単位の大型化と広域化を必然的に推し進めていた。このような変化のなか、ダイヤ会グループ各社の思想はあらゆる面で統一され、ゆるぎない固い結束力を保持するようになった。予想以上に大きく変化する環境にあって、4社がさらに具体的にグループ化のメリットを追求して行く必要性を痛感したのも当然の帰着であった。そしてここに「協業体」として法人化すべきだという方向が生まれ、4社の中軸となる中枢管理会社、いわゆるシンクタンクとしての「(株)ダイコー」が1969年(昭和44年)、業界注視の中で設立された。ダイコーの名称は、ダイヤ・コーポレーションの略称から決定された。そして(株)ダイコーの社長に二代益次が就任した。


三つの挑戦

1972年(昭和47年)、薬業界の構造変化に対応するための具体的課題を提示。「三つの挑戦」と題されたこの提案は、ヘルスインダストリーを掲げ、健康産業へ幅広く前進するダイコーの将来像と、その基本方針を示すものであった。本格的な事業多角化の展開、より高い卸機能の追求に向けて「量より質への転換」「モノから心の経営」を掲げ、その達成に向けて全力を投じたイノベーション活動が始動した。


大分商工会議所会頭に就任

1974年(昭和49年)4月二代益次は地元経済界の強い要請を受け第18代大分商工会議所会頭に就任した。それから8期23年にわたって大分県経済界をリードし続け、地域経済情報センターの設立に尽力したほか経済界の人材養成のためのマネジメントスクールを開講するなど、地域経済の発展に多大な功績を残した。

社長から会長に

商工会議所の仕事も多忙になったため、1980年(昭和55年)7月自らは吉村薬品の会長となり後任社長を長尾昭二に託し、グループ全体の舵取りに専念することした。


新生(株)ダイコー誕生、会長に就任

度重なる薬価基準の引下げや医療機関の経営緊迫化など卸経営を揺るがす課題が山積するうえに、1992年(平成4年)「完全仕切価制」移行による新流通時代の到来で、卸裁量の価格競争過熱や全国の卸再編の加速等が予想された。1991年(平成3年)5月、本部会社ダイコーの設立から20年が経過していることもあり、業界に先駆けて4社が合併に合意。翌年4月合併に向けMIKSプロジェクトが活動を開始した。

1992年(平成4年)4月、吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の4社が合併し新生株式会社ダイコーが誕生した。

新生ダイコー誕生にあたり、二代益次は21世紀に向けての新会社の長期戦略「新・三つの挑戦」を示した。


1 新・地域密着卸への挑戦

2 多次元生産性への挑戦

(一次元=個人の生産性 二次元=組織の生産性 三次元=戦略の生産性 四次元=企業文化の生産性)

3 更に深く「脱価格競争」への挑戦



本部会社(株)アステム設立

1995年(平成7年)3月、ダイコーグループと北部九州のキョーエイ薬品グループとの協業を決意。翌年には協業推進本部会社(株)アステムを設立。


医療卸(株)アステム誕生、最高顧問に就任

両グループの事業再編・統合による医療卸(株)アステムが発足した1998年(平成10年)4月を機に吉村慶元とともに最高顧問となり吉村恭彰社長を中心とする若い経営陣にバトンタッチした。


巨星

1999年(平成11年)75歳で死去。生前最後の言葉が「会社がキレイだな。会議所がキレイだな。」であったという。時代を先取りした経営手腕とリーダーシップを遺憾なく発揮し、会社、薬業界、地域経済のために全力で走り続けた一生であった。





エピソード録

■■■要内容検討



著作や参考文献

修身斉家
創業30周年記念 拓く
追悼吉村益次
吉村薬品六十年史 創造と革新の日々
冬の稲妻



セレクト画像・映像


二代 吉村益次のディスカッション

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初代同様、FHD内部で打ち合わせを行いながら
7月2日に「参考文献」まで全体的に修正
Posted By 監修者 at 14-07-03 15:18