設立:1992年(平成4年)
歴史の概要 ダイヤ会、本部会社ダイコーを経て4社合併で医薬品卸として誕生。1992年(平成4年)、吉村薬品(株)、宮崎吉村薬品(株)、ヤナイ薬品(株)、ヨシマツ薬品(株)の4社が合併し、医薬品卸(株)ダイコーを設立。社長に長尾昭二が就任。この社名は、1969年(昭和44年)にグループのシンクタンクとして設立した(株)ダイコー(本部)を採用した。1994年(平成6年)、吉村恭彰が二代目の社長に就任した。 この4社の合併は社会や経済、業界環境の大きな変化に対処するための進化であったが、合併後、環境は予想以上に激変した。これを受けて、新たな協業を模索するため、1996年(平成8年)、新本部会社アステムを設立。吉村恭彰がアステムの社長も兼任し、新時代に向けての舵取り役を担うことになった。1998年(平成10年)、キョーエイ薬品(株)、(株)サン・メック、(株)コマックと合併し、医療総合卸(株)アステムを設立した。 |
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◆協業グループから合併へ
南九州ブロックの4社は1964年(昭和39年)に協業グループ「ダイヤ会」を結成して以来27年の間、互いに緊密に連携し経営課題を共有しながら、年々厳しくなる業界環境の先を見越して戦略的に対処し、経営基盤を強化するためのグループ経営を行ってきた。
1969年(昭和44年)にはグループ化のメリットをより追求するために、グループのシンクタンク(本部)としての機能を担う(株)ダイコーを設立。この法人化以降、4社は多角化した関連企業を含めダイコーグループとして地域密着の営業を積極的に展開する。その一方で、ダイコー主導で1972年(昭和47年)に掲げた長期経営戦略「三つの挑戦」を共に実践していった。
1「ヘルスインダストリーへの挑戦」
医薬品を基幹に健康関連分野への多角化展開を図り、成長した多角化事業は、サン・ダイコー、サン・メック、創健、リンテック{1992年(平成4年設立)}と分社独立していくことで、ダイコーグループという企業集団に成長した。
2「スケールアップ、レベルアップへの挑戦」
長年にわたる「卸こそ人がすべて」の信念の下、人材の採用、教育訓練と育成に注力した。管理職にはスケールアップを、社員にはレベルアップを求めてきた。
3「脱価格競争への挑戦」
量よりむしろ質の経営を目指し、お得意先へ価格以外の付加価値提供を心掛けた。
その成果を踏まえた上で、より広い舞台で社員に夢と誇りを与えたい、更に有能な人材の育成と能力の再開発を図りたい、新しい卸機能の開発を図りたい、絶えざる革新を企業でありたいという願いが結実し、ダイコーへの合併合意に至った。
折りしも、旧来の取引慣行を一変する仕切価制の導入という業界環境の激変が真近に迫っており、これに積極的に対応するための再編の必要性があった。
◆「4社合併プロジェクト=MIKS」始動
※プロジェクト名「MIKS」は、各県の焼酎で企業の統合を表現した。
M:未来に向けて(大分・麦焼酎) I:一直線(鹿児島・芋焼酎)
K:切り拓け(熊本・米焼酎) S:新時代(宮崎・蕎麦焼酎)
1991年(平成3年)吉村恭彰ダイコー副社長をリーダーとする4社合併プロジェクト=MIKSがキックオフした。プロジェクトに示された7つの指針は①理想の卸の追求 ②視野は九州ブロック ③地域密着のさらなる実践 ④常に一歩進んだ先進性 ⑤質と量とのバランス ⑥人材が育つ会社 ⑦期待され祝福される会社。7専門委員会と3各県委員会、合計10委員会が“全国規模の大手卸に勝るとも劣らぬ新会社を創る”を目標に、延200回以上の会合を重ね、広く意見を集め、知恵を絞り、様々な改革案の案出に取り組んだ。
◆新生「株式会社ダイコー」誕生
◆長期戦略「新・三つの挑戦」
1.「新・地域密着卸」への挑戦
地域社会の「健康と文化に奉仕する」という会社のモットーを社員全員深く理解し、よりグローバルな視点に立って、医療を通じ地域社会に密着していく。
2. 「多次元生産性向上」への挑戦
新時代は①個人の生産性(一次元) ②組織の生産性(二次元) ③戦略の生産性(三次元) ④企業文化の生産性(四次元)と多次元の生産性が求められる。より広い視野に立って、より長期的に、深耕密着、より高い生産性を追及すること。
3. 更に深く「脱価格競争」への挑戦
新流通時代の幕開け、これからの医薬品卸として真に持つべき機能を自覚し、それを高め、お得意先からもメーカーからも信頼され、頼られる卸であること。お得意先が真に求めているニーズに応えて、価格競争に勝る価値ある「プラスサムシング」を提供していく。
◆業界変化の加速
平成4年当時の医療制度は医薬品・医療機器業界の財政破綻により行き詰っていた。そのため、企業再編と生き残りをかけた競争が一段と激化し、かつてないほど厳しい経営環境にさらされていた。旧来の経営手法では解決できない様々な混乱と、地域や業態・業際のボーダレス化が進む業界において、適正な商圏の確立と流通業としての機能進化、将来にわたる経営基盤の永続性を確保するための再編合併のあり方が積極的に模索されていった。
◆協業推進のための「(株)アステム」(ディー・ジー・エイチが母体)発足
ダイコーグループとキョーエイ薬品グループは、九州を南北に分けて、それぞれ独自の協業を展開してきた。1995年(平成7年)、両陣営は新協業に向けて、共同で新理念に基づく新本部機構を設立することに合意した。
情報や流通に国や地域のバリアがなくなる世界規模のボーダレス化の中で、21世紀の医療制度、流通は大きく変容することが想定された。人々が抱える健康に対する考え方や価値観も大きく変わることが予想され、この大変化に対応するために、1996年(平成8年)「アステム・フォレスト」を編成、本部機構(株)アステムを発足させた。
◆"九州はひとつ"の再編合併「株式会社アステム」設立
1998年(平成10年)ダイコー(医薬品卸)と、キョーエイ薬品、医療機器卸のサン・メック、コマックの4社が合併し、(株)アステムを設立した。激動する日本及び世界の中で、新たな挑戦の幕が切って落とされた。*設立された(株)アステムは、2年間協業推進をした同名の本部機構として発足した(株)アステムとは異なる企業である。
・ | 1992年 | 平成4年 | 04月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品が合併し㈱ダイコーを設立 |
・ | 1992年 | 平成4年 | 04月 合併報告会開催(大分東洋ホテル) |
・ | 1992年 | 平成4年 | 05月 ㈱リンテック設立 |
・ | 1992年 | 平成4年 | 05月 社員持株会制度発足 |
・ | 1992年 | 平成4年 | 09月 鹿児島営業部新築移転(吉野→宇宿) |
・ | 1992年 | 平成4年 | 04月 長尾昭二 社長就任 |
・ | 1993年 | 平成5年 | 01月 中期5ヵ年経営計画「大航海」スタート |
・ | 1993年 | 平成5年 | 10月 山口薬品(株)を吸収合併し竹田営業所となる |
・ | 1993年 | 平成5年 | 10月 ダイコーグループボランティアクラブ(略称D.V.C)が発足 |
・ | 1994年 | 平成6年 | 04月 吉村恭彰 社長就任 |
・ | 1995年 | 平成7年 | 02月 阪神淡路大震災の被災地にダイコーボランティアクラブから4名派遣 |
・ | 1995年 | 平成7年 | 03月 キョーエイ薬品と新協業で合意・発表 |
・ | 1995年 | 平成7年 | 08月 協業推進を目的に「プロジェクトコンパス」キックオフ |
・ | 1996年 | 平成8年 | 01月 キャリア選択支援制度新設 |
・ | 1996年 | 平成8年 | 04月 社用車オートリース導入1,000台 |
・ | 1996年 | 平成8年 | 03月 二代吉村益次大分商工会議所会頭を退任 |
・ | 1996年 | 平成8年 | 04月 ダイコーとキョーエイ薬品共通の本部機構(株)アステムを設立(博多区山王、専任者16名) |
・ | 1997年 | 平成9年 | 03月 「ダイコーホームページ」スタート |
・ | 1997年 | 平成9年 | 04月 新中期5ヵ年経営計画「メタモルフォーゼ」スタート |
・ | 1997年 | 平成9年 | 09月 福岡市東比恵に本社用地取得 |
・ | 1998年 | 平成10年 | 04月 キョーエイ薬品、ダイコー、コマック、サン・メックが合併し医療卸㈱アステムを設立 |
長尾昭二
任期:1992年(平成4年)~1994年(平成6年)
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吉村恭彰
任期:1994年(平成6年)~1998年(平成10年)
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