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[経営者たち] 吉村重喜 
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個性的でアグレッシブな経営者として、 北の企業集団を率いる


【社長在任期間】
  • 1947年(昭和22年)~1981年(昭和56年) コーヤク(株)(コーエー小倉薬品、小倉薬品、小倉薬局)
  • 1962年(昭和37年)~1971年(昭和46年) (株)コーエー(アイコー薬品、磯部旭小倉薬品、旭小倉薬品)
  • 1977年(昭和52年)~1981年(昭和56年) コマック(株)(コーヤクアビリティーズ) 
  • 1959年(昭和34年)~1966年(昭和41年) 大石薬品(株)

【経歴

  • 1925年(大正14年) 3月8日 初代益次の五男として、大分市にて誕生
  • 1944年(昭和19年) 明治薬学専門学校卒業
  • 1945年(昭和20年) 終戦により復員後、吉村薬局に入社
  • 1947年(昭和22年) ㈱小倉薬局 代表取締役に就任
  • 1955年(昭和30年) 玲子夫人と結婚、一男一女に恵まれる

 

【主な兼務職

  • 共栄医薬品卸協同組合 理事長 北九州医薬品卸協組→九州医薬品共栄卸協組→)
  • コーヤクアビリティーズ㈱ 代表取締役社長(コーヤク・メディカル・アビリティーズ㈱→コマック㈱) 

 
【主な公職】

  • 九州青年会議所理事長 ‥1957年昭和32年)
  • 小倉商工会議所常議員 ‥1961年(昭和36年)
  • 日本医薬品卸業連合会常任理事 1968年(昭和43年)
  • 福岡県医薬品卸業協会会長就任 ‥1973年(昭和48年)
  • 日本医薬品卸業連合会副会長 ‥1974年(昭和49年)
  • 北九州商工会議所常議員 ‥1974年(昭和49年)
  • 福岡県薬業団体連合会副会長 ‥1975年(昭和50年)
  • 福岡県中小企業経営者協会北九州支部代表幹事 ‥1981年(昭和56年)
  • 他多数を歴任

 
【受賞歴

  • 九州・山口地域経済貢献者顕彰財団 経営者賞 ‥1978年(昭和53年)
  • 北九州商工会議所議員15年以上在任表彰 ‥1978年(昭和53年)
  • 福岡県薬事功労賞 県知事表彰 ‥1978年(昭和53年)
  • 日本医薬品卸業連合会 会長表彰(役員二十年以上在住功労)‥1981年(昭和56年


吉村重喜
1925年(大正14年)3月8日 誕生
1981年(昭和56年)12月21日 死去


生涯のあらまし

【経歴・お人柄等】

1925年(大正14年)初代吉村益次の五男として誕生。吉村家の子供たちはみんな腕白であった。中でも重喜は兄弟の誰よりも腕白ぶりを発揮した。一つ年上の興一(四男、二代吉村益次)にしても重喜とは始ど同じ年齢だから同じように腕白をしたかったが、兄が弟の面倒を見ることが鉄則であった吉村家に於いては、度はずれた腕白ものを弟に持った兄は監督役をせざるを得なかった。重喜が自由奔放にふるまい、興一がそれを保護するという二人の関係は、それ以後重喜が亡くなるまで続いた。

 昭和六年、重喜は大分の金池小学校に入学したが、新しい服は買ってもらえず、兄たちのお下がりを着せられた。これは父初代益次の方針で、吉村家の子供たちは収入の割には質素過ぎるといえる程の育て方をされていた。重喜は、いつもにこにこして、面倒見が良く、皆から親しまれ、小さな子供たちの中で一番人気があった。勉強もよく出来、秀才と腕白大将の一人二役を果たしていたという。 昭和十二年、大分中学校に入学した。当時の友人は言う、「男らしく 何者をも恐れない。職員室に立たせられる最多記録保持者でした。仲間がやられると、防御するために暴力をふるうことが多かった。その反面、友情に厚く、もの事に感じ易い多感な少年だった。ピアノを弾くという隠れたオ能もあったようで、堂々と講堂のピアノを弾いていた」。後に、社歌などを数多く作詞作曲して歌うシンガーソングライターとなる芽は、このころ現れていた。

1942年(昭和17年)、重喜は父の母校である明治薬学専門学校に入学した。薬専でも変わらずクラスの硬派のボスになっていた。自分の心をそのまま明けっぴろげにさらけ出し、面倒見も良く、重喜の周りには自然と友達が集まってきた。 戦争が終わり、重喜は大分の吉村薬局の営業マンとなった。人なつっこい笑顔が得意先の心をとらえ、持ち前のカンの良さと、人情の機微に対応できる芝居っ気で以て、打ち込んで仕事をするといったところはないが売上成績を上げた。苦労してこそ商いの有り難みはわかるもので、あまり努力しないで売れると、つい商売を軽く見るようになった。

初代益次は初めは重喜の商売上手を喜んでいたが、金の使い方を戒めることとした。興一と共に説いて聞かせようとしたが、酒の勢いもあって、売り言葉に買い言葉でプイッと家を飛び出してしまった。やがて居場所を母につきとめられ、母から平手打ちを喰らいしぶしぶ連れ戻された重喜は、涙で喉を詰まらせながら父に対してわびを入れたという。 

1940年(昭和15年)、初代益次は大石忠次郎商店と共同経営で小倉楽局を発足させた。代表社員は大石の浜田宗四郎であり、大石系主力の会社であった。八幡製鉄、小倉造兵廠、門司鉄道局の三大手に対する販売権を譲り受けていたため、発足当時は好調であった。しかし1941年(昭和16年)の戦争開始とともに統制が強化されるにつれ、資材不足の深刻化と共に開店休業の状態となり、一方で空襲による被害が大きくなったため、浜田は郷里へ引き揚げた。戦後になっても商売は一向に振るわず、営業権を吉村益次商店に譲渡したいということになり、1946年(昭和21年)9月、吉村から三重野支配人が長岡を連れて小倉へ赴任、吉村益次商店の小倉支店として新発足した。北九州市場の将来性を期待しての総勢八名でのスタートであった。

1947年(昭和22年)3月、株式会社小倉楽局設立。将来重喜を社長として独立させる意図があっての会社設立だった。 重喜と三重野は反発しあった。悩んだ初代益次は、重喜に一切の権限と責任を与えることしか彼を一人前に出来ないという判断を下したが、それは小倉薬局をつぶす結果になるかもしれぬ賭けであった。

実直な興一と違って芸術家肌の重喜に、小倉の店を賭けてみようと決心し、重喜を代表取締役社長とし、三重野をその下の支配人にした。お山の大将なれたことで重喜は文字通りハッスルした。1948年(昭和23年)は売上7760万円と3倍以上の増収となった。同年2月12日、父益次が急逝した。「重喜、小倉の方は頼むぞ」と、同じ思いに堪えながら弟を励ます興一に、重喜は涙の目を光らせて言った、「おう、まかせとけ」。

1953年(昭和28年)、社名を小倉薬品(株)に変更、全国の卸で初めて薬品という名前を使った。 1954年(昭和29年)の新年の挨拶で重喜は、「自分は来年30歳になる。来年中に本社の新築にかかって、小倉薬品の新しい出発にしたい」と、馬借に新社屋を建設する計画を発表した。

企業理念が同じ者同士が結束して薬業界を革新していく必要性を唱えた重喜は、直方の松井薬局、福岡の高瀬薬局、若松の佐藤薬局そして大石薬品と共に五社で、1959年(昭和34年)11月、北九州医薬品卸協同組合を発足させた。5社の人事、商品および会計の管理という各社の共通業務を福岡事務所に集約してゆき、各社はセールスチームに徹するという構想を重喜は抱いていた。その趣旨と抱負は、

(1)経営改革を考える
(2)経営の集団化ないしは協同作業
(3)物心両面の提携
(4)資本の交流提携による公開的経営結合
(5)過当競争の排除
と述べている。

重喜は、下曽根に移ってからも早朝無休出勤を継続した。大手町時代は小文字の自宅から約四キロの道を、毎朝歩いたり走ったりして通っていたが、下曽根に移ってからは、小倉駅までの約三キロの道を歩き、五時発の列車に乗った。早朝誰もいない事務所で、朝礼や社員総会の演説、草稿を書くことが多かった。その机は大手町時代からの木製の半円に近い形のもので、事務所の中央にそれがでんと据えられていた有様は司令塔のようであった。 

1973年(昭和48年)、重喜は徳山店・柳井店の従業員と合同懇親会を開いた。社長とはじめて会う若い社員や、めったに話すことができない社員たちは、社長と焼酎を酌み交わして語ることで感激した。自分は社員たちと親しく語り合うことがなかったと強く反省し、年一回は必ず全事業所を回って、 一言でも言葉を交わそうと決心した。「ナハ会」と重喜が名づけた、社員を「慰め励ます」懇親会がこの時から始められることになる。

1975年(昭和50年)、「ニギリ飯思想」を書いた。ニギリ飯思想とは、世間の風潮に染まらず「正しく、強く、温かく」事業の心をまげずに貫きたい願望の表現なのである。ニギリ飯は、粗食粗衣で清貧に耐え、どん底生活でもへっちゃら。予想される“食料、資源、エネルギー”パニックの中でも生き残り、さわやか人生の生きがいを象徴する。三角形(ピラミッド)は、底辺大きく、頭小さく、どっしりと安定型で、頭でっかちや、中間細くのグラグラ型ではない。

1977年(昭和52年)5月、日本アビリティーズとコーヤク、それにリハビリに従事している医師数十人が出資してコーヤクアビリティーズが設立された。身障者による身障者のための会社、リハビリテーション機器を取り扱う医療機器部門(後のコマック)の出発宣言である。同11月、コーヤク(1978年1月に社名変更)20周年記念式典が本社社屋で挙行された。医薬品業界の幹部、経済界、得意先、海外企業の関係者らが多数つめかけた。米町のガタピシ事務所で汗と涙のスタートを切って30年、地元のみならず日本卸という中央業界でも風雲児として期待を集めるようになった彼にとって、その日は昇りつめた太陽の輝きのような一日であった。

<開拓者の10章>

1.誇り 吾等は開拓者としての栄光を負うもの。高き衿持と自覚を失わない。 
2.斗志 吾等は全ゆる苦難と斗うのだ。雨にも雪にも嵐にも。 
3.誠実 開拓する者に邪魔はつきものだ。吾等は誠実一点張りでこれに対する。 
4.情熱 吾等は情熱を失わない。重荷を負って第一歩を踏み出したあの感激で。 
5.忍耐 マークしたら絶対に離すまい。忍耐こそ吾等を真の人間にするからだ。
6.研鑽 常に学習を怠らない。時代に遅れ知性に欠ける時は吾等は戦列よりの落伍者となる。 
7.健康 吾等は開拓者。頑健な体軀、健康な精神、常に明朗な一歩をキザム。 
8.理想 夢をもとう。血と汗と涙の征服だ。山頂には明るい虹の幸福が待つ。 
9.注意 八方に気を配れ。吾々の敵は何処にもいる。自らの心の中にも。 
10.団結 吾等は友情のザイルで結ぶ。堅いチームワークは如何なる障害をもはね返す。 

そして重喜の健康にかげりが見え始めるのもこの頃からである。身体の調子がどこか本調子でないことを感じていた。重喜はおおよそ月の半分以上は会議のため東京か大阪に出張していた。「ナハ会」の回数を倍増し、千軒の得意先、千軒の仕人先を訪問しようとした。もちろん、年中無休の早朝十キロジョギング、早朝出勤は続けながら。1981年(昭和56年)、重喜は次から次へと襲いかかってくる苦難に向かって、コーヤクだけでなく卸業界全体を引っ張って正念場を乗り越えねばと唇を噛むような思いでいた。

時々痛む下腹部の鈍痛が気になったが、気力でもって自らの不安を打ち消していた。1981(昭和56年7月)、今までとは違った激痛に襲われ、小倉に帰った重喜は、二代益次の説得により9月から入院することになったが、入院してからも東京へ出張し、会社へ出社した。12月に入り病状はさらに悪化した。12月21日、重喜は早朝より発熱、呼吸困難に陥り、56歳で死去した。「あなたはいったい何にぶっつけて56年間苦闘しつづけたのでしょうか」末妹の節子が弔辞で投げかけた問いは、重喜氏を知るすべての者に共通する問いであった。 

濃縮された人生をまさに台風一過のように駆け抜けた男であった。




著作や参考文献




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Posted By 監修者 at 14-07-03 15:18