創業:梁井一心堂 1919年(大正8年)鹿児島
歴史の概要 創業者は梁井益蔵。「梁井一心堂」はヤナイ薬品の源流企業。 1919年(大正8年)、鹿児島市の天文館で梁井一心堂を創業。創業者の梁井益蔵は、基山の梁井薬店に奉公、熊本支店在籍中に薬剤師の資格を取得した。創業地は主家の商圏に配慮し鹿児島の地を選んだ。社屋が空襲で被災し全壊するが再建し、世代交代を経て独自の経営哲学と地域密着の営業体制で近代企業へと成長していった。益蔵と吉村薬品の初代 吉村益次は「益々コンビ」と呼ばれるほど生涯を通して深い友情が続いた。
ヤナイ薬品本社屋
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詳細
◆創業者、梁井益蔵の生い立ちと梁井薬店への奉公
ヤナイ薬品の創業者梁井益蔵は、1885年(明治18年)、佐賀県の基山村の雑貨商の家庭に生まれた。アメリカに渡る夢を抱き、進学を希望していたが、父の友人の勧めもあって、1898年(明治31年)、地元の「梁井薬店」に奉公することになった。
奉公先の主人、梁井幾太郎氏(血縁はない)は慈愛に溢れた人物で、14歳の益蔵はこの主人の下、商売や商品知識、礼儀作法を学んでいった。
久留米の米屋町にできた支店と本店の兼務を命じられ、毎日往復24キロの道のりを、荷物を背負って往復した。
主人、幾太郎氏は相撲が好きで、益蔵はよく相撲をとらされた。また相撲好きの得意先があり、勝った方に注文を出すことがしばしばあった。益蔵は小柄だったが相撲は強かったので、注文はほとんど益蔵が獲得することになったというエピソードが残されている。
◆時代の中で見つめた「薬業人」としての自覚
1902年(明治35年)、医薬品の販売を薬剤師に制限するという法律の改正案が出された。このとき益蔵は、今後薬業で成功するには、薬剤師の資格が必要になると痛感し、意を決して進学したい旨を主人、幾太郎氏に相談する。主人、幾太郎氏は益蔵の日頃の仕事ぶりを認め、物心両面の援助を約束した。益蔵は、このときの主人の恩情を終生忘れることはなかった。
無事試験に合格し、熊本薬学校(現熊本大学薬学部)に入学。1905年(明治38年)に薬学校を卒業後、熊本支店での本格的な活動を始めた。益蔵は熊本県下一円を廻り、宮崎県まで新規開拓に奔走した。「共存共栄」を信念に、誠意を持って得意先と接した結果、多くの100%近い占拠率の得意先が獲得できた。
1907年(明治40年)、薬剤師の試験に合格した益蔵は、23歳で熊本店の支店長となったのもつかの間、第一次世界大戦勃発で久留米に招集される。この時期、益蔵は戦争の傷病兵や、最愛の我が子を亡くすという人生経験を通じて、人の命を救う薬業の尊さを痛切に実感する。
◆独立場所には恩ある奉公先とバッティングしない鹿児島を選ぶ
熊本に帰った益蔵は薬業に一生を捧げる決意を固め、独立を視野に入れ、経営者としての将来を意識して働くようになった。1919年(大正8年)長年の念願が叶い、鹿児島市の天文館で「梁井一心堂」を創業する。このとき益蔵35歳。創業地は恩のある「梁井薬店」の商圏以外の土地を候補にし、その中から、多くの偉人を輩出した、たくましい土地柄に魅かれ、鹿児島市を選んだ。西郷さんと桜島が決め手だった。知人も血縁もいない、まったくの新天地での創業だった。
「梁井一心堂」では主人の忠告どおり、先ず小売から始めた。当初は鹿児島の地理も言葉もわからず、慣れない小売も性に合わず苦労したが、商売は徐々に軌道に乗り、一家の生活を支えることができるようになり、地域との縁も深まっていった。
1921年(大正10年)、アメヤ筋(東千石町)にようやく本格的な店舗を構えると、その後、薬局・薬店の取引先が増え始めた。このころ梁井一心堂で働いた人々が郷里に帰り、「基山一心会」という親睦会をつくり、益蔵夫妻と長く交流を続けた。終始益蔵特有の実直さで押し通し、逆らわず、へつらわず、信念を持って得意先に接する益蔵は社員に愛される経営者だった。これが薩摩人の気質にも合ったのか、業績は驚くほど順調に伸びていった。
◆戦争と被災、盟友、初代益次に勇気づけられた焼け跡からの再建
第二次世界大戦が勃発すると、医薬品が国家の統制を受けることになった。卸業者が出資し合い、鹿児島県医薬品配給会社が設立され、益蔵が代表となった。しかし物資が乏しく、本格的に医家向けを始めるのは終戦後、会社を再建してからのことになる。
1945年(昭和20年)の鹿児島市への数度の大空襲で、自宅と社屋、更に市役所の地下壕に預けてあった医薬品一切を焼失してしまった。
益蔵夫妻は郊外にある友人の山に横穴を掘り、バラック小屋を建てて移り住んだ。従業員の多くは軍隊にとられ、事業は中断せざるを得なかった。
終戦から1年ほど経った頃、盟友である初代 吉村益次から見舞いの手紙が届き、益蔵はすぐさま返事を書いた。初代 益次はそれを何回も読み返し、涙を流していたことを、二代目 益次が後年回顧している。
二人は年が同じであり、生まれも肥前と筑後の隣同士、名前も益の字が共通(益々コンビと呼ばれた)、就職してから薬学校に入り、修行の地も同じ久留米、開業の年も同じ、など多くのことが共通していた。双方が独立後、二人を知るメーカーが「大分には豪放な吉村がいる、鹿児島には誠実な梁井がいる」と高く評したことから二人は互いを知り、その後生涯を通して無二の親友となっていた。
1948年(昭和23年)、その初代 益次が63歳で急逝すると、益蔵は若くして父の後を継いだ二代目 益次の良き相談相手となる。そしてはるか後、二人の友情はダイコー、アステムへと受け継がれる。
◆益蔵の背中を見て育った地域の人材が成長 近代企業への脱皮
バラックで再開した店舗を社屋の焼け跡の倉庫の残骸に移し、大阪まで片道40時間かけて薬を仕入れに出かけるなどして、戦後の焼け跡から立ち直り、日本が経済大国の道を歩み始めた昭和20年代半ばから昭和30年代にかけて、梁井一心堂も本格的な再建へと歩みを進めていく。
1948年(昭和23年)、株式会社に改組。鹿児島の人材を積極的に採用し、地域密着の営業体制づくりを推し進めた。
益蔵に育てられた社員たちが、誠実に、粘り強く商売を続けた結果、浮き沈みはあったものの、着実に業容は拡大し、近代企業ヘと成長していった。
◆世代交代と将来を見越した「大同団結」への思い
高度成長期に差しかかる1961年(昭和36年)の国民皆保険施行以降、今までのやり方では、激変する経営環境に対応できなくなると感じていた益蔵は、次世代へのバトンタッチを決意した。1965年(昭和40年)、梁井恭三が二代目社長に就任、益蔵は会長として後見役に回った。
そのころ益蔵は、社長である恭三から親しくしている吉村薬品、宮崎吉村薬品、吉松薬品と梁井一心堂の4社で、経営全般についてそれぞれの長所を学び合う「ダイヤ会」という親睦組織設立についての相談を受け、喜んで同意をした。益蔵はつねづね思っていた「時代変化が、いつまでも小さい殻にとじこもっていることを許さないだろう。必ず変化の時が来る。そのときに手を組む相手は、吉村以外にない。」と心に決めていたのである。
1963年(昭和38年)頃からは営業網の強化がスピーディに加速する。1964年(昭和39年)に枕崎、阿久根、大口、鹿屋、翌1965年(昭和40年)、宮之城に連絡所を設置、1967年(昭和42年)に鹿屋を営業所に昇格。1969(昭和44年)に阿久根連絡所と宮之城連絡所を、新設した川内連絡所に統合。さらに枕崎連絡所を廃止し加世田連絡所を設置、1969(昭和44年)には鹿屋と川内を支店に昇格する。時代は高度成長期を迎えていた。
◆グループ化の進展、進む各社の多角化部門の統合
1969年(昭和44年)、ダイヤ会で長年研究してきたグループ化のメリットをさらに具体的に追求するために、ダイヤ会4社の共同出資で、中枢管理会社「株式会社ダイコー」を設立。事務局が大分の吉村薬品に設置された。その翌年、創業50年を祝い終えた益蔵は、次世代の力強い一歩を見届け、安心したかのように84年の生涯を終える。梁井益蔵は大げさなことはせず、背中で人を育てる人物だった。しかし、その静かな穏やかさの中に、人々の幸福を願う、力に満ちた深い流れを終生持ちづつけた。
その後、ダイコーグループ発足とともに、各社の多角化部門の強化を目的とした統合が急速に活発化していく。1972年(昭和47年)、雑貨部門を(株)ダイヤに委譲。第1次オイルショックのあった1973年(昭和48年)には、商号を「ヤナイ薬品株式会社」に変更。同年特殊品部門を分離独立して「ヤナイ産業株式会社」を設立。新会社はその後、(株)サン・ダイコーと合併した。
1974年(昭和49年)、九州自動車道とのアクセスや駐車場確保などの理由から、本社を市内北部の吉野町に移転。1980年(昭和55年)には、この年に設立された(株)サン・メックに医療機器部門を統合した。その後、相次いで営業所、出張所を設置し、営業網を強化していった。
1985年(昭和60年)、梁井洋之介が三代目社長に就任。中枢管理会社ダイコーの事務局として大分に出向し、その後も人事交流の要として吉村薬品に勤務をつづけ、サン・メックの常務も経験した洋之介は、その頃培った豊富な人脈を活かし、ダイコーグループとヤナイ薬品の融和を積極的に推進していく存在となった。
70周年記念式典
70周年記念式典
◆ダイコーの誕生、次世代へ受け継がれたヤナイ薬品の精神と友情。
1988年(昭和63年)、中央営業所と南営業所を統合移転。1989年(平成元年)には薬専事業部をグループ4社の薬専事業を継承する(株)創健に委譲した。1991年(平成3年)事業拡大に備えて本社移転を決定。同年、ヤナイ薬品を含むグループ4社は合併に正式合意、1992年(平成4年)、南九州4県をカバーする医薬品卸「株式会社ダイコー」が誕生した。ヤナイ薬品はその73年の歴史を、アステム、FHDへと続く次世代へと託した。創業者、益蔵が「小さな殻から飛び出す」ことを心に決めた日から、30年余りの月日が経っていた。
薬業の黎明期から互いの個性を認め合い、薬業人として心から信頼し合った益蔵と初代益次の友情の力は、どんな苦難の時期にあっても、後に続く後輩たちを「健康を通して社会に貢献する」という原点へ導いた。その企業精神は世代を超え、多くの人々に受け継がれ、70年の時を経た今もなお、見事な大輪の花を咲かせ続けている。
沿革
・ | 1919年 | 大正8年 | 07月 梁井一心堂創業(東千石19-2) |
・ | 1921年 | 大正10年 | 本社屋移転(照国通り) |
・ | 1938年 | 昭和13年 | (合)梁井一心堂に改組 |
・ | 1946年 | 昭和21年 | 新社屋移転 |
・ | 1964年 | 昭和39年 | 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で「ダイヤ会」発足 |
・ | 1969年 | 昭和44年 | 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で本部会社㈱ダイコーを設立 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 04月 ヤナイ薬品(株)に改称 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 04月 特品部門業務を分離しヤナイ産業(株)設立 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 07月 本社用地取得 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 10月 名瀬営業所新設 |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 04月 本社屋新築移転(東千石→吉野町2430-1) |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 04月 隼人出張所、加世田出張所開設 |
・ | 1978年 | 昭和53年 | 07月 西之表連絡所開設(西之表市後松畠7419) |
・ | 1979年 | 昭和54年 | 04月 鹿屋支店用地取得(鹿屋市寿町4丁目11番7号) |
・ | 1980年 | 昭和55年 | 04月 医療器部門を分離し(株)サン・メックに譲渡 |
・ | 1980年 | 昭和55年 | 10月 南営業所開設(鹿児島市東谷山1-72-23) |
・ | 1981年 | 昭和56年 | 04月 加世田出張所を南営業所に統合 |
・ | 1982年 | 昭和57年 | 01月 中央営業所開設(鹿児島市上荒田町41-10) |
・ | 1982年 | 昭和57年 | 07月 |
・ | 1982年 | 昭和57年 | 07月 |
・ | 1982年 | 昭和57年 | 10月 |
・ | 1983年 | 昭和58年 | 10月 出水出張所開設(出水市平和町1352-1) |
・ | 1987年 | 昭和62年 | 11月 40期記念社員旅行実施(岡山、倉敷、瀬戸大橋等) |
・ | 1988年 | 昭和63年 | 04月 中央、南営業所を統合し、南支店としてスタート(鹿児島市宇宿2-4-7) |
・ | 1989年 | 平成1年 | 薬専事業部を分離、(株)創健設立 |
・ | 1989年 | 平成1年 | 創業70周年 |
・ | 1991年 | 平成3年 | 03月 西之表連絡所廃止 |
・ | 1991年 | 平成3年 | 10月 事務所、物流センター新築工事着工(鹿児島市宇宿2-3800-11) |
・ | 1991年 | 平成3年 | 4社合併契約書承認(吉村、宮吉、ヤナイ。、ヨシマツ) |
・ | 1992年 | 平成4年 | 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品が合併し㈱ダイコーを設立 |
歴代経営者
梁井益蔵
任期:1919年(大正8年)~1965年(昭和40年)
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梁井恭三
任期:1965年(昭和40年)~1985年(昭和60年)
ヤナイ薬品(株),梁井一心堂
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梁井洋之介
任期:1985年(昭和60年)~1992年(平成4年)
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エピソード録
◆昭和30年代以降の業界史
於 鹿児島市城山観光ホテル(元アステム専務、元サン・ダイコー社長:本編取材後:樹村幸治氏談)
「鹿児島に着いてホテルで時間があったから、医薬品卸のこの50年間の変遷を簡単にまとめてみたんだけど。医薬品卸の50年間の変化というのは競争環境の変化と言えると思う、それは一番に卸が広域化していったと、僕は昭和31年に入社したんだけど、当時は市町村単位に卸があった。その頃はそれぞれの地方の薬局の主だったところが卸から薬を買って、そこから病医院に持って行ってた。だから病医院は卸から薬を直接買うなんてことはせずに、薬局から薬を仕入れて治療してね、昔だから農家とか一般家庭は盆と正月しか金払わないわけ、病院に。それでね、梁井益蔵さんや初代益次さんの時代のことは本とかに色々出てるけど、それ以降のこの50年間というのがどういう時代だったのかということをちょっとね、話しとかなきゃいかんなと思ってね。」
「昭和29年から皆保険のことが整理され始めて、昭和36年に全国津々浦々に皆保険が行き渡って、それから流通が変わってね、昭和36年頃から卸が直接病医院に薬を売ろうかという状態になって、最初は病院課とか病専課という小さな組織だった。
だから九州の全ての医薬品卸は、100パーセント薬局・薬店に薬を売ってた。
皆保険以前は、卸が地方の主だった薬局に薬を卸して、病医院がて薬局に注文すると、持って行って投薬しとった。当時は新薬といってもたいしたものはなかったから、それで十分間に合ってた時代やな。
新薬が本格的に出始めたのは皆保険になってからでね、皆保険になったから初めて病医院に2ヶ月遅れでお金が入り始めてね、卸にも2ヶ月後に金が入りだしたわけ、だからそれまでは地方の卸はそういう医療そのものの金融機能も担っていた。」
「半年に一回しか払ってくれなけりゃ、メーカーにはそんなに長く支払いを待たせるわけにいかないからお金を支払う、卸もお金が足らなくなるから銀行には常に頭を下げてお金を貸してもらう。それで銀行の信用をつなぎとめるために、嘘を言わんでいいようにいつまでにはこれくらい払うというような苦労が一番大きかったわけ。だけど今はアステムなんかはそういう苦労は全くないよね、自己資金が豊富にあるから。
そういうことで、第一段階は市町村から県、そしてブロック単位、国内と広域化が進んで、競争環境がこの50年くらいで変化してきたわけね。」
「二つ目は販売する得意先が変わってきた、最初は薬局・薬店が100パーセントだったものが、国民皆保険から2、3年もすると病医院のウエイトが50パーセントくらいになった、そして院外処方の影響で今は調剤薬局チェーンが力を持ってきた。得意先についてもこの50年で大きく変化したわけだな。
そういうことでこの50年間で変化をしたのにはいろんな要因があるんだけど、国民皆保険、IT化、薬価基準制度、国際化、医療技術の進歩、高齢化による保険財政の逼迫。」
「こういうものの影響の結果として競争が激化して今の経営環境の厳しさがあるんだろう。15年くらい前までは行ったらさっとお茶が出てきてた。けど今はお茶を出すために人を雇う余裕はないからね、仕事を一杯与えてるからお茶を出す余裕なんかない。今は大した用事がなければ気軽に雑談ができるような雰囲気じゃないものな、やっぱり粗利が減って、その中で赤字にならないようにしていく、最近はほとんど給料が上がらんわな、給料を上げたら赤字になるということでね、僕らの頃は給料が年々上がっていっとったけど、そういうところも今の人達は気の毒やなあと思う。」
「そういうものをどうやって克服するか、今アベノミクスで2パーセント上げるとか言ってるけど、物価が上がって給料も上げるとなると医薬品卸がどうするか、これは無茶苦茶な競争をしとったら社員の給料を上げられんで社員が逃げていくから、もうちょっと適正な利益を上げるような、社員のことを考えた経営をやろうやと、こういう動きが生まれればいいんだけど、生まれなければね、大手が自分のところだけ生き残って、それからしっかり利益を獲るなんか考えてたら、まだまだ利益が獲れるような経営というのは難しいからね、社員の幸せと国民の幸福と、医薬品卸が1社か2社というのでは全国津々浦々まで医薬品をきちんと供給するのは難しいからね、だから今の大手卸の経営者たちにはその辺をもっと真剣に考えて欲しいね。」
著作や参考文献
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