一般公開
全文検索
お知らせ 各社の
歴史
経営者
たち
資料室 アーカ
イブス
薬業史   
NOW : 2024/12/12 11:02
[各社の歴史] ヤナイ薬品(株) 
「みらい創生史BOOK」用Fコード検索

創業:梁井一心堂 1919年(大正8年)鹿児島




歴史の概要

  創業者は梁井益蔵。「梁井一心堂」はヤナイ薬品の源流企業。

1919年(大正8年)、鹿児島市の天文館で梁井一心堂を創業。創業者の梁井益蔵は、基山の梁井薬店に奉公、熊本支店在籍中に薬剤師の資格を取得した。創業地は主家の商圏に配慮し鹿児島の地を選んだ。社屋が空襲で被災し全壊するが再建し、世代交代を経て独自の経営哲学と地域密着の営業体制で近代企業へと成長していった。益蔵と吉村薬品の初代 吉村益次は「益々コンビ」と呼ばれるほど生涯を通して深い友情が続いた。

1964年に九州南ブロックの吉村薬品宮崎吉村薬品ヨシマツ薬品ダイヤ会を結成。1973年には梁井一心堂からヤナイ薬品(株)に改称。同4社が1992年に合併設立した(株)ダイコーを経て1998年、(株)アステムとなった。

ヤナイ薬品本社屋
https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_8e28a695_F15_YAY_E6A281E4BA95EFBCBFE38391E383B3E3839502.jpg




ヤナイ薬品ロゴ


詳細

◆創業者、梁井益蔵の生い立ちと梁井薬店への奉公

ヤナイ薬品の創業者梁井益蔵は、1885年明治18年)、佐賀県の基山村の雑貨商の家庭に生まれた。アメリカに渡る夢を抱き、進学を希望していたが、父の友人の勧めもあって、1898年(明治31年)、地元の「梁井薬店」に奉公することになった。
奉公先の主人、梁井幾太郎氏(血縁はない)は慈愛に溢れた人物で、14歳の益蔵はこの主人の下、商売や商品知識、礼儀作法を学んでいった。
久留米の米屋町にできた支店と本店の兼務を命じられ、毎日往復24キロの道のりを、荷物を背負って往復した。
主人、幾太郎氏は相撲が好きで、益蔵はよく相撲をとらされた。また相撲好きの得意先があり、勝った方に注文を出すことがしばしばあった。益蔵は小柄だったが相撲は強かったので、注文はほとんど益蔵が獲得することになったというエピソードが残されている。

◆時代の中で見つめた「薬業人」としての自覚

1902年(明治35年)、医薬品の販売を薬剤師に制限するという法律の改正案が出された。このとき益蔵は、今後薬業で成功するには、薬剤師の資格が必要になると痛感し、意を決して進学したい旨を主人、幾太郎氏に相談する。主人、幾太郎氏益蔵の日頃の仕事ぶりを認め、物心両面の援助を約束した。益蔵は、このときの主人の恩情を終生忘れることはなかった。

無事試験に合格し、熊本薬学校(現熊本大学薬学部)に入学。1905年(明治38年)に薬学校を卒業後、熊本支店での本格的な活動を始めた。益蔵は熊本県下一円を廻り、宮崎県まで新規開拓に奔走した。「共存共栄」を信念に、誠意を持って得意先と接した結果、多くの100%近い占拠率の得意先が獲得できた。

1907年(明治40年)、薬剤師の試験に合格した益蔵は、23歳で熊本店の支店長となったのもつかの間、第一次世界大戦勃発で久留米に招集される。この時期、益蔵は戦争の傷病兵や、最愛の我が子を亡くすという人生経験を通じて、人の命を救う薬業の尊さを痛切に実感する。

◆独立場所には恩ある奉公先とバッティングしない鹿児島を選ぶ

熊本に帰った益蔵は薬業に一生を捧げる決意を固め、独立を視野に入れ、経営者としての将来を意識して働くようになった。1919年(大正8年)長年の念願が叶い、鹿児島市の天文館で「梁井一心堂」を創業する。このとき益蔵35歳。創業地は恩のある「梁井薬店」の商圏以外の土地を候補にし、その中から、多くの偉人を輩出した、たくましい土地柄に魅かれ、鹿児島市を選んだ。西郷さんと桜島が決め手だった。知人も血縁もいない、まったくの新天地での創業だった。

「梁井一心堂」では主人の忠告どおり、先ず小売から始めた。当初は鹿児島の地理も言葉もわからず、慣れない小売も性に合わず苦労したが、商売は徐々に軌道に乗り、一家の生活を支えることができるようになり、地域との縁も深まっていった。
1921年(大正10年)、アメヤ筋(東千石町)にようやく本格的な店舗を構えると、その後、薬局・薬店の取引先が増え始めた。このころ梁井一心堂で働いた人々が郷里に帰り、「基山一心会」という親睦会をつくり、益蔵夫妻と長く交流を続けた。終始益蔵特有の実直さで押し通し、逆らわず、へつらわず、信念を持って得意先に接する益蔵は社員に愛される経営者だった。これが薩摩人の気質にも合ったのか、業績は驚くほど順調に伸びていった。

◆戦争と被災、盟友、初代益次に勇気づけられた焼け跡からの再建

第二次世界大戦が勃発すると、医薬品が国家の統制を受けることになった。卸業者が出資し合い、鹿児島県医薬品配給会社が設立され、益蔵が代表となった。しかし物資が乏しく、本格的に医家向けを始めるのは終戦後、会社を再建してからのことになる。
1945年(昭和20年)の鹿児島市への数度の大空襲で、自宅と社屋、更に市役所の地下壕に預けてあった医薬品一切を焼失してしまった。

益蔵夫妻は郊外にある友人の山に横穴を掘り、バラック小屋を建てて移り住んだ。従業員の多くは軍隊にとられ、事業は中断せざるを得なかった。
終戦から1年ほど経った頃、盟友である初代 吉村益次から見舞いの手紙が届き、益蔵はすぐさま返事を書いた。初代 益次はそれを何回も読み返し、涙を流していたことを、二代目 益次が後年回顧している。

二人は年が同じであり、生まれも肥前と筑後の隣同士、名前も益の字が共通(益々コンビと呼ばれた)、就職してから薬学校に入り、修行の地も同じ久留米、開業の年も同じ、など多くのことが共通していた。双方が独立後、二人を知るメーカーが「大分には豪放な吉村がいる、鹿児島には誠実な梁井がいる」と高く評したことから二人は互いを知り、その後生涯を通して無二の親友となっていた。

1948年(昭和23年)、その初代 益次が63歳で急逝すると、益蔵は若くして父の後を継いだ二代目 益次の良き相談相手となる。そしてはるか後、二人の友情はダイコー、アステムへと受け継がれる。

◆益蔵の背中を見て育った地域の人材が成長 近代企業への脱皮


バラックで再開した店舗を社屋の焼け跡の倉庫の残骸に移し、大阪まで片道40時間かけて薬を仕入れに出かけるなどして戦後の焼け跡から立ち直り、日本が経済大国の道を歩み始めた昭和20年代半ばから昭和30年代にかけて、梁井一心堂も本格的な再建へと歩みを進めていく。
1948年(昭和23年)、株式会社に改組。鹿児島の人材を積極的に採用し、地域密着の営業体制づくりを推し進めた。
益蔵に育てられた社員たちが、誠実に、粘り強く商売を続けた結果、浮き沈みはあったものの、着実に業容は拡大し、近代企業ヘと成長していった。

昭和30年代の本社屋
https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_1dc39e70_F15_YAY_E6A281E4BA95EFBCBFE7A4BEE5B18B01.jpeg


◆世代交代と将来を見越した「大同団結」への思い

高度成長期に差しかかる1961年(昭和36年)の国民皆保険施行以降、今までのやり方では、激変する経営環境に対応できなくなると感じていた益蔵は、次世代へのバトンタッチを決意した。1965年(昭和40年)、梁井恭三が二代目社長に就任、益蔵は会長として後見役に回った。

そのころ益蔵は、社長である恭三から親しくしている吉村薬品、宮崎吉村薬品、吉松薬品と梁井一心堂の4社で、経営全般についてそれぞれの長所を学び合う「ダイヤ会」という親睦組織設立についての相談を受け、喜んで同意をした。益蔵はつねづね思っていた「時代変化が、いつまでも小さい殻にとじこもっていることを許さないだろう。必ず変化の時が来る。そのときに手を組む相手は、吉村以外にない。」と心に決めていたのである。

1963年(昭和38年)頃からは営業網の強化がスピーディに加速する。1964年(昭和39年)に枕崎、阿久根、大口、鹿屋、翌1965年(昭和40年)、宮之城に連絡所を設置、1967年(昭和42年)に鹿屋を営業所に昇格。1969(昭和44年)に阿久根連絡所と宮之城連絡所を、新設した川内連絡所に統合。さらに枕崎連絡所を廃止し加世田連絡所を設置、1969(昭和44年)には鹿屋と川内を支店に昇格する。時代は高度成長期を迎えていた。

◆グループ化の進展、進む各社の多角化部門の統合

1969年(昭和44年)、ダイヤ会で長年研究してきたグループ化のメリットをさらに具体的に追求するために、ダイヤ会4社の共同出資で、中枢管理会社「株式会社ダイコー」を設立。事務局が大分の吉村薬品に設置された。その翌年、創業50年を祝い終えた益蔵は、次世代の力強い一歩を見届け、安心したかのように84年の生涯を終える。梁井益蔵は大げさなことはせず、背中で人を育てる人物だった。しかし、その静かな穏やかさの中に、人々の幸福を願う、力に満ちた深い流れを終生持ちづつけた。

その後、ダイコーグループ発足とともに、各社の多角化部門の強化を目的とした統合が急速に活発化していく。1972年(昭和47年)、雑貨部門を(株)ダイヤに委譲。第1次オイルショックのあった1973年(昭和48年)には、商号を「ヤナイ薬品株式会社」に変更。同年特殊品部門を分離独立して「ヤナイ産業株式会社」を設立。新会社はその後、(株)サン・ダイコーと合併した。

1974年(昭和49年)、九州自動車道とのアクセスや駐車場確保などの理由から、本社を市内北部の吉野町に移転。1980年(昭和55年)には、この年に設立された(株)サン・メックに医療機器部門を統合した。その後、相次いで営業所、出張所を設置し、営業網を強化していった。

1985年(昭和60年)、梁井洋之介が三代目社長に就任。中枢管理会社ダイコーの事務局として大分に出向し、その後も人事交流の要として吉村薬品に勤務をつづけ、サン・メックの常務も経験した洋之介は、その頃培った豊富な人脈を活かし、ダイコーグループとヤナイ薬品の融和を積極的に推進していく存在となった。

70周年記念式典

https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_cb87b553_F15_YAY_E6A281E4BA95_70E591A8E5B9B4E8A898E5BFB5E5BC8FE585B8.jpeg








◆ダイコーの誕生、次世代へ受け継がれたヤナイ薬品の精神と友情。

1988年(昭和63年)、中央営業所と南営業所を統合移転。1989年(平成元年)には薬専事業部をグループ4社の薬専事業を継承する(株)創健に委譲した。1991年(平成3年)事業拡大に備えて本社移転を決定。同年、ヤナイ薬品を含むグループ4社は合併に正式合意、1992年(平成4年)、南九州4県をカバーする医薬品卸「株式会社ダイコー」が誕生した。ヤナイ薬品はその73年の歴史を、アステム、FHDへと続く次世代へと託した。創業者、益蔵が「小さな殻から飛び出す」ことを心に決めた日から、30年余りの月日が経っていた。

薬業の黎明期から互いの個性を認め合い、薬業人として心から信頼し合った益蔵と初代益次の友情の力は、どんな苦難の時期にあっても、後に続く後輩たちを「健康を通して社会に貢献する」という原点へ導いた。その企業精神は世代を超え、多くの人々に受け継がれ、70年の時を経た今もなお、見事な大輪の花を咲かせ続けている。




沿革

1919年 大正8年 07月 梁井一心堂創業(東千石19-2)
1921年 大正10年 本社屋移転(照国通り)
1938年 昭和13年 (合)梁井一心堂に改組
1946年 昭和21年 新社屋移転
1964年 昭和39年 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で「ダイヤ会」発足
1969年 昭和44年 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で本部会社㈱ダイコーを設立
1973年 昭和48年 04月 ヤナイ薬品(株)に改称
1973年 昭和48年 04月 特品部門業務を分離しヤナイ産業(株)設立
1973年 昭和48年 07月 本社用地取得
1973年 昭和48年 10月 名瀬営業所新設
1974年 昭和49年 04月 本社屋新築移転(東千石→吉野町2430-1)
1974年 昭和49年 04月 隼人出張所、加世田出張所開設
1978年 昭和53年 07月 西之表連絡所開設(西之表市後松畠7419)
1979年 昭和54年 04月 鹿屋支店用地取得(鹿屋市寿町4丁目11番7号)
1980年 昭和55年 04月 医療器部門を分離し(株)サン・メックに譲渡
1980年 昭和55年 10月 南営業所開設(鹿児島市東谷山1-72-23)
1981年 昭和56年 04月 加世田出張所を南営業所に統合
1982年 昭和57年 01月 中央営業所開設(鹿児島市上荒田町41-10)
1982年 昭和57年 07月
1982年 昭和57年 07月
1982年 昭和57年 10月
1983年 昭和58年 10月 出水出張所開設(出水市平和町1352-1)
1987年 昭和62年 11月 40期記念社員旅行実施(岡山、倉敷、瀬戸大橋等)
1988年 昭和63年 04月 中央、南営業所を統合し、南支店としてスタート(鹿児島市宇宿2-4-7)
1989年 平成1年 薬専事業部を分離、(株)創健設立
1989年 平成1年 創業70周年
1991年 平成3年 03月 西之表連絡所廃止
1991年 平成3年 10月 事務所、物流センター新築工事着工(鹿児島市宇宿2-3800-11)
1991年 平成3年 4社合併契約書承認(吉村、宮吉、ヤナイ。、ヨシマツ)
1992年 平成4年 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品が合併し㈱ダイコーを設立



歴代経営者

梁井益蔵
任期:1919年(大正8年)~1965年(昭和40年)
梁井恭三
任期:1965年(昭和40年)~1985年(昭和60年)
ヤナイ薬品(株),梁井一心堂
梁井洋之介
任期:1985年(昭和60年)~1992年(平成4年)



エピソード録

◆昭和30年代以降の業界

於 鹿児島市城山観光ホテル
(元アステム専務、元サン・ダイコー社長:
本編取材後樹村幸治氏

「鹿児島に着いてホテルで時間があったから、医薬品卸のこの50年間の変遷を簡単にまとめてみたんだけど。医薬品卸の50年間の変化というのは競争環境変化と言えると思う、それは一番に卸が広域化していったと、僕は昭和31年に入社したんだけど、当時は市町村単位に卸があった。その頃はそれぞれの地方の薬局の主だったところが卸から薬を買って、そこから病医院に持って行ってた。だから病医院は卸から薬を直接買うなんてことはせずに、薬局から薬を仕入れて治療してね、昔だから農家とか一般家庭は盆と正月しか金払わないわけ、病院に。それでね、梁井益蔵さん初代益次さん時代のことは本とかに色々出てるけど、それ以降のこの50年間というのがどういう時代だったのかということをちょっとね、話しとかなきゃいかんなと思ってね。」

「昭和29年から皆保険のことが整理され始めて、昭和36年に全国津々浦々に皆保険が行き渡って、それから流通が変わってね、昭和36年頃から卸が直接病医院に薬を売ろうかという状態になって、最初は病院課とか病専課という小さな組織だった。
だから九州の全ての医薬品卸は、100パーセント薬局・薬店に薬を売ってた。
皆保険以前は、卸が地方の主だった薬局に薬を卸して、病医院がて薬局に注文すると、持って行って投薬しとった。当時は新薬といってもたいしたものはなかったから、それで十分間に合ってた時代やな。
新薬が本格的に出始めたのは皆保険になってからでね、皆保険になったから初めて病医院に2ヶ月遅れでお金が入り始めてね、卸にも2ヶ月後に金が入りだしたわけ、だからそれまでは地方の卸はそういう医療そのものの金融機能も担っていた。」

「半年に一回しか払ってくれなけりゃ、メーカーにはそんなに長く支払いを待たせるわけにいかないからお金を支払う、卸もお金が足らなくなるから銀行には常に頭を下げてお金を貸してもらう。それで銀行の信用をつなぎとめるために、嘘を言わんでいいようにいつまでにはこれくらい払うというような苦労が一番大きかったわけ。だけど今はアステムなんかはそういう苦労は全くないよね、自己資金が豊富にあるから。
そういうことで、第一段階は市町村から県、そしてブロック単位、国内と広域化が進んで、競争環境がこの50年くらいで変化してきたわけね。」

「二つ目は販売する得意先が変わってきた、最初は薬局・薬店が100パーセントだったものが、国民皆保険から2、3年もすると病医院のウエイトが50パーセントくらいになった、そして院外処方の影響で今は調剤薬局チェーンが力を持ってきた。得意先についてもこの50年で大きく変化したわけな。
そういうことでこの50年間で変化をしたのにはいろんな要因があるんだけど、国民皆保険、IT化、薬価基準制度、国際化、医療技術の進歩、高齢化による保険財政の逼迫。」

「こういうものの影響の結果として競争が激化して今の経営環境の厳しさがあるんだろう。15年くらい前までは行ったらさっとお茶が出てきてた。けど今はお茶を出すために人を雇う余裕はないからね、仕事を一杯与えてるからお茶を出す余裕なんかない。今は大した用事がなければ気軽に雑談ができるような雰囲気じゃないものな、やっぱり粗利が減って、その中で赤字にならないようにしていく、最近はほとんど給料が上がらんわな、給料を上げたら赤字になるということでね、僕らの頃は給料が年々上がっていっとったけど、そういうところも今の人達は気の毒やなあと思う。」

「そういうものをどうやって克服するか、今アベノミクスで2パーセント上げるとか言ってるけど、物価が上がって給料も上げるとなると医薬品卸がどうするか、これは無茶苦茶な競争をしとったら社員の給料を上げられんで社員が逃げていくから、もうちょっと適正な利益を上げるような、社員のことを考えた経営をやろうやと、こういう動きが生まれればいいんだけど、生まれなければね、大手が自分のところだけ生き残って、それからしっかり利益を獲るなんか考えてたら、まだまだ利益が獲れるような経営というのは難しいからね、社員の幸せと国民の幸福と、医薬品卸が1社か2社というのでは全国津々浦々まで医薬品をきちんと供給するのは難しいからね、だから今の大手卸の経営者たちにはその辺をもっと真剣に考えて欲しいね。」




著作や参考文献

我が生涯の記
ヤナイ薬品会社概要



セレクト画像・映像


ヤナイ薬品(株)のディスカッション

4:
7月2日 API部の編集を行おうとしましたが
ロックがかかっておりできませんでした
Posted By 監修者 at 14-07-03 15:49
3:
梁井さん文章:20140507

2014/04-30 forestpediaヤナイ薬品.docより

■梁井薬店への奉公

ヤナイ薬品の創業者梁井益蔵は、明治18年(1885年)、佐賀県の基山村で「ひろて屋」という雑貨商を営む、梁井喜平の三男坊として生まれた。他に妹が3人いたが、いずれも早逝している。
アメリカに渡る夢を抱き、上級学校への進学を希望していたが、父の友人の勧めや仕事への憧れもあって、明治31年、地元の「梁井薬店」に奉公することになった。
奉公先の主人、梁井幾太郎氏(血縁はない)は慈愛に溢れた人物で、14歳の益蔵はこの主人の下、商売や商品知識、礼儀作法を学んでいった。
明治32年、久留米の米屋町にできた支店と本店の兼務を命じられ、毎日往復24キロの道のりを、荷物を背負って往復した。
主人は相撲が好きで、よく相撲をとらされた。また相撲好きの得意先があり、勝った方に注文を出すことがしばしばあった。益蔵は小柄だったが相撲は強かったので、注文はほとんど益蔵がいただくことになった。

■薬業人としての自覚

明治35年、薬剤師でなければ、医薬品の販売などに大幅な制限を設けるという法律の改正案が出された。法案は薬種商の猛反対を受け結局廃案となったが、このとき益蔵は、今後薬業で身を立てるには、薬剤師の資格が必要になると痛感し、意を決して進学したい旨を主人に相談した。すると3年間の仕事ぶりを褒め、大いに激励され、物心両面の援助を約束してくれた。益蔵は、このときの主人の恩情を終生忘れることはなかった。
それからは一日の仕事を終え、深夜まで受験勉強に打ち込む毎日を送った結果、無事試験に合格し明治36年、熊本薬学校(現熊本大学薬学部)に入学した。

益蔵の入学が決まるとすぐに、幾太郎氏は熊本の唐人町に支店を開設した。日露戦争開戦から2ヵ月後、明治37年4月のことだった。
しかし戦争の進展とともに店員が次々に召集され、店の運営が困難になった。これには普段強気の主人もさすがに意気消沈し、店を閉めようかと言いだした。しかし益蔵が学校を休んででも店を守ると訴え、なんとか店は続けることになった。
戦争の影響で学業がおろそかになりながらも、明治38年3月に薬学校を卒業、熊本支店での本格的な活動が始まる。益蔵は熊本県下一円を廻り、宮崎県まで新規開拓に歩いた。共存共栄を念頭に置き、誠意を持って得意先と接した結果、100%近い占拠率の得意先が随分できた。

父喜平が65歳で亡くなった明治40年の8月、ようやく薬剤師の試験に合格した益蔵は、23歳で熊本の支店長となる。若い益蔵は、支店長になっても人吉、八代、都城方面の営業を担当し、社員にその背中を見せることで徐々に信頼を集め、それに伴い支店の成績も伸びていった。
明治44年、27歳のとき、主人の紹介により、田代(現鳥栖市)で商家を営む門司米蔵の娘リヨと結婚、翌大正元年8月21日に長男賢一が生まれる。
大正3年に第一次世界大戦が勃発、召集を受け久留米師団に入隊するが、幸い前線に出ることなく、翌大正4年に召集を解除され、我が家に生還することができた。
わずか8ヶ月の軍隊経験ではあったが、この間に野戦病院で多くの傷病兵を助ける薬剤監の姿に触れた。また従軍中に生まれた息子英二を、生後2週間で顔を見ることもなく亡くしてしまった。益蔵はこれらの経験を通じて、人の命を救う薬業の尊さを改めて実感する。

■鹿児島へ

熊本に帰った益蔵は薬業に一生を捧げる決意を固め、30歳を機に独り立ちしたいとの希望を主人に持ちかけた。主人は大いに喜んでくれたが、いま少し器を広げる努力をしてからでも遅くはないと諭され、独立の時期はしばらく伸ばすことにした。
しかしこの時を境に、ただがむしゃらに働く毎日から、経営者の卵として将来を意識した働き方に変え、仕事に一層の充実感を覚えるようになった。
大正5年1月に次男謹二が生まれ、大正7年2月には母シチが63歳で亡くなった。

大正8年(1919年)7月10日、念願叶い、鹿児島市の天文館で「梁井一心堂」を創業する。このとき益蔵35歳、リヨ27歳、賢一8歳、謹二4歳。創業地は大恩ある主家の地盤以外の土地を候補にあげ、その中から、多くの偉人を輩出した、たくましい土地柄に魅かれ、最終的には西郷さんと桜島が決め手となって、鹿児島市を選んだ。
主人の忠告どおり、先ず小売から始めた。当初は鹿児島の地理も言葉もわからないうえ、慣れない小売も性に合わず苦労したが、商売は徐々に軌道に乗り、一家の生活を支えるには何とか間に合うようなった。

大正9年11月に三男恭三が生まれた。出産前後リヨの健康が優れず母乳が出ないためミルクで育てたが、受け付けず日に日にやせ細り、命に関わる心配が出てきた。国許にこのことを話すと、赤ん坊を亡くし母乳が出る人がいることがわかった。藁をもすがる気持ちでこの人に相談すると快く承諾していただき、思い切って預けることにした。おかげで恭三は見違えるように太った。恭三は我が子のように可愛がっていただいたこの人によくなついた。結局1年2ヶ月ほど預かっていただき、鹿児島に引き取った。正に命の恩人だった。
同じ頃基山に、益蔵を慕っていた元部下の奥さんで高橋テルさんという未亡人がおり、この人がご主人を亡くした後、家にいづらくなって悩んでいるという話を聞いた。丁度恭三の子守役を探していたので、鹿児島に来て手伝ってもらうことになった。
テルさんはそれから45年、家族と共に働き、共に過ごした。亡くなる前年、虫が知らせたのか故郷の天草に帰り、そこで80歳の生涯を終えた。鹿児島市にある梁井家の墓には、今もテルさんの名前が刻まれている。
大正10年、アメヤ筋(東千石町)に店舗兼住宅に適当な売り物件が見つかり、郷里に戻り金策に走って、ようやく本格的な店舗を構えることができた。その後、薬局・薬店の開拓を地道に続けた結果、徐々に取引先が増え始めた。

商いが拡がるにつれ人手が必要になってきたので、母校に頼み毎年数名ずつ送ってもらった。この人達は数年勤め郷里に引き上げていったが、そのうち何人かは鹿児島に残り、幹部になった。またここで修行後独立した人も多い。妻リヨは、寡黙な益蔵に代わって従業員達を我が子のように叱り、褒め、愛情を持って接し、皆から「おっかさん」と慕われた。
こうやって梁井一心堂で働いた人達が郷里に帰り、「基山一心会」という親睦会をつくり、益蔵夫妻と長く交流を続けた。
大正8年の創業から第二次世界大戦勃発直前までは、終始益蔵特有の実直さで押し通し、逆らわず、へつらわず、信念を持って得意先に接した。これが薩摩人の気質に合ったのか、業績は順調に伸びていった。この間昭和7年に長男賢一が23歳で亡くなる。熊大薬学部に入った賢一は、後継者としての道を歩むはずだった。翌昭和8年、四男洋之介が生まれる。

■焼け跡からの再建

昭和12年の日華事変に続き、昭和16年12月8日、第二次世界大戦が勃発した。相次ぐ戦乱と経済封鎖による物資難により医薬品の需給が逼迫、遂に国家の統制を受けることになった。そこで卸業者が出資し合い、鹿児島県医薬品配給会社を設立、益蔵が代表となり運営を任された。この頃鹿屋航空隊から納入業者の指定を受け、医家向け医薬品の取り扱いを始めた。しかし物資が乏しく、本格的に医家向けを始めるのは終戦後、会社を再建してからになる。
昭和20年4月8日、鹿児島市は大空襲を受け自宅は全焼、続く6月17日深夜の爆撃で、社屋と市役所の地下壕に預けてあった医薬品一切を焼失してしまった。

益蔵夫妻とテルさんは郊外にある友人の山に横穴を掘り、バラック小屋を建てて移り住んだ。このとき謹二は軍属にとられ、恭三は招集を受け、洋之介はリヨの実家田代に疎開させていた。従業員も多くは軍隊にとられ、残ったのは3人だけだったので、事業は中断せざるを得なかった。
終戦から1年ほど経った頃、盟友初代吉村益次から見舞いの手紙が届き、返事を書いた。初代益次はそれを何回も読み返し「梁井君がかわいそうだ、うちはまだ幸いだった」と、涙を流していたことを、二代吉村益次が後年回顧している。
二人は年が同じで生まれも隣の肥前と筑後、名前も益の字、就職してから薬学校に入り、修行の地も同じ久留米、開業の年も同じ、薬剤師になった長男を失ったことまで共通していた。独立後、二人を知るメーカーが「大分に豪放な吉村あり、鹿児島に誠実な梁井あり」と評伝し、これが縁で二人は互いを知り、無二の親友となったのである。
昭和23年2月、初代吉村益次が63歳で急逝すると、益蔵は若くして父の後を継いだ二代益次の良き相談相手となる。そしてはるか後、二人の友情はダイコー、アステムへと受け継がれる。

戦争によって、独立から26年間、懸命に築いた梁井一心堂は、あとかたもなく消え、お得意先もほとんどが灰に帰していた。
益蔵は、幸いにして生還した謹二、恭三と、今後について話し合った結果、薬業の道でもう一度やり直そうということになり、その日から再建への道を歩き始めた。
少し経つと、兵役にとられていた何人かの従業員も復帰してくれた。
バラックで再開した店舗を社屋の焼け跡の倉庫の残骸に移し、大阪まで片道40時間かけて薬を仕入れに出かけた。ある日、名古屋まで足を伸ばしたときにゼンソクの発作が酷くなり、名古屋駅に到着後、朦朧としながら焼け跡の中、病院を捜し求めた。
昭和22年には三男恭三が名古屋薬専(現名古屋市立大学薬学部)を卒業し、薬剤師の免許を取得。持病のゼンソクが悪化していた益蔵は、後継ぎができ、少し肩の荷を下ろしたような気持ちになった。
戦後の焼け跡から立ち直り、日本が経済大国の道を歩み始めた昭和20年代半ばから昭和30年代にかけて、梁井一心堂も本格的な再建へと歩みを進めていく。昭和23年7月、資本金200万円で株式会社に改組、謹二が副社長、恭三が常務に就任、経営体制を強化すると同時に鹿児島の人材を積極的に採用し、地域密着の営業体制づくりを推し進めた。
このような体制の下、益蔵の薫陶を受けた社員達が、誠実に、粘り強く商売を続けた結果、浮き沈みはあったものの、着実に業容は拡大していった。

■世代交代と大同団結

益蔵の清廉で誠実な人柄は年とともに深みを増し、九州薬業界の重鎮として信望を集め、昭和28年に九州医薬品卸売業連合会初代会長に就任、昭和33年には鹿児島市薬業組合と鹿児島県薬業組合の会長を兼務する。
昭和38年、恭三が専務に就任した頃から、持病のゼンソクがひどくなってきた。この頃になると謹二、恭三に加え、東京薬科大学卒業後入社した洋之介も、修行期間を終える時期になっていた。
これらに加え昭和36年の国民皆保険施行以降、今までのやり方では、激変する経営環境に対応できなくなると感じていた益蔵は、次世代へのバトンタッチを考えるようになる。

後継者選びについては悩んだ末、社長に三男の恭三、次男の謹二が副社長としてこれを支える体制とした。そして昭和40年8月、恭三が二代目社長に就任、益蔵は会長として後見役に回った。
昭和39年、益蔵は、親しくしている吉村薬品、宮崎吉村薬品、吉松薬品と梁井一心堂の4社で、経営全般についてそれぞれの長所を学び合う「ダイヤ会」という親睦組織設立についての相談を恭三から受け、喜んでこれに同意を与えた。
益蔵は、時代の趨勢がいつまでも小さい殻にとじこもっていることを許さないと、誰よりも自覚していたし、そのときに手を組む相手は、吉村以外にないと心に決めていたのである。
このような中、益蔵、謹二とともに第二の創業ともいえる戦後の再建期を支えた恭三は、経営の近代化と営業力の強化を推進、専務となった昭和38年頃から営業網の強化を加速する。
昭和39年に枕崎、阿久根、大口、鹿屋、翌昭和40年、宮之城に連絡所を設置、昭和42年に鹿屋を営業所に昇格。昭和43年に阿久根連絡所と宮之城連絡所を、新設した川内連絡所に統合。さらに枕崎連絡所を廃止し加世田連絡所を設置、昭和44年には鹿屋と川内を支店に昇格する。

■グループ化の進展、そしてダイコーへ

昭和44年、グループ化のメリット追求するために、ダイヤ会4社の共同出資で、中枢管理会社「株式会社ダイコー」を設立。事務局が大分の吉村薬品に設置され、洋之介が事務局メンバーとして出向する。
昭和45年4月12日、創業50年を祝った翌年益蔵は、次世代の力強い一歩を見届け安心したかのように84年の生涯を終える。

ダイコーグループ発足とともに、各社の多角化部門の強化を目的とした統合が活発化する。
昭和47年4月、雑貨部門を株式会社ダイヤに委譲。昭和48年4月、商号をヤナイ薬品株式会社に変更。同年特殊品部門を分離独立しヤナイ産業株式会社を設立、昭和49年10月には(株)サン・ダイコーと合併。同年、名瀬営業所を開設。
昭和49年4月、九州自動車道とのアクセスや駐車場確保などの理由から、本社を市内北部の吉野町に移転。同年、隼人、加世田に出張所を開設。
昭和55年、この年に設立された株式会社サン・メックに医療機器部門を統合。同年、南営業所を開設、昭和56年、中央営業所を開設、昭和57年、隼人出張所を加治木出張所に改称移転。昭和58年には出水出張所を開設した。

昭和60年、洋之介が三代目社長に就任し恭三は相談役に退く。中枢管理会社ダイコーの事務局として大分に出向し、その後も人事交流の魁として吉村薬品に勤務、サン・メックの常務も経験した洋之介は、その頃培った豊富な人脈を活かし、ダイコーグループとヤナイ薬品の融和を積極的に推進する。
昭和63年、中央営業所と南営業所を統合移転。平成元年には薬専事業部をグループ4社の薬専事業を継承する株式会社創健に委譲した。

平成3年、業容の拡大とさらなる駐車場の確保、交通渋滞による配送の遅延解消などを目的に本社移転を決定、市内南部の宇宿で建設工事が始まった。
同年、グループ4社は合併に正式合意、平成4年4月、南九州4県をカバーする医薬品卸「株式会社ダイコー」が誕生、ヤナイ薬品は73年の歴史に幕を下ろした。
互いの個性を認め、薬業人として心から信頼し合った益蔵と初代益次の友情は世代を超え、後輩たちが受け継ぎ、70年の時を経て大輪の花を咲かせた。
Posted By 管理者 at 14-05-07 09:30
2:
梁井さん原稿添付:forestpediaヤナイ薬品.doc
Posted By 管理者 at 14-04-30 14:46
1:
ページ原稿の保存:2014/04/30
源流の地を訪ねて
大先達・梁井益蔵氏の足跡・・・ 鹿児島エリア

焼失
誰のせいかはさておき、歴史的事実として理不尽な戦争があった。その時、梁井一心堂は鹿児島の地で全てを失った。米軍の撒き散らした焼夷弾が鹿児鳥市周辺を焼き尽くしたのである。全焼三百二十七万坪焼失率93%。薩摩77万石の歴史と文化を誇った鹿児島市街の活況は一転して“幻”となった。当時の空製については広島・長崎の原爆投下は無論、東京・大阪などの大空襲について多くが語られるが、昭和20年3月18日以降の空爆8回。焼失率においてここまでの甚大な被害にあった都市はないと思われる。市街地のほは全てが灰となった・・・。
『自宅も社屋も商品も配達用の車も何もかも全部焼けて無一文になったんですよ。』
当時25歳の若者だった梁井恭三氏(現在(株)アステム顧問)はどこか遠くを見つめるように目を細める。梁井家の戦後は一面灰だらけの焼け跡の中から全てが始まった。全焼の憂き日にさらされた梁井一心堂の当主梁井益蔵氏はこの時61歳。老体に鞭打ち、焦土広がる異郷の地鹿児島で2度めの挑戦を心に誓った。

奉公
鹿児島の薬業界の重鎮であり初代大石忠次郎氏・初代吉村益次氏と並び九州の薬業界において列伝中の人物であった梁井益蔵氏が実は佐賀県基山の出身であったことは意外に知られていない。「ひろて屋」の屋号をもつ雑貨商の家庭に生まれた彼は14歳で田代高等小学校を修了後、基山の梁井薬店に奉公した。主家は佐賀・福岡・熊本の3県において栄えた名家である。元来裏表のない正直な性格の彼は昼夜厭わず一心不乱に働いた。

彼は奉公当時の若い頃から晩年に至るまで無類の相撲好きであった。観るばかりではなく、実際にとる方も腕前は相当のものだったようである。体格は小振りであったが千代の富士タイプの屈強の力士。小兵ながら前褌を掴むと向かうところ敵なしであった。娯楽の少ない時代である。当時の日本の国技と言えば何をおいても、まず「相撲」。祭りの際の宮相撲に限らず、村の催物で人が集まると必ずといってよいほど相撲大会が開かれ、腕自慢の男たちが力と技を競い合った。

『お盆の休みなどで、たまに基山(佐賀)の実家に帰っていると、店から主人の使いがきて、すぐに店にでてこいという。何事だろうと出かけてみると、店の者や村の若者を集めて、相撲大会をやるのだという。壱千坪の広い敷地の裏庭に、土俵を築いていたから、そこが大会の会場に使われるわけだ。私も相撲は大好きだが、主人も余程相撲好きだったようだ。店の仕事が暇になると、よく相撲をとらされた。これは私が後に熊本支店の支店長になってからでも、チョイチョイとやらされたものだ。』と益蔵氏自身の回想にもあるように「相撲」は国民の娯楽の王道であった。

主家では大阪から集金に訪れるメーカーのセールスを集め「相撲をとって勝てば代金を余分に払う。」とけしかけ、盛んにメーカー対メーカーの対戦を組んだ。今では到底考えられない酔狂な話ではあるが、各セールスとも回収増額を目指し必死で土俵に上がった。白熱した格闘に社内こぞって声援を送り、メーカーとの交流も深まった。
相撲三昧の話は御得意先にもある。医家のなかには卸の若いセールスを招集し、相撲をとらせて勝った方にその日の注文をする先生があった。これは益蔵氏にとっては勿怪の幸、渡に船といったところであった。

『…私は体は小さかったが、相撲には可成りの自信があったから、大抵私が注文をいただく結果になった。こんなことから主人の相撲熱は一層度を増し、雪のチラツク寒中でも、よく相撲のけいこをさせた。中には寒いのを嫌って、裸になるのをいやがる者もいたが、私が追いかけまわしてつかまえ、無理に裸にして、けいこをさせたものだ。(梁井益蔵氏著『我が生涯の記』より)何れにしても豪儀な話である。

主家への報恩

主家の熊本県内での繁栄に関しては益蔵氏自身の貢献によるところが大きい。彼は当主に管理薬剤師の必要性を訴え、まず自身の就学を強く希望した。全国の薬剤師が未だ3,000人に満たなかった明治35年頃の話である。勤務と受験勉強の“二足の草鞋”覚悟の雖しい話だったが当主は常日頃の彼の“勤勉”をよく知っていたので快よくこれを承諦した。苦学を重ねた末、明治36年彼は約束通り熊本薬学校(現在の熊本大学薬学部) への入学を果たす。当主は大層喜び翌年熊本支店を開設、明治40年薬剤師免許取得と同時に熊本支店長の重職を担わせ、商圏拡充の夢を彼に託した。

支店長着任後はそれまで以上に粉骨砕身の働きで当主の恩義に報いた。誠心誠意主家への「御礼奉公」である。万事“誠実であること”を旨とする彼の「忠孝」の精神は支店全体に遍く伝わり、熊本支店は一丸となって事業勃興に燃えた。『実践力』と題して彼が遺した言葉の中にこの当時の熊本支店の運営を紡彿とさせる叙述がある。

『…いくら口先で諭してみても人は決してついてはこない。先ず自から範を示すことである。仕事にほれ、信念を以て仕事に没頭する。その真剣さの度合いが、人をひきつけるか否かの分れ日となる。人と同じことをしていたのでは誰も見習ってはくれない。又、今日なし得ることは、明日に伸ばしてはいけない。…』(『我が生涯の記』より)彼は「当主への報恩」「仕事への執着」を“言葉”ではなく身を以って“実践”で示した。

酉郷南洲を敬愛し、心学(陽明学)の“実践主義”を尊重した益蔵氏ならではの至言である。熊本支店の面々は支店長の日頃の所作から「もの言わずして百を語る」彼の姿勢を痛切に感じていたので仕事に励むのに「埋屈」は必要なかった。業績は年々歳々上昇を続け、ついに全支店でトップとなり全社の屋台骨を支えるまでに成長した。

独立
大正8年益蔵氏は主家の許しを得て「御礼奉公」を終え、独立を標榜した。35歳の時である。長い人生、誰しも「男子の本懐」を痛切に感じる時期が幾度かある筈だが、この時期の梁井益蔵氏はまさにそうした心境ではなかったかと椎察される。
独立に際し彼が最も重要と考えたのは商い以前の道義上の問題である。主家梁井薬店は福岡・佐賀・熊本の3県に跨って商圏を広げていた。当時の主家の繁栄に関しては自身の貢献について幾許かの自負もあったが、益蔵氏はこの3県での開業を潔しとしなかった。主家に対し「恩」を「仇」で返すようなこと、またそれを匂わすようなことは微塵もあってはならなかった。彼の生来の気性かそうした不義理を許さなかったのである。

長崎・大分・鹿児島の各エリアの歴史・風土・商況を熟考した結果彼が選んだのは主家の本店(佐賀)から最も遠い鹿児島の地であった。なぜ彼が鹿児島を選択したのかという点については諸々意見の分かれるところであるが、やはり彼の「忠孝」に対する思いが世問一般の常識とは比較にならない程深いものであった点に尽きるような気がしてならない。つまり選択されるべき新天地は主家の商圏から遥か遠く離れていればいるほど、営業展開上の障害が大きければ大きいほどよかったのではないか。決して主家に迷惑をかけず、起りうる困難を敢えて自分のものとして受け入れ、これを自力で克服することこそが真の独立であり主家への報恩であると考えたのではないか。“明治人の気質”とは、おそらく現代の我々の卑俗な常識では到底理解できないほど祟高な精神世界を背景にして存在するものであろうと思われる。

鹿児島の地

『……当初は鹿児島の地理も、鹿児島の言葉もよく分からず、色々戸惑ったが、しかし人情の朴訥なことは私が以前から想像していた通りだった。…』と本人が語るように彼は元々鹿児島人の気質について好感をもっていたようである。言葉の理解はなかなか進まなかったが、それは彼にとっては枝葉のことであり大した問題ではなかった。一見「閉鎖」的に見える気質も内に「温かみ」を秘めた「朴訥さ」であることをよく知っていた。この洞祭力この度量こそが鹿児島での彼の成功を支えた。また、言葉の問題において「論より証拠」で慣れるのが早かったリヨ夫人の“社交性”が力強く彼を後押しした点も見逃せない。彼女はすすんで鹿児島人となることに努め、夫の薩摩言葉の通訳となり先生となり、益蔵氏の新天地鹿児島での活躍に際し内助の功をいかんなく発揮した。

ともあれ梁井益蔵家は大正18年鹿児島市天文館に「梁丼一心堂」の看板を掲げ開業を果たした。ここで2年間の小売業を経て、大正10年アメヤ筋に移り卸業に転じた。以来24年間、昭和20年を迎えるまで順調に売上を伸ばし、年毎に従業員も増えていった。
「……私は元来口下手で、人をひきつけるような話術や、ユーモアを飛ばして人を笑わせる軽妙さに欠け商売人としてはいささか損な立場にあったが、終始自分特有の実直さと真面目さで押し通し、人に逆らわずへつらわず、仕事に誇りを持ち、信念を以て得意先と接した。これが質実で率直な薩摩人の気質に合ったのか、取引先も売上高も順調なカーブを描いて上昇した。……』(『我が生涯の記』より)

戦 争
「……社屋も商品も一塊の灰と化し永年忠実に働いてくれた社員達も、散り散りとなり全ては無に帰したのである。……戦争が終わって鹿児島に帰って見ると市街地は一面の焼野ケ原となり、瓦礫の山が散乱し、西(鹿児島)駅から照国神社の大鳥居や錦江湾が一目で見渡された。…I』
(『我が生涯の記』より)一代で築き上げてきた「財」の消失は新天地で思い描いた「夢」の喪失でもあった。一面焼け野原となった鹿児島市街の惨状を目のあたりにした益蔵氏の胸中は如何ばかりであったか……。
ここに当時の梁井家の窮状、盟友吉村家との絆を示すエピソードとして以下に吉村益次最高顧問の昭和44年の述懐を引用する。

『……終戦直後のことでした。私の方(大分吉村薬品)は店舗から倉庫、借家まで焼失してしまいましたが、只一つ自宅(現在の私の住い)だけが幸いにも残りました。私共の一家には住む家はのこされたのです。その頃梁井(益蔵)さんの方は、店舗も自宅も一切を空襲で失い、何でも城山の麓の防空壕を住いとしてそれも随分長いこと住んでおられたらしい。鹿児島は海軍の航空隊があり、特に空襲がひどかったわけですが、戦後すでに一年以上もたった頃と思います。ある日父(先代吉村益次氏)は梁井さん一家が未だに防空壕生活で不自由をしておられる話を耳にし、お見舞いなり慰めなり激励の手紙を出した。折り返し梁井さんからの返事がきました。

その時その手紙を父は何度も読み直しながら「梁井君が可愛想た。うちはまだまだ幸いだった。」と涙を流して、友人に同情していたことをハッキリと記憶しております。そして同時に、私共子供に「感謝」の道を懇々と説諭してくれました。梁井さんも又父の手紙を見て喜び、友人の真情に涙した由承っていますが、終戦当時のあの悲惨な環境の中に、すでに六十を超えた男の友情が、清く美しく咲きにおい、本当に心温まることで私にとっては、今もって忘れ得ない想い出であります。……』(『我が生涯の記』への寄稿文より抜粋)

戦前から世に“益々コンビ”(益蔵・益次)と称されたふたりの間にはライバル同志としての競争心やそれぞれのエリアを代表する人物としての駆け引きも存在した筈であるが、頑として根底にあったのは同世代、同じ時代を同じフィールドで生きているという実感、酸いも甘いも噛み分けたうえでの友誼であった。我々アステムフォレストの鹿児島の源流と大分の源流はその起点において今日の合流を予見しうるものであったのかもしれない。そういう極言が「当たり前のこと」として感じられるほど説得力のある逸話ではなかろうか。

大正8年創業以来、緩やかではあるが着実に鹿児島での足跡を固めてきた梁井一心堂は財の全てを失い無一文となった。「誠実」一筋に仕事に励み、精進を重ねてきた益蔵氏の生まれて初めての挫折であり、異郷の地鹿児島における初めての苦渋であった。

戦後
戦中戦後の日本では各地にコレラやチフス、赤痢などが流行して薬がないばかりに多くの人が次々と死亡した。慢性的な過度の栄養失調と劣悪な衛生環境は国民の健康生活を著しくむしばみ、日本全体が生き地獄と化したのである。『こうした状況を目の当たりにして、復興のために我々に何が出来るか、また我々自身が如何にして立ち直るのか、父を中心に皆で話し合った結果、やはり従来培ってきたものを生かすしかないという結論に達したのです。国民ひとりひとりの健康の回復のため、我々は血眼になって在庫の確保に努めました。モノ不足が深刻だった当時、まず何はともあれ商品の安定供給こそが御得意先のニーズでありましたし、勢い、在庫期間3〜4ケ月といった状況が暫くの間続いたのです。

長い間の食糧不足による栄養失調はおびただしい数の患者を生み出しましたし、それだけの需要(健康への渇望)が市場にはあったのです。何より「品切れ」こそが御得意先の信用を失墜させる一番の要因でした。医家・薬粧問わず全ての御得意先と我々卸の至上命題は病める患者に少しでも役立てるための「薬品在庫の確保」にありました。私自身、この時期ほど、強烈に社会的使命感に燃えたことはありませんでした。』と梁井恭三氏は語る。

国全体がどん底に喘いでいる中、梁井一心堂は自らの窮地を度外視し、敢えて御得意先志向、患者志向の原点に立ち返ることに執着した。異郷鹿児島での再起は一心不乱に商品の安定供給にこだわり続けることから始まったのである。自家の苦境を厭わず、商売の大小にこだわらず、脇目も振らず「原点」の追求に邁進する梁井一心堂の姿は「もの言わずして百を語る」益蔵氏の実践主義そのものであった。

「もの言わず」薬品供給に没頭する梁井一心堂を御得意先は「鹿児島」のために働く「鹿児島」の会社として認知しはじめた。内に「温かみ」を秘めた朴訥な市場が梁井家の「誠実」を真に受けとめた瞬問であった。悪戦苦闘の結果、エリアシェアは一変し、梁井一心堂に対する「信用」は鹿児島の同業他社の追随を許さぬほど盤石なものとなった。

かねてよりその“仁”その“徳”において周囲の信望が厚かった益蔵氏は戦後の混乱を経て昭和26年鹿児島県医薬品卸業組合の会長に就任。終戦直後の鹿児島市場でのリーダーシップが評価され昭和29年九州医薬品卸業組合連合会の初代会長に推挙された。この時益蔵氏は69歳、次男謹二氏(後のヤナイ薬品(株)副社長)は37歳、三男恭三氏(後のヤナイ楽品(株)社長現帥(株)アステム顧問)33歳、四男洋之介氏(後のヤナイ薬品(株)社長現(株)アステム相談役)は20歳であった。高齢の当主を3人の息子が堅い結束でしっかりと支え、「鹿児島の梁井」の名を不動のものとした。

その後
昭和43年の大分吉村薬品・宮崎吉村薬品・熊本ヨシマツ薬品との業務提携、平成4年合併((株)ダイコー設立)と時代は移り、人も代わったが、万事に裏表なく「正直であること」を旨とした梁井一心堂(ヤナイ薬品)の社風はその後も鹿児島の地で脈々と受け継がれ、現在のアステムフォレストの繁栄の礎となっている。同業他社の新規参入が激しいなか、守りながら攻める市場として営業展開も難しい局面を迎えているが、奇をてらわない御得意先志向の姿勢は今も変わらずフォレスト鹿児島エリアの信条である、自らの意志を受け継ぎ、日々営業に勤しむ現在の社員の姿を天空海闊の老師も草陰から温かく見守られているのではないだろうか。
出典:源流の地を訪ねて 鹿児島エリア
Posted By 管理者 at 14-04-30 14:36