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[各社の歴史] ダイヤ会 
「みらい創生史BOOK」用Fコード検索

ダイヤ会 → (株)ダイコー(本部) → (株)ディー・ジー・エイチ



歴史の概要

ダイコーの源流となる「ダイヤ会」の結成

昭和30年代後半、高度成長期の消費拡大で激変しつつあった流通業界では流通網の広域化は必至であった。薬業界でも例外ではなく、取り扱う商品の特殊性・多様性とメーカー・卸の関係、卸・得意先の複雑な関係なども考慮し九州をブロック化するとすれば、南北2つのブロックが妥当であると考えられていた。個々の企業では対処が難しい課題が山積し始めたことも相まって、吉村薬品(株)、宮崎吉村薬品(株)、ヤナイ薬品(株)、ヨシマツ薬品(株)の4社で1964年(昭和39年)ダイヤ会を結成した。経営方法や経営内容の公開・分析・検討、情報の交換などの定期的な経営研究の場を設け、共同施策の実施や人事交流などで、互いの経営体質の改善・強化を図った。
「ダイヤ会」のネーミングは4社の頭文字が全てYであり、Yを4つ組み合わせて円で囲むとダイヤモンドの形になることに由来する。 

1969年、グループ化の一層のメリットを追求するために法人化し、本部会社(株)ダイコーを共同出資で設立した。1992年(平成4年)、時代環境の激変に対応するために4社が合併し、医薬品卸「株式会社ダイコー」を設立するに至り、本部会社(株)ダイコーを(株)ディー・ジー・エイチに改称した。
さらにダイコー、キョーエイ両グループ協業の一体化を推進するために1996年(平成8年)、両グループの本部機構(株)アステムを設立し、ダイコーグループとしての本部機能を発展的に解消した。



本部会社ダイコーロゴ


詳細

◆「ダイヤ会」発足の背景

昭和30年代後半、日本は高度成長期にさしかかろうとしていた。その中で、経済動向や交通体系の変化、国際化時代の到来といった将来の見通しから、いずれ地域経済は県単位から広域化、ブロック化の方向へ向かうと多くの経済人は考えていた。

さらに、高度成長期の消費拡大で激変しつつあった流通業界の将来を展望してみても、流通網の広域化は必至であったが、個々の企業レベルでは激変する経営環境に対して具体的な対応策を講じるのは難しかった。個人商店的な色合いが強かった当時の企業においては、今までの経営ノウハウでは解決のつかない多くの課題が山積し始めていた。

一方、九州の薬業界に視点を転じてみると、取り扱う商品の特殊性、多様性とメーカー・卸との関係、卸と得意先との複雑な取引関係などを考えた時、当時の九州をブロック化すれば、南北2つのブロックに分けて捉えるのが妥当であると考えられていた。昭和30年代後半にはブロック化構想を共有する企業間での調整が既に始まっていた。

南九州ブロックでは、創業以来親密な関係をもっていた大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、鹿児島のヤナイ薬品(株)、熊本のヨンマツ薬品(株)の4社で1964年(昭和39年)「ダイヤ会」が結成された。北九州ブロックでは、既に1959年(昭和34年)「北九州医薬品卸協同組合」が結成されていた。

グループ化にあたって永続するために最も大切なことは、本質的に経営理念に相通じるものがなくてはならないこと。そのため4社のトップ(二代吉村益次、吉村陸郎、梁井恭三、吉松幹一)は各社の根本的な経営理念のなかに共通点を確認し、ダイヤ会発足を決意した。
経営方法・経営内容の公開・分析・検討、情報の交換など定期的な経営研究の場を設け、相互の理解と交流を深めながら、お互いの経営体質の改善強化を具体的な目的とした企業グループとしての「ダイヤ会」をスタートさせた。

「ダイヤ会」のネーミングは4社の頭文字が全てYであり、Yを4つ組み合わせて円で囲むとダイヤモンドの形になることに由来する。これは「磨けば磨くほど益々輝く」ことを意味し、また卸業界の貴重な存在として、よりひかり輝き、業界の指導力になろうという各社共通の願いが込められていた。


◆「(株)ダイコー」設立

昭和40年代に入ると薬業界も大きく変貌した。時代はようやく本格的な国際化時代に入り「世界は一つ」「日本は一つ」「九州は一つ」と言われ、交通網、モータリゼーションの発展普及、加えて情報の発達が経済単位の大型化と広域化を必然的に推し進めていた。この変化を先取りしてダイヤ会グループ各社の思想はあらゆる面で統一され、既にゆるぎない固い結束力を保持していた。

また予想以上に大きく変化する環境変化を背景に、4社がさらに具体的にグループ化のメリットを追及する必要性を痛感したのも当然の帰着であった。そしてここに「協業体」として法人化すべきだという方向が生まれ、4社の中軸となる本部会社、いわゆるシンクタンクとしての「(株)ダイコー」が1969年(昭和44年)、業界注視の中で設立された。ダイコーの名称は、ダイヤ・コーポレーションの略称から決定された。


◆ダイコーの事業目標

ダイコー設立とともに4つの事業目標が掲げられた。

長期経営計画の立案とチェック
人事教育訓練と人事交流
コンピューター共同利用の研究
営業部門別委員会活動

この4項目について経営体制の整備と機能の拡充を図り、当面の目標としてダイコーが4社の本社的機能を発揮することで、各社はそれぞれに事業活動に専念できる体制を理想とした。

同年12月、ダイコー定例役員会の開催を開始し、就業規則の4社統一も実施した。


◆激動の70年代へ

1970年代は当初、大方の見方が“バラ色の70年代” “GNP世界第三位経済大国日本”など、勢いに乗った上げ潮ムードであった。しかし実際には、バラ色の1年目は激しく変転し、不況下にあって物価高というスタグフレーションの様相を現した1年となった。“激動の70年代”という厳しい見方を余儀なくさせる幕開けであった。この時期は、公害問題や物価問題などを中心に、消費者運動がますます活発化し、家電や自動車に続く社会問題として「薬品」が問題視されはじめた。

一般用医薬品市場においては「再販制度」「薬局の距離制限」「大衆薬規制」など改めるべきと言われ多くの課題を抱えていたが、それ以上に悩み深く、かつ解決しらい大きな問題を抱えていたのが医療用医薬品市場であった。

健保の赤字に発する「医療制度の抜本改正」策によって根深い問題が一斉に火を噴いた。「過剰添付」の全廃など医療用医薬品の販売姿勢の正常化への動きは、市場の需要構造を大きく変えつつ、「技術とモノの分離」をはじめとする医療の将来に対する日本医師会と中医協の見解の相違となって現れ「保険医総辞退」という激しい事態を引き起こすまで発展した。

70年代は、経済国際化広域化が加速する中で、新しい価値観に立った新しい時代の到来を告げる大転換期であった。

この「激動の70年代」を認識したダイコーは、より高い卸機能の追及に向けて「量より質への転換」「モノから心の経営」を掲げ、その達成に向けて全力を投じたイノベーション活動を始動した。


◆「三つの挑戦」を提案

1972年(昭和47年)、業界の構造変化に対応するための具体的課題が二代 吉村益次ダイコー社長から提示された。「三つの挑戦」と題されたこの提案は、ヘルスインダストリーを掲げ健康産業へ幅広く前進するダイコーの将来像と、その基本方針を示すものであった。



『三つの挑戦』

1、ヘルスインダストリーへの挑戦
  ―健康と文化に奉仕する―
  ①基幹はあくまで医薬品である
  ②関連部門への多角化戦略の推進

2、スケールアップ、レベルアップへの挑戦
  ―卸機能とは、マンパワーなり―
  ①経営力のスケールアップ
  ②マンパワーのレベルアップ

3、脱価格競争への挑戦
  ―量より質の経営―
  ①得意先とより強力な相互信頼感を
  ②回収第一主義の徹底
  ③マーケティング機能の充実
  ④コンサルティング機能の拡充、組織化


◆ヘルスインダストリーへの挑戦方針に基づき多角化を推進

それまで社内事業部として本業以外の多角化に取り組み始めていたダイコー各社は、「3つの挑戦」でヘルスインダストリーへの挑戦が示されてのち医療関連部門多角化戦略を果敢に展開した。分社・統合し独立採算を目指す戦略は医薬品卸業界において先進的で斬新な取り組みであった。各社のチャレンジ精神溢れる献身的な努力により各社目ざましい成果を挙げる。

  • 1956年(昭和31年)設立の大分医療器(有)を1972年(昭和47年)ヨシムラ医療器(株)へ商号変更、1979年(昭和54年)(株)メディカルヨシムラ(宮崎)を吸収合併、1980年(昭和55年)、(株)サン・メックに改称。

  • 1967年(昭和42年)、吉村薬品と躍進会メンバーの共同出資で医療雑貨関連商品専門卸(株)ダイヤを設立。1971年(昭和46年)宮崎吉村の資本参加で宮崎営業所、1972年(昭和47年)ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の資本参加で鹿児島営業所、熊本営業所を開設した。1989年(平成元年)4社の薬専事業部ダイヤを統合して(株)創健を設立、1992年(平成4年)キョーエイ薬品のヘルスケア事業部と藤村薬品の薬粧事業部を譲し、(株)アステムヘルスケアに改称

  • 1972年(昭和47年)吉村薬品と宮崎吉村の特殊品事業部を分離・統合しヨシムラ産業(株)を設立、1974年(昭和49年)ヨシムラ産業を(株)サン・ダイコーに改称、ヨシマツ薬品特品部を譲渡し、ヤナイ産業(株)を合併。

  • 1979年(昭和54年)ダイコーと(株)コーヤク(小倉薬品から改称)の共同出資により(株)西日本特殊臨床検査センター設立、1992年(平成4年)ダイコーとコマックの臨床検査部門を譲渡するかたちで(株)リンテックを設立。

◆本土復帰沖縄より南陽薬品(株)が加盟

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の祖国復帰、新生“沖縄県”の誕生とともに、ダイコーは新しい盟友として光南薬品(株) (後に南陽薬品(株)と合併しコーヨー薬品(株)となり、現在は(株)ダイコー沖縄)を迎えた。人事交流として三浦常務、永田課長、西沢、首藤両係長4名が出向赴任した。

◆ダイコーによる具体的な取組み

ダイコーグループの中枢管理会社としてグループ化のメリットを追及しながら、急激に変貌する社会や業界に速やかに対応すべく、先取の精神で様々な仕組みを構築していった。

  • 新入社員合同合宿訓練開始 1970年(昭和45年3月)
  • グループ社内報「創造」創刊 1970年(昭和45年5月)

※「創造」創刊号では、ダイコー社長、二代目 吉村益次から「ダイコーグループのビジョン」が示された。以降ほぼ2ヶ月に1回のペースで1989年(平成元年)の57号まで発行された。
内容は①グループ方針の提示 ②グループの取組紹介 ③各社経営者からの発信 ④研修報告 ⑤各社のトピックス ⑥慶弔連絡 等


  • グループ連結決算開始 1973年(昭和48年)
  • ダイコー電算機設置


※1974年(昭和49年)4月吉村薬品より電算機を移管設置、各社の電算業務をダイコーにて受託する。翌年8月には最新鋭のコンピューターバロースB2700を導入した

  • 「目標管理制度」「自主管理活動」の導入
※1976年(昭和51年)「低成長」「企業間格差」という世相にあって、経営への総参画を目指して「目標管理制度」「自主管理活動」を導入した。
  • 「成果配分制度」発足 1977年(昭和52年)
  • 新第一期長期5ヵ年経営計画策定 1977年(昭和52年):“理想の卸をめざしていかにあるべきか”との考え方を示唆
  • 退職年金制度発足 1981年(昭和56年)
  • 新中期3ヵ年計画策定 1982年(昭和57年):強固な経営基盤の確立を目指して、①各社のめざす方向及び課題 ②収益性 ③健全性 ④3年間の人員増の目標設定
  • 1985年(昭和60年)ダイコー各社のTQC活動を「あすなろ運動」と命名
  • グループCI「We Love DAICO運動」開始

※1987年(昭和62年)グループの連帯感の高揚を目指した「We Love DAICO 運動」開始。

  1. 赤と緑のダイコーカラー決定
  2. ロゴ、マークの制作
  3. 車両デザインの統一
  4. 統一デザイン「ネームプレート」の作成
  5. 月刊誌「We Love DAICO」発行
  6. 社用箋、原稿用紙の統一
  7. 女性の新制服作成統一
  8. 名刺、封筒デザイン統一
  9. ダイコーイメージソング「だからひとつだダイコーだ」(小林亜星作詞作曲)作成
  10. 業界初のマスコットキャラクター「ケン太くん」作成  等

※2年に亘る「We Love DAICO運動」により「ダイコーはひとつ」というイメージが浸透してきた。

  • 1988年(昭和63年)ダイコー初のOEM商品「ダイコークレープ」(滅菌器)を発売。

  • ワークイノベーション:各社実務の近代化、標準化を推進。伝票書式統一から始まり、ダイコー本社のホストコンピュータに集中していた各社業務の電算処理を各県単位に新設したサブホストコンピュータに移管し、各社単位に自由に実務の近代化に取り組む環境ができた。

  • 創健設立プロジェクト:1988年(昭和63年)、ダイコーと医薬品4社とダイヤが参加し、グループを挙げて設立に向けて活動。同時にそれ迄のどの会社にもないユニークで革新的な実務体系を編み出した。

  • 1989年(平成元年)、ダイコー設立20周年、(株)創健設立
  • (株)ダイコー組織改革
※リストラが進み、経営環境が日毎にその様相を変化させるという時代の流れを背景に、ダイコーグループ支援体制の強化と機動力のアップを目指してダイコーの組織改正が行われ、統括本部の元に ・経営企画 ・人事 ・システム ・医専企画 ・試薬検査企画 ・学術 の6つのサポート機能をもつ体制となった。

  • 「ダイコー20“革新祭”」開催(1989年(平成元年)11月)
  • グループ報「創造」と「We Love DAICO運動」情報誌を一体化し「CAN-D」を創刊(1990年(平成2年)1月)

◆薬業界激変

度重なる薬価の引下げや医療機関の経営緊迫化など卸経営を揺るがす課題が山積するうえに、1992年(平成4年)「新仕切価制」完全移行による新流通時代の到来で、卸裁量の価格競争過熱や全国の卸再編の加速等が予想された。4社合併合意は時流に即した決定であり1991年(平成3年)5月、翌年4月合併に向けMIKSプロジェクトが活動を開始した。

◆4社合併、新生「株式会社ダイコー」誕生

1992年(平成4年)4月、吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の4社が合併し株式会社ダイコーが誕生した。本部会社の旧(株)ダイコーは(株)ディー・ジー・エイチへと社名を改称し、ダイコーグループの本部機能を継続して担った。


「新・三つの挑戦」提示
新生ダイコー誕生にあたり、21世紀に向けての新会社の長期戦略「新・三つの挑戦」が示された。

1 新・地域密着卸への挑戦
2 多次元生産性への挑戦
(一次元=個人の生産性 二次元=組織の生産性 三次元=戦略の生産性 四次元=企業文化の生産性)
3 更に深く「脱価格競争」への挑戦


◆中期5ヵ年経営計画策定

新・三つの挑戦をもとに1993年(平成5年)、これからの内外の変転を展望し、どうあるべきか、どうするべきか、夢やビジョンの熱い議論の末、21世紀への羅針盤、ダイコーグループ総合中期経営計画「大航海」(Grand Navigation)がまとめられた。


◆「九州はひとつ」へ

21世紀を目前に薬業界は更に変化を加速し、地方の卸同士の局地戦ではなく九州全体を舞台にした巨大な自販力をもつ大型卸同士の激突へと移行した。

1992年(平成4年)4社合併で設立したダイコーも1994年(平成6年)3社合併で設立したキョーエイ薬品も、誕生もつかの間次のステージを模索する必要に迫られていた。

メーカーも卸も「九州はひとつ」と考えるようになり、全国ネット時代への対応のため、より広範囲なスケールで経営を考えなければならなくなった。


◆ダイコーとキョーエイ薬品共通の本部機構(株)アステムを設立

1996年(平成8年)ダイコーとキョーエイ薬品両グループは、合併・再編を視野に入れ、共通の本部機構「(株)アステム」を福岡市博多区山王に設立した。(資本構成はダイコーとキョーエイ薬品が45%ずつ、10%がダイコー沖縄)。社長には吉村恭彰ダイコー社長が兼任して就任。組織は統括本部の下に人事企画、営業企画、物流企画、システム企画、経営企画を設置した。これに伴いダイコーグループの本部機能を発展的に解消した。




沿革

1964年 昭和39年 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヨシマツ薬品、ヤナイ薬品で「ダイヤ会」発足
1967年 昭和42年 07月 各社間人事交流開始
1969年 昭和44年 10月 4社の本部会社(株)ダイコー設立 二代吉村益次社長就任
1969年 昭和44年 12月 ダイコー定例役員会開始 就業規則統一
1970年 昭和45年 03月 新入社員合同合宿訓練開始
1970年 昭和45年 03月 グループ報「創造」発刊
1970年 昭和45年 06月 合同部長研修開始
1970年 昭和45年 10月 ダイコー合同スポーツ大会開始
1970年 昭和45年 11月 新入社員フォローアップ研修開始
1971年 昭和46年 04月 営業初心者合同訓練開始 新任係長合同研修開始
1971年 昭和46年 10月 吉村薬品コンピューター導入
1972年 昭和47年 01月 ダイコー年度基本方針設定開始
1972年 昭和47年 04月 ヨシムラ産業(株)設立
1972年 昭和47年 06月 沖縄の光南薬品(株)ダイコーグループ加盟
1972年 昭和47年 07月 大分医療器(有)をヨシムラ医療器(株)に改組
1973年 昭和48年 03月 ダイコー財務諸表規則作成統一
1973年 昭和48年 04月 グループ連結決算開始
1973年 昭和48年 04月 ヤナイ産業(株)設立
1973年 昭和48年 04月 新身分職制統一実施
1973年 昭和48年 04月 ダイコー福祉共済制度実施
1974年 昭和49年 04月 ヨシムラ産業を(株)サン・ダイコーに改称
1974年 昭和49年 04月 ダイコーにコンピューター設置(吉村薬品より移管) 各社電算業務ダイコーにて委託
1974年 昭和49年 05月 光南薬品、南陽薬品合併しコーヨー薬品(株)設立
1974年 昭和49年 10月 サン・ダイコー、ヤナイ産業合併
1974年 昭和49年 10月 上級職昇格試験開始
1975年 昭和50年 08月 ダイコー、コンピューターバロースB2700導入
1975年 昭和50年 12月 自主管理活動導入
1976年 昭和51年 01月 目標管理制度、自主管理活動導入
1977年 昭和52年 04月 成果配分制度発足
1978年 昭和53年 04月 新第一期長期5ヵ年計画 各社スタート
1979年 昭和54年 02月 (株)西日本特殊臨床検査センター設立
1980年 昭和55年 04月 ヨシムラ医療器を(株)サン・メックに改称
1980年 昭和55年 04月 ダイコー栄誉賞制度発足
1981年 昭和56年 04月 退職年金制度発足
1982年 昭和57年 04月 新第二中期3ヵ年計画 各社スタート
1985年 昭和60年 ダイコー各社で繰り広げられていたTQC活動の名称を「あすなろ運動」と命名
1987年 昭和62年 07月 グループCI「We Love DAICO運動」開始 情報誌「WE Love DAICO」発行(〜平成元年22号まで)
1988年 昭和63年 ダイコー初のOEM商品「ダイコークレープ」(滅菌器)発売
1989年 平成元年 04月 (株)創健設立
1989年 平成元年 11月 「ダイコー20“革新祭”」開催
1990年 平成2年 01月 グループ報「創造」と「We Love DAICO運動」情報誌「WE Love DAICO」を一体化し「CAN-D」を創刊(〜平成10年25号)
1992年 平成4年 04月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品が合併し(株)ダイコーを設立
1992年 平成4年 04月 本部会社㈱ダイコーは㈱ディー・ジー・エイチに改称
1992年 平成4年 05月 株)リンテック設立
1993年 平成5年 01月 中期5ヵ年経営計画「大航海」スタート
1996年 平成8年 04月 ダイコーとキョーエイ薬品共通の本部機構(株)アステムを設立



歴代経営者

二代吉村益次
任期:1964年(昭和39年)~1996年(平成8年)



エピソード録

◆ダイコー20周年「革新祭」 
まさに空前絶後の催しであった。平成元年11月17日(金)~19日(日)大分県杵築市の「住吉浜リゾートパーク及び周辺運動施設」を借り切って「ダイコー20“革新祭”」が開催された。 
グループ結成以来初めてとなるダイコーオールの社員イベントで、九州・沖縄のダイコーの仲間達、総勢1,150名が一同に集結した。移動手段は、沖縄は航空機、鹿児島・宮崎が「お座敷列車」、熊本が「ひのくに号」、福岡「サルーンエキスプレス号」というJRの貸切列車を仕立てるなど規格外であった。 
18日グループ全社朝礼に始まり、各種14競技からなる各県対抗競技のほか自由参加の5競技、数々の楽しいアトラクション、夕刻から記念式典、パーティと盛り沢山。圧巻は、21世紀に向けてのダイコーグループ長期ビジョンの発表。ダイコーグループの3本柱である「医療」「健康」「食料・生活」の各部門の未来ビジョンが発表された。参加者は、楽しみながら改めて「ダイコーはひとつ」を実感し、未来に向けての革新を誓い合い、ダイコーグループの将来への夢と希望を抱いたという伝説の催し。 



著作や参考文献




セレクト画像・映像


ダイヤ会のディスカッション

4:
2014/05/08 森田終生(西暦追加前)

◆「ダイヤ会」発足の背景

昭和30年代後半、日本は高度成長期にさしかかろうとしていた。その中で将来の大きな経済の見通しとして、経済動向や交通体系の変化、国際化時代の到来といった見通しから、いずれ薬業を含めた地域経済は県単位から広域化、ブロック化の方向へ向くと多くの経済人は考えていた。

さらに、高度成長期の消費拡大で激変しつつあった流通業界の将来を展望してみても、流通網の広域化は必至であったが、個々の企業レベルでは激変する経営環境に対して具体的な対応策を講じるのは難しかった。個人商店的な色合いが強かった当時の企業では、今までの経営ノウハウでは解決のつかない多くの課題が山積しはじめていた。

一方、九州の薬業界に視点を転じてみると、取り扱う商品の特殊性、多様性とメーカー・卸との関係、卸と得意先との複雑な取引関係などを考えた時、当時の九州をブロック化するとすれば、南北2つのブロックに分けて捉えるのが妥当であると考えられていた。昭和30年代後半にはブロック化構想を共有する企業間での調整が既にはじまっていた。

南九州ブロックでは大分県・熊本県より南部を南ブロックとして、創業者以来親密な関係をもっていた大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、鹿児島のヤナイ薬品(株)、熊本のヨンマツ薬品(株)の4社で昭和39年「ダイヤ会」が結成された。北ブロックには後年「共栄協組」が結成される。

グループ化にあたって最も大切なことは、永続するためには本質的に経営理念に相通じるものがなくてはならないこと。そのため4社のトップ(二代吉村益次、吉村陸郎、梁井恭三、吉松幹一)は各社の根本的な経営理念のなかに共通点を確認し、ダイヤ会発足を決意した。
経営方法の交換、経営内容の公開・分析・検討、情報の交換などの定期的な経営研究の場を設け、相互の理解と交流を深めながら、お互いの経営体質の改善強化を具体的な目的とした企業グループとして「ダイヤ会」をスタートさせたのだった。

「ダイヤ会」のネーミングは4社の頭文字が全てYであり、Yを4つ組み合わせて円で囲むとダイヤモンドの形になることに由来する。これは「磨けば磨くほど益々輝く」ことを意味し、また卸業界の貴重な存在として、よりひかり輝き、業界の指導力になろうという各社共通の願いが込められていた。


◆「(株)ダイコー」設立

昭和40年代に入ると薬業界も大きく変貌した。時代はようやく本格的な国際化時代に入り「世界は一つ」「日本は一つ」「九州は一つ」と言われ、交通網、モーターリゼーションの発展普及、加えて情報の発達が経済単位の大型化と広域化を必然的に推し進めていた。この変化により添うようにダイヤ会グループ各社の思想はあらゆる面で統一され、既にゆるぎない固い結束力を保持していた。

また予想以上に大きく変化する環境変化の背景の中で、4社がさらに具体的にグループ化のメリットを追及してゆく必要性を痛感したのも当然の帰着であった。そしてここに「協業体」として法人化すべきだという方向が生まれ、4社の中軸となる中枢管理会社、いわゆるシンクタンクとしての「(株)ダイコー」が昭和44年、業界注視の中で設立された。ダイコーの名称は、ダイヤ・コーポレーションの略称から決定された。


◆ダイコーの事業目標

ダイコー設立とともに4つの事業目標が掲げられた。

1 長期経営計画の立案とチェック
2 人事教育訓練と人事交流
3 コンピューター共同利用の研究
4 営業部門別委員会活動

この4項目について経営体制の整備と機能の拡充を図り、当面の目標としてダイコーが4社の本社的機能を発揮することで、各社はそれぞれに事業活動に専念できる体制を理想とした。

同年12月、ダイコー定例役員会の開催を開始し、就業規則の4社統一も実施している。

◆激動の70年代へ

1970年代は当初、大方の見方が“バラ色の70年代” “GNP世界第三位経済大国日本”など、勢いに乗った上げ潮ムードであった。しかし実際には、バラ色の1年目はまさに激しく変転し、不況による物価高というスタグフレーションの様相を現した1年目となった。“激動の70年代”という厳しい見方を余儀なくさせる幕開けとなったのだ。この時期は、公害問題や物価問題などを中心に、消費者運動がますます活発化し、家電や自動車に続く社会問題として「薬品」が問題視されはじめた時代でもあった。

「再販制度」「薬局の距離制限」「大衆薬規制」などが包含する流通での不合理性は、改めなければならない多くの問題を常に抱えていたが、このような大衆薬市場以上に、悩み深く、かつ解決しずらい大きな問題を抱えていたのが医療用医薬品市場であった。

健保赤字に発する「医療制度の抜本改正」に基づく根深い問題が、この時期一斉に火を噴いた。「過剰添付」の全廃、医家向医薬品の販売姿勢の正常化への動きは、市場の需要構造を大きく変えつつ、「技術とモノの分離」をはじめとする医療の将来に対する日本医師会と中医協の見解の相違となって現れ「保険医総辞退」という激しい事態を引き起こすまで発展した。

このような事態のなかに見られる問題の本質は、70年代にいたるまで医療に関する各方面、各段階において「質より量」に対して大きなウエイトが置かれていたという事実であった。70年代に入ってから時代の消費感性と価値観は既に変化していた。「量より質」への転換が、医療・薬業界につきつけられていたのである。

70年代は経済が国際化、広域化が加速する中で、新しい価値観に立った新しい時代の到来を告げる大転換期であった。この「激動の70年代」を認識したダイコーは、より高い卸機能の追及に向けて「量より質への転換」「モノから心の経営」を掲げ、その達成に向けて全力を投じたイノベーション活動を始動した。


◆「三つの挑戦」を提案

昭和47年、業界の構造変化に対応するための具体的課題が二代目 吉村益次ダイコー社長から提示された。「三つの挑戦」と題されたこの提案は、健康産業へ幅広く前進するダイコーの将来像と、その基本方針をまとめたものであった。



『三つの挑戦』

1、ヘルスインダストリーへの挑戦
  ―健康と文化に奉仕する―
  ①基幹はあくまで医薬品である
  ②関連部門への多角化戦略の推進

2、スケールアップ、レベルアップへの挑戦
  ―卸機能とは、マンパワーなり―
  ①経営力のスケールアップ
  ②マンパワーのレベルアップ

3、脱価格競争への挑戦
  ―量より質の経営―
  ①得意先とより強力な相互信頼感を
  ②回収第一主義の徹底
  ③マーケティング機能の充実
  ④コンサルティング機能の拡充、組織化


◆ヘルスインダストリーへの挑戦方針に基づき多角化・リストラを推進

昭和31年設立の大分医療器(有)を昭和47年ヨシムラ医療器(株)へ商号変更、昭和54年(株)メディカルヨシムラ(宮崎)を吸収合併、昭和55年、(株)サン・メックに商号変更。

昭和42年、グループ4社の医療雑貨部門を統合し(株)ダイヤを設立、平成元年4社の薬専事業部をダイヤに譲渡し、(株)創健を設立、平成4年キョーエイ薬品のヘルスケア事業部と藤村薬品の薬粧事業部を譲渡し、(株)アステムヘルスケアに商号変更。

昭和46年吉村薬品と宮崎吉村の特殊品事業部を分離・統合しヨシムラ産業(株)を設立、昭和49年ヨシムラ産業を(株)サン・ダイコーに商号変更、ヨシマツ薬品特品部を譲渡し、ヤナイ産業(株)を合併。

昭和53年ダイコーと(株)コーヤク(小倉薬品から改称)の共同出資により(株)西日本特殊臨床検査センター設立、平成4年ダイコーとコマックの臨床検査部門を譲渡し、(株)リンテック設立。

◆本土復帰沖縄より南陽薬品(株)が加盟

昭和47年5月15日、沖縄の祖国復帰、新生“沖縄県”の誕生とともに、ダイコーは新しい盟友として光南薬品(株) (後に南陽薬品(株)と合併しコーヨー薬品(株)となり、現在は(株)ダイコー沖縄)を迎えた。人事交流として三浦常務、永田課長、西沢、首藤両係長4名が出向赴任した。

◆ダイコーによる具体的な取組み

ダイコーグループの中枢管理会社としてグループ化のメリットを追及しながら、急激に変貌する社会や業界に速やかに対応すべく、先取の精神で様々な仕組みを構築していった。

新入社員合同合宿訓練開始(昭和45年3月)
グループ社内報「創造」創刊(昭和45年5月)

「創造」創刊号では、ダイコー社長、二代目 吉村益次から「ダイコーグループのビジョン」が示された。以降ほぼ2ヶ月に1回のペースで平成元年の57号まで発行された。
内容は①グループ方針の提示 ②グループの取組紹介 ③各社経営者からの発信 ④研修報告 ⑤各社のトピックス ⑥慶弔連絡 等

グループ連結決算開始(昭和48年)
ダイコー電算機設置


昭和49年4月吉村薬品より電算機を移管設置、各社の電算業務をダイコーにて受託する。翌年8月には最新鋭のコンピューターバロースB2700を導入した

「目標管理制度」「自主管理活動」の導入
昭和51年「低成長」「企業間格差」という世相にあって、経営への総参画を目指して「目標管理制度」「自主管理活動」を導入した。
「成果配分制度」発足(昭和52年)
新第一期長期5ヵ年経営計画策定(昭和52年):“理想の卸をめざしていかにあるべきか”との考え方を示唆
退職年金制度発足(昭和56年)
新中期3ヵ年計画策定(昭和57年):強固な経営基盤の確立を目指して、①各社のめざす方向及び課題 ②収益性 ③健全性 ④3年間の人員増 の目標設定
昭和60年ダイコー各社のTQC活動を「あすなろ運動」と命名
グループCI「WE Love DAICO運動」開始

昭和62年グループの連帯感の高揚を目指した「We Love DAICO 運動」開始。

赤と緑のダイコーカラー決定
ロゴ、マークの制作
車両デザインの統一
統一デザイン「ネームプレート」の作成
月刊誌「We Love DAICO」発行
社用箋、原稿用紙の統一
女性の新制服作成統一
名刺、封筒デザイン統一
ダイコーイメージソング「だからひとつだダイコーだ」(小林亜星作詞作曲)作成
業界初のマスコットキャラクター「ケン太くん」作成  等


2年に亘る「We Love DAICO運動」により「ダイコーはひとつ」というイメージが浸透してきた。

昭和63年ダイコー初のOEM商品「ダイコークレープ」(滅菌器)を発売。

ワークイノベーション:各社実務の近代化、標準化を推進。伝票書式統一から始まり、ダイコー本社のホストコンピュータに集中していた各社業務の電算処理を各県単位に新設したサブホストコンピュータに移管し、各社単位に自由に実務の近代化に取り組む環境ができた。

創健設立プロジェクト:昭和63年、ダイコーと医薬品4社とダイヤが参加し、グループを挙げて設立に向けて活動。同時にそれまでのどの会社にもないユニークで革新的な実務体系を編み出した。

平成元年、ダイコー設立20周年、(株)創健設立
(株)ダイコー組織改革

リストラが進み、経営環境が日毎にその様相を変化させるという時代の流れを背景に、ダイコーグループ支援体制の強化と機動力のアップを目指してダイコーの組織改正が行われ、統括本部の元に 
経営企画 
人事 
システム 
医専企画 
試薬検査企画 
学術
の6つのサポート機能をもつ体制となった。

「ダイコー20“革新祭”」開催(平成元年11月)
グループ報「創造」と「We Love DAICO運動」情報誌を一体化し「CCAN-D」を創刊(平成2年1月)

◆四社合併、新生「株式会社ダイコー」誕生

平成4年4月、吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の4社が合併し株式会社ダイコーが誕生した。シンクタンクの(株)ダイコーは(株)ディー・ジー・エイチへと社名を改称し、ダイコーグループの本部機能を継続している。


「新・三つの挑戦」提示

1 新・地域密着卸への挑戦
2 多次元生産性への挑戦
(一次元=個人の生産性 二次元=組織の生産性 三次元=戦略の生産性
四次元=企業文化の生産性)
3 更に深く「脱価格競争」への挑戦


◆中期5ヵ年経営計画策定

平成5年、これからの内外の変転を展望し、どうあるべきか、どうするべきか。夢やビジョンの熱い議論の中で、21世紀への羅針盤、ダイコーグループ総合中期経営計画「大航海」(Grand Navigation)がまとめられた。

◆「九州はひとつ」へ

平成を迎え、薬業界は地方の卸同士の局地戦ではなく、九州全体を舞台に巨大な自販力をもつ大型卸同士の激突へと局面が変化した。

かつて南北2つのブロックで「共存共栄のダイコー」と「競争と共有の協組」といわれたダイコーも、4社合併後の次のステージを模索する段階に来ていた。平成元年、ダイコーは以前の目標から大転換された挑戦目標「九州をネットワークする総合健康企業集団」を掲げている。

共栄協組は、コーヤクと大石薬品、シンコー薬品、ヤクシン、藤村薬品の医薬品卸五社と医療機器卸コマックを加えた6社で構成されていた。

メーカーも卸も「九州はひとつ」と考えるようになり、全国ネット時代への対応のため、より広範囲なスケールの中で考えなければならなくなった。


◆ダイコーとキョーエイ薬品共通の本部機構(株)アステムを設立

平成8年ダイコーとキョーエイ薬品両グループは、合併・再編を視野に入れ、共通の本部機構「(株)アステム」を福岡市博多区山王に設立した。(母体はディー・ジー・エイチで資本構成はダイコーとキョーエイ薬品が45%ずつ、10%がダイコー沖縄)。社長には吉村恭彰ダイコー社長が兼任して就任。組織は統括本部の下に人事企画、営業企画、物流企画、システム企画、経営企画を設置した。

組織・業務体制のスクラップ&ビルドや業界トップ水準の流通機能の整備・構築、新人事制度の確立、総合中期経営計画の策定などを手がけながら、共通の“経営土壌”の構築を目指した。同時に、1社1社を木に見立て、両グループ全社の総称を「アステムフォレスト」とした。



◆ダイコー、キョーエイ薬品、サン・メック、コマックの四社が合併し(株)アステム設立。

平成10年4月医薬品卸のダイコーとキョーエイ薬品、医療機器卸のサン・メック、コマックの4社が合併し「(株)アステム」を設立。これまで本部機構としていた(株)アステムはその役割を終えて休眠後、平成12年に(株)エー・エフ・エイチとなった。

@編集 志手 2014年4月22日

@2014/05/08 morita rw
Posted By 管理者 at 14-05-08 11:48
3:
志手さん元原稿 2014/05/08

◆ダイヤ会の発足

昭和30年代後半、将来の経済動向や交通体系の変化、国際化時代の到来といった見通しから、いずれ地域経済は県単位から広域化、ブロック化の方向へ向くと思われた。さらに、激変する流通業界の将来を展望してみても、広域化の傾向は必至であり、個々の企業では解決のつかない多くの課題が山積していた。
薬業界も取り扱う商品の特殊性、多様性とメーカー・卸との関係、卸と得意先との複雑な取引関係などを考えた時、当時の九州は南北2つのブロックが妥当であると考えられた。

南九州地方については大分県・熊本県より南部を南ブロックとして創業者以来親密な関係をもっていた大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、鹿児島のヤナイ薬品(株)、熊本のヨンマツ薬品(株)の四社で昭和39年ダイヤ会を結成した。グループ化にあたって大切なことは、永続するためには本質的に経営理念に相通じるものがなくてはならないこと。四社のトップ(二代吉村益次、吉村陸郎、梁井恭三、吉松幹一)はその根本的な経営理念のなかに共通点を確認し、ダイヤ会発足を決意した。経営方法の交換、経営内容の公開・分析・検討、情報の交換などの定期的な経営研究の場を設け、相互の理解と交流を深めながらお互いの経営体質の改善強化を目的にスタートした。

「ダイヤ会」とは4社の頭文字が企てYであり、Yを四つ組み合わせて円で囲むとダイヤモンドの形になることに由来する。これは「磨けば磨くほど益々輝く」ことを意味し、また卸業界の貴重な存在として、よりひかり輝き、業界の指導力になろうという願いが込められたものである。


◆(株)ダイコー設立

昭和40年代に入ると、グループ各社の思想はあらゆる面で統一され、固い結束力をもつに至った。その間、業界も大きく変貌した。時代はようやく本格的な国際化時代に入り「世界は一つ」「日本は一つ」「九州は一つ」と言われ、交通網、自動車の発展普及、加えて情報の発達が経済単位の大型化を必然としてきた。

こうした背景の中で四社がさらに具体的にグループ化のメリットを追及してゆく必要性を痛感したのも当然の帰着であった。ここに協業体として法人化すべきだという方向が生まれ、四社の中軸となる中枢管理会社、いわゆるシンクタンクとしての(株)ダイコーが昭和44年10月、業界注視の中で発足した。ダイコーの名称は、ダイヤ・コーポレーションの略称から決定された。


◆ダイコーの事業目標

ダイコー発足とともに4つの事業目標が掲げられた。

1、 長期経営計画の立案とチェック
2、 人事教育訓練と人事交流
3、 コンピューター共同利用の研究
4、 営業部門別委員会活動
この4項目について体制の整備と機能の拡充を図り、当面の目標としてダイコーが四社の本社的機能を発揮するとともに各社はそれぞれに営業活動に専念できる体制を理想とした。

同年12月、ダイコー定例役員会の開催を開始し、就業規則の四社統一も実施した。

◆激動の70年代

1970年は当初、大方の見方が“バラ色の70年代”“GNP世界第三位経済大国日本”など勢いに乗った上げ潮ムードであった。しかし実際には、バラ色の1年はまさに激しく変転し不況下における物価高というスタグフレーションの様相を現し、“激動の70年代”という厳しい見方を余儀なくさせる初年度となった。この年は、公害問題や物価問題などを中心に消費者運動がますますエスカレートし、家電や自動車の後に続くものとして、薬品が問題視されはじめた時代でもあった。

「再販制度」「薬局の距離制限」「大衆薬規制」などが包含する流通における不合理性は、改めなければならない多くの問題を抱えていたが、このような大衆薬市場以上に悩み深く大きな問題を抱えていたのは医家向市場であった。健保赤字に発する「医療制度の抜本改正」に基づく根深い問題がこの時一斉に火を噴いた。「過剰添付」の全廃、医家向医薬品の販売姿勢の正常化への動きは、市場の需要構造を大きく変えつつ、「技術とモノの分離」をはじめとする医療の将来に対する日本医師会と中医協の見解の相違となって現れ、「保険医総辞退」という事態を引き起こすまで発展した。

このような事態のなかに見られる本質は、医療に関する各方面、各段階において「質より量」に大きなウエイトが置かれていたという事実であった。70年代に入っていよいよ時代の方向も変化し、「量より質」への転換が要請されていたのである。経済が国際化、広域化する中で、新しい価値観に立った新しい時代への取り組みが望まれる転換期であった。この「激動の70年代」を認識したダイコーは、より高い卸機能の追及に向けて「量より質への転換」「モノから心の経営」に向けて努力を開始した。


◆三つの挑戦を提案

昭和47年、業界の構造変化に対応するための具体的課題が二代吉村益次ダイコー社長から提示された。「三つの挑戦」と題されたこの提案は、健康産業へ幅広く前進するダイコーの将来像とその基本方針をおりなしたものであった。


『三つの挑戦』
1、 ヘルスインダストリーへの挑戦
―健康と文化に奉仕する―
① 基幹はあくまで医薬品である
② 関連部門への多角化戦略の推進
2、 スケールアップ、レベルアップへの挑戦
―卸機能とは、マンパワーなり―
① 経営力のスケールアップ
② マンパワーのレベルアップ
3、 脱価格競争への挑戦
  ―量より質の経営―
① 得意先とより強力な相互信頼感を
② 回収第一主義の徹底
③ マーケティング機能の充実
④ コンサルティング機能の拡充、組織化


◆ヘルスインダストリーへの挑戦方針に基づき多角化・リストラの推進

昭和31年設立大分医療器(有)を昭和47年ヨシムラ医療器(株)へ商号変更、昭和54年(株)メディカルヨシムラ(宮崎)を吸収合併、平成55年(株)サン・メックに商号変更
昭和42年四社の医療雑貨部門を統合し(株)ダイヤを設立、平成元年四社の薬専事業部をダイヤに譲渡し(株)創健を設立、平成4年キョーエイ薬品のヘルスケア事業部と藤村薬品の薬粧事業部を譲渡し(株)アステムヘルスケアに商号変更
昭和47年吉村薬品と宮崎吉村の特殊品事業部を分離・統合しヨシムラ産業(株)を設立、昭和49年ヨシムラ産業を(株)サン・ダイコーに商号変更、ヨシマツ薬品特品部を譲渡、ヤナイ産業(株)を合併
昭和53年ダイコーとコーヤクの共同出資により(株)西日本特殊臨床検査センター設立、平成4年ダイコーとコマックの臨床検査部門を譲渡し(株)リンテック設立

◆本土復帰沖縄より南陽薬品(株)が加盟

昭和47年5月15日沖縄の祖国復帰、新生“沖縄県”の誕生とともにダイコーは新しい盟友として光南薬品(株)(のちに南陽薬品(株)と合併しコーヨー薬品(株)となり、現在は(株)ダイコー沖縄となる)を迎えた。
人事交流として三浦常務、永田課長、西沢、首藤両係長4名が出向赴任した。

◆(株)ダイコーによる具体的取組

ダイコーグループの中枢管理会社としてグループ化のメリットを追及しながら、急激に変貌する社会や業界に速やかに対応すべく先取の精神をもって様々な仕組みを構築していった。

新入社員合同合宿訓練開始(昭和45年3月)
グループ社内報「創造」創刊(昭和45年5月)

創刊号では、ダイコー社長二代吉村益次から「ダイコーグループのビジョン」が示された。
以降ほぼ2ヶ月に1回のペースで平成元年の57号まで発行された。
内容は①グループ方針の提示 ②グループの取組紹介 ③各社経営者からの発信 ④研修報告 ⑤各社のトピックス ⑥慶弔連絡 等

グループ連結決算開始(昭和48年)
ダイコー電算機設置
昭和49年4月吉村薬品より電算機を移管設置、各社の電算業務をダイコーにて受託する。翌年8月最新鋭のコンピューターバロースB2700を導入した

「目標管理制度」「自主管理活動」の導入
昭和51年「低成長」「企業間格差」という世相にあって、経営への総参画を目指して「目標管理制度」「自主管理活動」を導入した。
「成果配分制度」発足(昭和52年)
新第一期長期5ヵ年経営計画策定(昭和52年):“理想の卸をめざしていかにあるべきか”との考え方を示唆
退職年金制度発足(昭和56年)
新中期3ヵ年計画策定(昭和57年):強固な経営基盤の確立を目指して、①各社のめざす方向及び課題 ②収益性 ③健全性 ④3年間の人員増 の目標設定
昭和60年ダイコー各社のTQC活動を「あすなろ運動」と命名
グループCI「We Love DAICO運動」開始

昭和62年グループの連帯感の高揚を目指した「We Love DAICO運動」を開始。

赤と緑のダイコーカラー決定
ロゴ、マークの制作
車両デザインの統一
統一デザイン「ネームプレート」の作成
月刊誌「We Love DAICO」発行
社用箋、原稿用紙の統一
女性の新制服作成統一
名刺、封筒デザイン統一
ダイコーイメージソング「だからひとつだダイコーだ」(小林亜星作詞作曲)作成
業界初のマスコットキャラクター「ケン太くん」作成   等


2年に亘る「We Love DAICO運動」により「ダイコーはひとつ」というイメージが浸透してきた。

昭和63年ダイコー初のOEM商品「ダイコークレープ」(滅菌器)発売
ワークイノベーション:各社実務の近代化、標準化を推進。伝票書式統一から始まり、ダイコー本社のホストコンピュータに集中していた各社業務の電算処理を各県単位に新設したサブホストコンピュータに移管し、各社単位に自由に実務の近代化に取り組む環境ができた。
創健設立プロジェクト:昭和63年、ダイコーと医薬品四社とダイヤ、グループを挙げて設立に向けて活動し、同時にそれまでのどの会社にもないユニークで革新的な実務体系を編み出した。
平成元年、ダイコー設立20周年、(株)創健設立
(株)ダイコー組織改革

リストラが進み、経営環境が日毎にその様相を変化させるという時代の流れを背景にダイコーグループ支援体制の強化と機動力のアップを目指してダイコーの組織改正が行われ、統括本部の元に 
経営企画 
人事 
システム 
医専企画 
試薬検査企画 
学術
の6つのサポート機能をもつ体制となった。

「ダイコー20“革新祭”」開催(平成元年11月)
グループ報「創造」と「We Love DAICO運動」情報誌を一体化し「CAN-D」を創刊(平成2年1月)

◆四社合併「株式会社ダイコー」誕生

平成4年4月、吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の四社が合併し株式会社ダイコーが誕生した。シンクタンクの(株)ダイコーは(株)ディー・ジー・エイチへと社名を改称し、ダイコーグループの本部機能を継続している。

「新・三つの挑戦」提示
1、 新・地域密着卸への挑戦
2、 多次元生産性への挑戦
(一次元=個人の生産性 二次元=組織の生産性 三次元=戦略の生産性
四次元=企業文化の生産性)
3、 更に深く「脱価格競争」への挑戦

◆中期5ヵ年経営計画策定

平成5年、これからの内外の変転を展望し、どうあるべきか、どうするべきか。夢やビジョンの熱い議論の中で、21世紀への羅針盤、ダイコーグループ総合中期経営計画「大航海」(Grand Navigation)がまとめられた。


◆「九州はひとつ」へ

平成を迎え、業界は地方の卸同士の局地戦ではなく、九州全体を舞台に巨大な自販力をもつ大型卸同士の激突へと局面が変化した。

かつて南北2つのブロックで「共存共栄のダイコー」と「競争と共有の協組」といわれたダイコーも四社が合併し次の対応を模索する時期に来ていた。平成元年、ダイコーは以前の目標から大転換された挑戦目標「九州をネットワークする総合健康企業集団」を掲げている。

協組は、コーヤクと大石薬品、シンコー薬品、ヤクシン、藤村薬品の医薬品卸五社と医療機器卸コマックを加えた六社で構成されていた。

メーカーも卸も「九州はひとつ」と考えるようになり、全国ネット時代への対応のため、より広範囲なスケールの中で考えなければならなくなった。


◆ダイコーとキョーエイ薬品共通の本部機構(株)アステムを設立

平成8年4月ダイコーとキョーエイ薬品両グループは、合併・再編を視野に入れ、共通の本部機構(株)アステムを福岡市博多区山王に設立した。(母体はディー・ジー・エイチで資本構成はダイコーとキョーエイ薬品が45%ずつ、10%がダイコー沖縄)。

社長は吉村恭彰ダイコー社長が兼任。

組織は統括本部の下に人事企画、営業企画、物流企画、システム企画、経営企画を設置。

組織・業務体制のスクラップ&ビルドや業界トップ水準の流通機能の整備・構築、新人事制度の確立、総合中期経営計画の策定などを手がけながら共通の“経営土壌”の構築を目指した。同時に、1社1社を木に見立て両グループ全社の総称を「アステムフォレスト」とした。


◆ダイコー、キョーエイ薬品、サン・メック、コマックの四社が合併し(株)アステム設立

平成10年4月医薬品卸のダイコーとキョーエイ薬品、医療機器卸のサン・メック、コマックの四社が合併し(株)アステムを設立し、本部機構としての(株)アステムはその役割を終えて休眠会社とした。


@編集 志手 2014年4月22日
Posted By 管理者 at 14-05-08 08:20
2:
【あらまし】削除原稿:2014/04/30 森田
熊本県・大分県より南部を南ブロックとして創業者藤三郎以来親密な関係を持っていた鹿児島のヤナイ薬品(株)、大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、そして熊本のヨンマツ薬品(株)の4社で昭和39年ダイヤ会を結成。 昭和34年(1959)北九州医薬品卸協同組合なるものが小倉薬品・大石薬品・松井薬品・高瀬薬品 佐藤薬品の5社加盟によって小倉の地に誕生した。

これは個々の企業では解決のつかない問題にも経営革新を真剣に考える人達が相集い相考え、経営の集団化 共同作業をやろう(合併統合ではなく、歴史・伝統を尊重する立場から法的にも類似の協同組合へ)それも従来の脇同組合的発想ではなく、「物心両面の提携による真の同志的集いをめざそう・経営の革新とは究極自己企業を健全ならしめることにある」とする理念から出発したものである。

 その頃、九州青年薬業人を以って組織していた青雲会の一員でもあった吉松和人はその埋念のめざすところに共鳴し、卸脇組幹部研修会等にオブザーバーとして参加、昭和38年8月機熟するをみて正規メンバーとして新規加入した。その後医専・薬専の営業活動委員会や仕入・教育訓練・事務合理化 債権保全委員会等など近代経営化の為の各種委員会活動が活発に展開された。

一方、卸の取り扱う商品の多様性 メーカー・卸と得意先との複雑な取引関係を考えたとき当時の九州は南北二つのブロックが妥当であると考えられはじめたのが結成のきっかけである。 グループ化にあたって大切なことは、永続するためには本質的に経営理念に相通じるものがなくてはならぬ、その基本的なものがなければその目的の達成のみならず、維持存続すら困難である。4社のトップはその根本的な経営理念のなかに共通点を雑認し、ダイヤ会発足を決意した。即ち業務の提携は経営方法の研鑽、経営内容の公開・分析・検討 情報の交換などを重ねながら、相互の理解と交流を深め、定期的な経営研究の場としてスタートした。

「ダイヤ会」とは4社の頭文字が企てYであり、Yを四つ組み合わせて円で囲むとダイヤモンドの形になることに油来し、更には切艦琢磨「磨けば磨くほど益々輝く」ことを願いグループ名とした。

*解散期日要確認 森田
Posted By 管理者 at 14-04-30 14:52
1:
【企業】削除原稿:2014/04/30 森田
F21-12-DGH-N1

F21-12-DGH-BOOK-01

医療品卸における昭和30年代当時の九州は、南北二つのブロックとして考えられはじめていた。昭和34年、北九州医薬品卸協同組合が小倉薬品・大石薬品・松井薬品・高瀬薬品 佐藤薬品の5社によって小倉の地に誕生すると、熊本・大分より南部を南ブロックとして、鹿児島のヤナイ薬品、大分の吉村薬品、宮崎の宮崎吉村薬品、熊本のヨンマツ薬品の4社で昭和39年にダイヤ会が結成された。個々の企業では解決できない問題にも対処していく経営革新理念の共有が出発点。 名称は4社の頭文字のYを組み合わせるとダイヤモンドの形になることに由来している。

F21-12-DGH-WEB-01
昭和30年代当時の九州は南北二つのブロックが妥当であると考えられはじめた。昭和34年(1959)北九州医薬品卸協同組合小倉薬品・大石薬品・松井薬品・高瀬薬品・佐藤薬品の5社加盟によって小倉の地に誕生した。これは個々の企業では解決のつかない問題にも経営革新を真剣に考える人達が相集い相考え、経営の集団化 共同作業をやろう(合併統合ではなく、歴史・伝統を尊重する立場から法的にも類似の協同組合へ)それも従来の脇同組合的発想ではなく、「物心両面の提携による真の同志的集いをめざそう・経営の革新とは究極自己企業を健全ならしめることにある」とする理念から出発したものである。
昭和39年に熊本県・大分県より南部を南ブロックとして鹿児島のヤナイ薬品(株)、大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、熊本のヨンマツ薬品(株)の4社で昭和39年ダイヤ会が結成された。名称は4社の頭文字のYを組み合わせるとダイヤモンドの形になることに由来している。
Posted By 管理者 at 14-04-30 14:51