ダイヤ会 → (株)ダイコー(本部) → (株)ディー・ジー・エイチ
歴史の概要
ダイコーの源流となる「ダイヤ会」の結成
昭和30年代後半、高度成長期の消費拡大で激変しつつあった流通業界では流通網の広域化は必至であった。薬業界でも例外ではなく、取り扱う商品の特殊性・多様性とメーカー・卸の関係、卸・得意先の複雑な関係なども考慮し九州をブロック化するとすれば、南北2つのブロックが妥当であると考えられていた。個々の企業では対処が難しい課題が山積し始めたことも相まって、吉村薬品(株)、宮崎吉村薬品(株)、ヤナイ薬品(株)、ヨシマツ薬品(株)の4社で1964年(昭和39年)ダイヤ会を結成した。経営方法や経営内容の公開・分析・検討、情報の交換などの定期的な経営研究の場を設け、共同施策の実施や人事交流などで、互いの経営体質の改善・強化を図った。
「ダイヤ会」のネーミングは4社の頭文字が全てYであり、Yを4つ組み合わせて円で囲むとダイヤモンドの形になることに由来する。 1969年、グループ化の一層のメリットを追求するために法人化し、本部会社(株)ダイコーを共同出資で設立した。1992年(平成4年)、時代環境の激変に対応するために4社が合併し、医薬品卸「株式会社ダイコー」を設立するに至り、本部会社(株)ダイコーを(株)ディー・ジー・エイチに改称した。 さらにダイコー、キョーエイ両グループ協業の一体化を推進するために1996年(平成8年)、両グループの本部機構(株)アステムを設立し、ダイコーグループとしての本部機能を発展的に解消した。 |
本部会社ダイコーロゴ
|
◆「ダイヤ会」発足の背景
◆「(株)ダイコー」設立
昭和40年代に入ると薬業界も大きく変貌した。時代はようやく本格的な国際化時代に入り「世界は一つ」「日本は一つ」「九州は一つ」と言われ、交通網、モータリゼーションの発展普及、加えて情報の発達が経済単位の大型化と広域化を必然的に推し進めていた。この変化を先取りしてダイヤ会グループ各社の思想はあらゆる面で統一され、既にゆるぎない固い結束力を保持していた。
また予想以上に大きく変化する環境変化を背景に、4社がさらに具体的にグループ化のメリットを追及する必要性を痛感したのも当然の帰着であった。そしてここに「協業体」として法人化すべきだという方向が生まれ、4社の中軸となる本部会社、いわゆるシンクタンクとしての「(株)ダイコー」が1969年(昭和44年)、業界注視の中で設立された。ダイコーの名称は、ダイヤ・コーポレーションの略称から決定された。
◆ダイコーの事業目標
1 長期経営計画の立案とチェック2 人事教育訓練と人事交流3 コンピューター共同利用の研究4 営業部門別委員会活動
この4項目について経営体制の整備と機能の拡充を図り、当面の目標としてダイコーが4社の本社的機能を発揮することで、各社はそれぞれに事業活動に専念できる体制を理想とした。
同年12月、ダイコー定例役員会の開催を開始し、就業規則の4社統一も実施した。
◆激動の70年代へ
1970年代は当初、大方の見方が“バラ色の70年代” “GNP世界第三位経済大国日本”など、勢いに乗った上げ潮ムードであった。しかし実際には、バラ色の1年目は激しく変転し、不況下にあって物価高というスタグフレーションの様相を現した1年となった。“激動の70年代”という厳しい見方を余儀なくさせる幕開けであった。この時期は、公害問題や物価問題などを中心に、消費者運動がますます活発化し、家電や自動車に続く社会問題として「薬品」が問題視されはじめた。
一般用医薬品市場においては「再販制度」「薬局の距離制限」「大衆薬規制」など改めるべきと言われる多くの課題を抱えていたが、それ以上に悩み深く、かつ解決しづらい大きな問題を抱えていたのが医療用医薬品市場であった。
健保の赤字に発する「医療制度の抜本改正」策によって根深い問題が一斉に火を噴いた。「過剰添付」の全廃など医療用医薬品の販売姿勢の正常化への動きは、市場の需要構造を大きく変えつつ、「技術とモノの分離」をはじめとする医療の将来に対する日本医師会と中医協の見解の相違となって現れ「保険医総辞退」という激しい事態を引き起こすまで発展した。
70年代は、経済の国際化・広域化が加速する中で、新しい価値観に立った新しい時代の到来を告げる大転換期であった。
この「激動の70年代」を認識したダイコーは、より高い卸機能の追及に向けて「量より質への転換」「モノから心の経営」を掲げ、その達成に向けて全力を投じたイノベーション活動を始動した。
◆「三つの挑戦」を提案
1972年(昭和47年)、業界の構造変化に対応するための具体的課題が二代 吉村益次ダイコー社長から提示された。「三つの挑戦」と題されたこの提案は、ヘルスインダストリーを掲げ健康産業へ幅広く前進するダイコーの将来像と、その基本方針を示すものであった。
『三つの挑戦』1、ヘルスインダストリーへの挑戦―健康と文化に奉仕する―①基幹はあくまで医薬品である②関連部門への多角化戦略の推進2、スケールアップ、レベルアップへの挑戦―卸機能とは、マンパワーなり―①経営力のスケールアップ②マンパワーのレベルアップ3、脱価格競争への挑戦―量より質の経営―①得意先とより強力な相互信頼感を②回収第一主義の徹底③マーケティング機能の充実④コンサルティング機能の拡充、組織化
◆ヘルスインダストリーへの挑戦方針に基づき多角化を推進
- 1956年(昭和31年)設立の大分医療器(有)を1972年(昭和47年)ヨシムラ医療器(株)へ商号変更、1979年(昭和54年)(株)メディカルヨシムラ(宮崎)を吸収合併、1980年(昭和55年)、(株)サン・メックに改称。
- 1967年(昭和42年)、吉村薬品と躍進会メンバーの共同出資で医療雑貨関連商品専門卸(株)ダイヤを設立。1971年(昭和46年)宮崎吉村の資本参加で宮崎営業所、1972年(昭和47年)ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の資本参加で鹿児島営業所、熊本営業所を開設した。1989年(平成元年)4社の薬専事業部とダイヤを統合して(株)創健を設立、1992年(平成4年)キョーエイ薬品のヘルスケア事業部と藤村薬品の薬粧事業部を譲受し、(株)アステムヘルスケアに改称。
- 1972年(昭和47年)吉村薬品と宮崎吉村の特殊品事業部を分離・統合しヨシムラ産業(株)を設立、1974年(昭和49年)ヨシムラ産業を(株)サン・ダイコーに改称、ヨシマツ薬品特品部を譲渡し、ヤナイ産業(株)を合併。
- 1979年(昭和54年)ダイコーと(株)コーヤク(小倉薬品から改称)の共同出資により(株)西日本特殊臨床検査センター設立、1992年(平成4年)ダイコーとコマックの臨床検査部門を譲渡するかたちで(株)リンテックを設立。
◆本土復帰沖縄より南陽薬品(株)が加盟
◆ダイコーによる具体的な取組み
- 新入社員合同合宿訓練開始 1970年(昭和45年3月)
- グループ社内報「創造」創刊 1970年(昭和45年5月)
- グループ連結決算開始 1973年(昭和48年)
- ダイコー電算機設置
- 「目標管理制度」「自主管理活動」の導入
- 「成果配分制度」発足 1977年(昭和52年)
- 新第一期長期5ヵ年経営計画策定 1977年(昭和52年):“理想の卸をめざしていかにあるべきか”との考え方を示唆
- 退職年金制度発足 1981年(昭和56年)
- 新中期3ヵ年計画策定 1982年(昭和57年):強固な経営基盤の確立を目指して、①各社のめざす方向及び課題 ②収益性 ③健全性 ④3年間の人員増の目標設定
- 1985年(昭和60年)ダイコー各社のTQC活動を「あすなろ運動」と命名
- グループCI「We Love DAICO運動」開始
- 赤と緑のダイコーカラー決定
- ロゴ、マークの制作
- 車両デザインの統一
- 統一デザイン「ネームプレート」の作成
- 月刊誌「We Love DAICO」発行
- 社用箋、原稿用紙の統一
- 女性の新制服作成統一
- 名刺、封筒デザイン統一
- ダイコーイメージソング「だからひとつだダイコーだ」(小林亜星作詞作曲)作成
- 業界初のマスコットキャラクター「ケン太くん」作成 等
- 1988年(昭和63年)ダイコー初のOEM商品「ダイコークレープ」(滅菌器)を発売。
- ワークイノベーション:各社実務の近代化、標準化を推進。伝票書式統一から始まり、ダイコー本社のホストコンピュータに集中していた各社業務の電算処理を各県単位に新設したサブホストコンピュータに移管し、各社単位に自由に実務の近代化に取り組む環境ができた。
- 創健設立プロジェクト:1988年(昭和63年)、ダイコーと医薬品4社とダイヤが参加し、グループを挙げて設立に向けて活動。同時にそれ迄のどの会社にもないユニークで革新的な実務体系を編み出した。
- 1989年(平成元年)、ダイコー設立20周年、(株)創健設立
- (株)ダイコー組織改革
※リストラが進み、経営環境が日毎にその様相を変化させるという時代の流れを背景に、ダイコーグループ支援体制の強化と機動力のアップを目指してダイコーの組織改正が行われ、統括本部の元に ・経営企画 ・人事 ・システム ・医専企画 ・試薬検査企画 ・学術 の6つのサポート機能をもつ体制となった。
- 「ダイコー20“革新祭”」開催(1989年(平成元年)11月)
- グループ報「創造」と「We Love DAICO運動」情報誌を一体化し「CAN-D」を創刊(1990年(平成2年)1月)
◆薬業界激変
◆4社合併、新生「株式会社ダイコー」誕生
「新・三つの挑戦」提示新生ダイコー誕生にあたり、21世紀に向けての新会社の長期戦略「新・三つの挑戦」が示された。1 新・地域密着卸への挑戦2 多次元生産性への挑戦(一次元=個人の生産性 二次元=組織の生産性 三次元=戦略の生産性 四次元=企業文化の生産性)3 更に深く「脱価格競争」への挑戦
◆中期5ヵ年経営計画策定
新・三つの挑戦をもとに1993年(平成5年)、これからの内外の変転を展望し、どうあるべきか、どうするべきか、夢やビジョンの熱い議論の末、21世紀への羅針盤、ダイコーグループ総合中期経営計画「大航海」(Grand Navigation)がまとめられた。
◆「九州はひとつ」へ
21世紀を目前に薬業界は更に変化を加速し、地方の卸同士の局地戦ではなく九州全体を舞台にした巨大な自販力をもつ大型卸同士の激突へと移行した。
1992年(平成4年)4社合併で設立したダイコーも1994年(平成6年)3社合併で設立したキョーエイ薬品も、誕生もつかの間次のステージを模索する必要に迫られていた。
メーカーも卸も「九州はひとつ」と考えるようになり、全国ネット時代への対応のため、より広範囲なスケールで経営を考えなければならなくなった。
◆ダイコーとキョーエイ薬品共通の本部機構(株)アステムを設立
・ | 1964年 | 昭和39年 | 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヨシマツ薬品、ヤナイ薬品で「ダイヤ会」発足 |
・ | 1967年 | 昭和42年 | 07月 各社間人事交流開始 |
・ | 1969年 | 昭和44年 | 10月 4社の本部会社(株)ダイコー設立 二代吉村益次社長就任 |
・ | 1969年 | 昭和44年 | 12月 ダイコー定例役員会開始 就業規則統一 |
・ | 1970年 | 昭和45年 | 03月 新入社員合同合宿訓練開始 |
・ | 1970年 | 昭和45年 | 03月 グループ報「創造」発刊 |
・ | 1970年 | 昭和45年 | 06月 合同部長研修開始 |
・ | 1970年 | 昭和45年 | 10月 ダイコー合同スポーツ大会開始 |
・ | 1970年 | 昭和45年 | 11月 新入社員フォローアップ研修開始 |
・ | 1971年 | 昭和46年 | 04月 営業初心者合同訓練開始 新任係長合同研修開始 |
・ | 1971年 | 昭和46年 | 10月 吉村薬品コンピューター導入 |
・ | 1972年 | 昭和47年 | 01月 ダイコー年度基本方針設定開始 |
・ | 1972年 | 昭和47年 | 04月 ヨシムラ産業(株)設立 |
・ | 1972年 | 昭和47年 | 06月 沖縄の光南薬品(株)ダイコーグループ加盟 |
・ | 1972年 | 昭和47年 | 07月 大分医療器(有)をヨシムラ医療器(株)に改組 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 03月 ダイコー財務諸表規則作成統一 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 04月 グループ連結決算開始 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 04月 ヤナイ産業(株)設立 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 04月 新身分職制統一実施 |
・ | 1973年 | 昭和48年 | 04月 ダイコー福祉共済制度実施 |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 04月 ヨシムラ産業を(株)サン・ダイコーに改称 |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 04月 ダイコーにコンピューター設置(吉村薬品より移管) 各社電算業務ダイコーにて委託 |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 05月 光南薬品、南陽薬品合併しコーヨー薬品(株)設立 |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 10月 サン・ダイコー、ヤナイ産業合併 |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 10月 上級職昇格試験開始 |
・ | 1975年 | 昭和50年 | 08月 ダイコー、コンピューターバロースB2700導入 |
・ | 1975年 | 昭和50年 | 12月 自主管理活動導入 |
・ | 1976年 | 昭和51年 | 01月 目標管理制度、自主管理活動導入 |
・ | 1977年 | 昭和52年 | 04月 成果配分制度発足 |
・ | 1978年 | 昭和53年 | 04月 新第一期長期5ヵ年計画 各社スタート |
・ | 1979年 | 昭和54年 | 02月 (株)西日本特殊臨床検査センター設立 |
・ | 1980年 | 昭和55年 | 04月 ヨシムラ医療器を(株)サン・メックに改称 |
・ | 1980年 | 昭和55年 | 04月 ダイコー栄誉賞制度発足 |
・ | 1981年 | 昭和56年 | 04月 退職年金制度発足 |
・ | 1982年 | 昭和57年 | 04月 新第二中期3ヵ年計画 各社スタート |
・ | 1985年 | 昭和60年 | ダイコー各社で繰り広げられていたTQC活動の名称を「あすなろ運動」と命名 |
・ | 1987年 | 昭和62年 | 07月 グループCI「We Love DAICO運動」開始 情報誌「WE Love DAICO」発行(〜平成元年22号まで) |
・ | 1988年 | 昭和63年 | ダイコー初のOEM商品「ダイコークレープ」(滅菌器)発売 |
・ | 1989年 | 平成元年 | 04月 (株)創健設立 |
・ | 1989年 | 平成元年 | 11月 「ダイコー20“革新祭”」開催 |
・ | 1990年 | 平成2年 | 01月 グループ報「創造」と「We Love DAICO運動」情報誌「WE Love DAICO」を一体化し「CAN-D」を創刊(〜平成10年25号) |
・ | 1992年 | 平成4年 | 04月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品が合併し(株)ダイコーを設立 |
・ | 1992年 | 平成4年 | 04月 本部会社㈱ダイコーは㈱ディー・ジー・エイチに改称 |
・ | 1992年 | 平成4年 | 05月 株)リンテック設立 |
・ | 1993年 | 平成5年 | 01月 中期5ヵ年経営計画「大航海」スタート |
・ | 1996年 | 平成8年 | 04月 ダイコーとキョーエイ薬品共通の本部機構(株)アステムを設立 |
二代吉村益次
任期:1964年(昭和39年)~1996年(平成8年)
|