一般公開
全文検索
お知らせ 各社の
歴史
経営者
たち
資料室 アーカ
イブス
薬業史   
NOW : 2024/03/29 16:13
[各社の歴史] コーヤク(株) 
「みらい創生史BOOK」用Fコード検索

設立:前身は小倉薬局1940年(昭和15年)北九州



歴史の概要


コーヤクの源流「小倉薬局」の設立。再建の中で吉村重喜が社長就任。

1940年(昭和15年)、吉村益次商店と大石忠次郎商店が共同で合名会社小倉薬局を設立。設立時の代表社員は浜田宗四郎。戦後の再建を吉村益次商店が引き継ぎ、小倉支店として再スタートした。1947年(昭和22年)(株)小倉薬局が設立され、革新的なリーダー吉村重喜が社長に就任。1953年(昭和28 年)、小倉薬品(株)に改称、全国の卸で初めて「薬品」を社名に採用した。 業界の理想を追い求め、斬新な発想で先進的な協同組合化を提唱、1959年、大石薬品他3社と共同で北九州医薬品卸協同組合を結成した。1971年(株)コーエーと合併し、コーエー小倉薬品(株)を設立。1978年コーヤク(株)に改称した。1994年に大石薬品(株)シンコー薬品(株)の2社と合併し、キョーエイ薬品(株)を設立した。

コーヤク本社屋&
https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_bc0ee505_E382B3E383BCE383A4E382AFE69CACE7A4BEE5B18B.jpg


小倉薬局創業者(共同経営)
初代大石忠次郎/初代 吉村益次
https://forestpedia.jp/data/file/photo/2578484036_9e4f4b02_E5B08FE58089E896ACE5B180E589B5E6A5ADE88085.jpg




米町の小倉薬局社屋
https://forestpedia.jp/data/file/photo/2114947506_b56a85d0_img009.jpg





コーヤクロゴ


詳細

心と汗と涙の人間道場「コーヤク」

小倉という九州の前線エリアでの厳しい生存競争を勝ち抜くため、自らの行動力と革命的性格を活かし東奔西走、先人達には無い斬新な発想で、先進的な協同組合化を提唱、実現し、コーヤクと共に九州北部を代表する一大ヘルスケアグループを作り上げた吉村重喜。まさに濃縮された人生を台風一過のごとく全力で駆け抜けた!


https://forestpedia.jp/data/file/photo/1980679355_af0e19be_F05_E59089E69D91E9878DE5969CE9878DE5969C.jpg

吉村重喜

◆男、吉村重喜の生い立ち(度はずれた腕白者とその兄)

吉村家(初代益次)の子供たちはみんな腕白であった。中でも重喜(五男)は兄弟の誰よりも腕白ぶりを発揮した。一つ年上の興一(四男、後の二代益次)にしても重喜とは殆ど同じ年齢だから、同じように腕白をしたかったが、兄が弟の面倒を見ることが鉄則であった吉村家に於いては、度はずれた腕白ものを弟に持った兄は監督役をせざるを得なかった。重喜が自由奔放にふるまい、二代益次がそれを保護するという二人の関係は、それ以後重喜が亡くなるまで続くことになる。
戦争が終わり、重喜が大分の吉村商店の営業マンとなると、人なつっこい笑顔が得意先の心をとらえ、持ち前のカンの良さと、人情の機微に触れる芝居っ気で以って、打ち込んで仕事をするといったところはないが売上成績を上げた。苦労してこそ商いの有難味はわかるもので、あまり努力しないで売れると、つい商売を軽く見るようになった。

益次は初めは重喜の商売上手を喜んでいたが、金の使い方を戒めることとした。興一と共に説いて聞かせようとしたが、酒の勢いもあって、売り言葉に買い言葉でプイッと家を飛び出してしまった。やがて居場所を母につきとめられ、母から平手打ちを喰らいしぶしぶ連れ戻された重喜は、涙で喉を詰まらせながら父に対してわびを入れたという。

◆小倉薬局の旗揚げ

1940年(昭和15年)、益次は大石忠次郎商店と共同経営で小倉薬局を発足させた。代表社員は大石の浜田宗四郎であり、大石系主力の会社であった。八幡製鉄、小倉造兵廠、門司鉄道局の三大手に対する販売権を譲り受けていたため、発足当時は好調であった。しかし1941年(昭和16年)の戦争開始とともに統制が強化されるにつれ、資材不足の深刻化と共に開店休業の状態となり、一方で空襲による被害が大きくなったため、浜田は郷里へ引き揚げた。

戦後になっても商売は一向に振るわず、営業権を吉村に譲渡したいということになり、1946年(昭和21年)9月、吉村から三重野支配人が長岡を連れて小倉へ赴任、吉村益次商店の小倉支店として新発足した。北九州市場の将来性を期待しての総勢8名でのスタートであった。三塚が六男の陸郎と共に転勤、続いて阿部春鳥が入社した。

◆「小倉を重喜につぶさせてもええか」

得意先で聞かされるのは、不始末に対する非難ばかりで、ケンもホロロで追い返される店さえあった。慢性的な品不足で、ヤミ商売をすれば儲かった時代であったが、益次の方針でヤミは厳禁とされていたため、公定価格を押し通した。合言葉は、「鶴原さんには及びもないがせめてなりたや高島さん」であった。1947年(昭和22年)3月、大分に本店を置く株式会社小倉薬局が設立された。将来重喜を社長として独立させる意図があっての会社設立だった。

重喜と三重野は反発しあった。悩んだ益次は、重喜に一切の権限と責任を与えることしか彼を一人前に出来ないという判断を下したが、それは小倉薬局をつぶす結果になるかもしれぬ賭けであった。実直な興一と違って芸術家肌の重喜に、小倉の店を賭けてみようと決心し、重喜を代表取締役社長とし、三重野をその下の支配人にした。お山の大将になれたことで重喜は文字通りハッスルした。1948年(昭和23年)は売上7千7百60万円と3倍以上の増収となった。

◆亡き父の霊前に誓う

1948年(昭和23年)2月12日、父益次が腸チフスのため急逝した。通夜の席で、腹の底からこみ上げる感情に喉がつまり、身をよじるようにして泣いた。「重喜、小倉の方は頼むぞ」と、同じ思いに堪えながら弟を励ます二代益次に、重喜は涙の目を光らせて言った、「おう、まかせとけ」。

 小倉薬局は、給料は安く、こき使われて時にはなぐられるので、ど根性のない者は殆ど辞めていった。重喜は、若い社員をいじめるためになぐるのではなく、悪いことをした時にだけなぐった。社員の心得違いについては容赦しなかったが、社員が失敗した時は咎め立てをしなかった。結果よりも本人の心がけの方を重視したからという。

◆国税局の査察と乱売

1950年(昭和25年)の春、小倉薬局が福岡国税局の査察を受けた。重喜は査察官に質問をされても殆ど答えることができない屈辱感と口惜しさで、猛然と経理の勉強を始め、短期間の間に殆ど無知であった経理に精通した。何と追徴税や延滞税を含めると1千万円を越えた。責任をとって頭を丸坊主にした重喜に、二代益次(父の死後、興一が襲名)は、「済んだことはしょうがない。半分の5百万円は大分で何とかする。後半分は小倉で作れ」と言った。

それから資金繰りとの闘いが始まり、利益を度外視して乱売したお陰で、売上は数十%も増加したが、二期連続の赤字決算となった。経営建て直しのため、二代益次は支配人の三重野を再派遣することにした。三重野は、赤字販売はもちろん、一定のマージン以下で商品を販売しないことを宣言した。この大手術のおかげで、小倉薬局は倒産をまぬがれ、1952年(昭和27年)5月半期で72万円の黒字を計上でき、その後完全に復調した。1953年(昭和28年)、社名を小倉薬品(株)に変更、全国の卸で始めて薬品という名前を使った。


https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_3c4eb279_1036916605_6bd2af55_F05_KKY_007.jpg









◆小倉と大分は良きライバル

1954年(昭和29年)の新年の挨拶で重喜は、「自分は来年30歳になる。来年中に本社の新築にかかって、小倉薬品の新しい出発にしたい」と、馬借に新社屋を建設する計画を発表した。板戸の開け閉めに悩まされるボロ家から、鉄骨コンクリートの3階建てのビルへ移転することを社員は何より喜んだ。その年、京都薬専を卒業した弟の慶元が入社した。

翌1955年(30年)の10月、玲子夫人と結婚、同じ年に馬借町に新社屋着工と、慶事が重なった年であった。1956年(昭和31年)5月に完成した鉄骨コンクリート3階建ての新本社は、機械化した物流倉庫と事務所をまとめた全国でも初めてのビルで、独創的な試みは薬業界の話題となった。

1958年(昭和33年)に貿易部門を発足させると共に、行橋出張所を開設した。1950年(25年)の田川出張所、1951年(26年)の下関支店開設以来7年ぶりの出張所開設であった。翌1959年(34年)に特殊薬品部を新設して、食品、動物薬品、農薬、肥料を扱うようになる。同じく小倉医療品株式会社を山口医療器の協力で設立する。小倉と大分、両者が競い合うような形で新しい企画を行ない、それを取り入れてきたことが、吉村グループの成長に拍車をかけた。

◆卸協同組合で業界革新を

企業理念が同じ者同志が結束して薬業界を革新していく必要性を唱えた重喜は、直方の松井薬局、福岡の高瀬薬局、若松の佐藤薬局そして大石薬品と共に5社で、1959年(昭和34年)11月、北九州医薬品卸協同組合を発足させた。
5社の人事、商品および会計の管理という各社の共通業務を福岡事務所に集約してゆき、5社はセールスチームに徹するという構想を重喜は抱いていた。

その趣旨と抱負は、(1)経営改革を考える、(2)経営の集団化ないしは協同作業、(3)物心両面の提携、(4)資本の交流提携による公開的経営結合、(5)過当競争の排除、と述べている。協組は、山口県の旭小倉薬品や熊本市の吉松一心堂(後のヨシマツ薬品)を加入させるため、県から厚生省管轄の組合に変更し、名称も九州医薬品共栄卸協同組合に改めた。

社員が二百名を突破した小倉薬品の馬借の社屋は、4年もたたないのに手狭となり、1960年(昭和35年)の暮れには、大手町の造兵廠跡の敷地と建物の払下げのメドがつき、1962年(37年)夏には改修を終わった大手町社屋に本社機能の一切を移転した。

◆コーエー小倉薬品の誕生

1960年(昭和35年)、重喜が防府の旭薬品の再建に協力し始めてから七年間で、山口県の卸旧七社(旭、浅田、磯部、河田、小倉、佐村、能美)の統合合併が終わり、1967年(昭和42年)、(株)コーエーが誕生した。この再編劇は、もともと山口県の薬剤部会からの依頼と経営者の要望に応じて始まったことであった。
その後、1971年(昭和46年)11月、資本金を1億円に増資したコーエーと、同じく2億円に増資した小倉薬品は合併して商号をコーエー小倉薬品に改め、資本金を3億円にした。

1962年(昭和37年)に大手町に移転して以後7年がたち、売上高は5倍になり、倉庫は満杯となった。荷物の運搬はバイクから軽トラックに変わっていく頃であったため、特に駐車場の確保に困っていた。かねてより武田薬品の物流センターと小倉薬品の新本社建設用地として折衝を行っていた曽根の7千坪の敷地に、重喜は新本社を建設したいと思った。計画については、1969年(44年)12月から副社長となっていた慶元に、予算総額4億円の枠を守ることを条件に一切を任せた。

慶元は欧州最大の卸であるシュルツを参考にして倉庫の設計をし、鉄骨地下1階地上3階の、延べ四千坪の壮大なプランを作った。1972年(昭和47年)8月、コーエー小倉薬品は、創立25周年と新社屋完成披露の祝典を挙行した。メーカー、卸、地元経済界、得意先など総勢800名が参加、健康フェアも開催された。玄関には益信(九男)の作品が記念建造物として設置された。


https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_434f7468_1036916605_eda58316_F05_KYK_23.jpg









◆心と汗と涙の人間道場に

1972年(47年)10月期、コーエー小倉薬品の売上は百億の大台を突破した。重喜は三ケ年計画を発表すると同時に、創立30周年を期して、西日本でモデル的な健康産業会社になるビジョンを示した。全社員の人生計画を尊重した仕組みで、「心と汗と涙の人間道場」にしたいと言った。

重喜は、下曽根に移ってからも早朝無休出勤を継続した。大手町時代は小文字の自宅から約4キロの道を、毎朝歩いたり走ったりして通っていたが、下曽根に移ってからは、小倉駅までの約3キロの道を歩き、五時発の列車に乗った。早朝誰もいない事務所で、朝礼や社員総会の演説、草稿を書くことが多かった。その机は大手町時代からの木製の半円に近い形のもので、事務所の中央にそれがでんと据えられていた有様は司令塔のようであった。

1973年(48年)、資本金を3億5千万円に増資し、広島店を開設した。同じく福岡西部店、6月には益田店、11月に長門店、翌年6月早田店(現東福岡)、筑豊店を開設、中国地方で10店、九州地区で本店以外に6店の店舗展開をした。重喜はその年の社員総会で、「コーヤク」という略称を発表した。

◆ナハ会、ニギリ飯思想

1973年(昭和48年)、重喜は徳山店・柳井店の従業員と合同懇親会を開いた。社長とはじめて会う若い社員や、めったに話すことができない社員たちは、社長と焼酎を酌み交わして語ることで感激した。自分は社員たちと親しく語り合うことがなかったと強く反省し、年1回は必ず全事業所を回って、一言でも言葉を交わそうと決心した。「ナハ会」と重喜が名づけた、社員を慰め励ます懇親会がこの時から始められることになる。

1975年(昭和50年)、「ニギリ飯思想」を書いた。ニギリ飯思想とは、世間の風潮に染まらず「正しく、強く、温かく」事業の心をまげずに貫きたい願望の表現なのである。ニギリ飯は、粗食粗衣で清貧に耐え、どん底生活でへっちゃら、予想される“食料、資源、エネルギー”パニックの中でも生き残り、さわやか人生の生きがいを象徴する。三角形(ピラミッド)は、底辺大きく、頭小さく、どっしりと安定型で、頭でっかちや、中間細くのグラグラ型ではない。ナハ会は、重喜亡き後も慶元に引き継がれ、コーヤクの経営者と社員を結ぶ絆づくりに大いに貢献した。

◆コーヤク30年と風雲児・重喜

1977年(昭和52年)5月、日本アビリティーズとコーヤク、それにリハビリに従事している医師数十人が出資してコーヤクアビリティーズ(株)が設立された。身障者による身障者のための会社、リハビリテーション機器を特色とする医療機器部門(後のコマック)の出発宣言である。
 同11月、コーヤク(1978年(53年)1月に社名変更)30周年記念式典が本社社屋で挙行された。医薬品業界の幹部、経済界、得意先、海外企業の関係者らが多数つめかけた。ガタピシ事務所と呼ばれた米町の事務所で汗と涙のスタートを切って30年、地元のみならず日本卸という中央業界でも風雲児として期待を集めるようになった彼にとって、その日は昇りつめた太陽の輝きのような一日であった。
 

◆業界発展を賭けた正念場

重喜の健康面がかげりを見せ始めるもこの頃からで、身体の調子がどこか本調子でないことを感じていた。重喜はおおよそ月の半分以上は会議のため東京か大阪に出張していた。「ナハ会」の回数を倍増し、千軒の得意先、千軒の仕入先を訪問しようとした。もちろん、年中無休の早朝10キロジョギング、早朝出勤は続けながら。
1981年(昭和56年)、重喜は次から次へと襲いかかってくる苦難に向かって、コーヤクだけでなく卸業界全体を引張って正念場を乗り越えねばと唇を噛むような思いでいた。時々痛む下腹部の鈍痛が気になったが、気力でもって自らの不安を打ち消していた。その年の2月15日、母幸が、重喜の病気には気づかぬまま逝去した。

◆五十六年間の苦闘

1981年(昭和56年)7月、今までとは違った激痛に襲われた。痛みは左下腹部だけでなくみぞおちを中心に全体に広がっていた。小倉に帰った重喜は、9月から入院することになったが、入院してからも東京へ出張し、会社へ出社した。
入院を固辞する重喜に対し、最終的に益次が説得にあたり、10月16日、産業医大に入院することとなった。12月に入り病状はさらに悪化した。

12月21日、重喜は早朝より発熱、呼吸困難に陥った。高熱の中で、聡子、公毅、慶元の名を呼んで探し続けながら、三回発作を繰り返した。四回目の発作で、吉村重喜は息を引き取った。 1925年(大正14年)3月8日、初代吉村益次の五男として生まれた吉村重喜は、「冬の夜空に突然鳴り響いた雷のように」壮烈な死を遂げた。「冬の曠野を稲妻のように走り去った」56年間の人生であった。「あなたはいったい何にぶっつけて五十六年間苦闘しつづけたのでしょうか」末妹の節子が弔辞で投げかけた問いは、重喜を知るほどの者のすべてに共通する問いであった。


◆開拓者の10章


開拓者の10章 

1.誇り 吾等は開拓者としての栄光を負うもの。高き衿持と自覚を失わない。 
2.斗志 吾等は全ゆる苦難と斗うのだ。雨にも雪にも嵐にも。 
3.誠実 開拓する者に邪魔はつきものだ。吾等は誠実一点張りでこれに対する。 
4.情熱 吾等は情熱を失わない。重荷を負って第一歩を踏み出したあの感激で。 
5.忍耐 マークしたら絶対に離すまい。忍耐こそ吾等を真の人間にするからだ。
6.研鑽 常に学習を怠らない。時代に遅れ知性に欠ける時は吾等は戦列よりの落伍者となる。 
7.健康 吾等は開拓者。頑健な体軀、健康な精神、常に明朗な一歩をキザム。 
8.理想 夢をもとう。血と汗と涙の征服だ。山頂には明るい虹の幸福が待つ。 
9.注意 八方に気を配れ。吾々の敵は何処にもいる。自らの心の中にも。 
10.団結 吾等は友情のザイルで結ぶ。堅いチームワークは如何なる障害をもはね返す。

◆重喜の志・夢を継ぎ、弟(八男)の慶元が社長に

重喜の名指揮により怒涛の成長を果したコーヤクだが、あまりに急成長した企業であったため、地域社会や業界からの評価としては「厳しい会社」と見られていた。重喜の後を引き継いだ慶元は、規模の追求のみには拘らず、地域や業界の発展につながる質的な向上をも求め、明るく開放的な社風を築き、社外からも好感度の高い会社づくりに注力していくこととした。また、医療を取り巻くあらゆる分野への進出を狙いに、「ヘルスインダストリーとしてのフルライン体制の確立」をめざし、社内の多角化、社外との協業化も積極的に推し進めていった。

慶元は、学生時代からラグビーに打ち込み、大学もその流れでと考えていたが、二代益次から「薬剤師になれ」との一言で京都薬専に入学し、入学後もラグビーを続けフォワードとして活躍、就職先として武田薬品工業から誘われていた。しかしながら、またもや二代益次から「小倉に帰って重喜を支えてくれ」の一言で、1954年(昭和29年)に小倉薬品に入社した。入社後は、開業医の担当から始まり、仕入・商品管理等を担当、中国地方の責任者等を歴任した。1960年(昭和35年)3月には同業の大黒南海堂の社長大黒清太郎の三女(啓子)と結婚、1971年(昭和46年)11月のコーエーと小倉薬品の合併時には専務に就任し、次第に経営の要職を担うこととなった。
  

◆共栄協組の共同事業化を積極推進

1981年(昭和56年)12月にコーヤクの社長に就任、共栄協組の理事長にも就任した慶元は、協業の成果を求めて協組の共同事業化を具体的に推進し始めた。
1982年(昭和57年)5月には、車両リース、車両整備や、得意先向けの共同配送、物品の共同購入や管理業務の内製化等のグループ共通の業務を請け負うため、協組各社の共同出資によりキョーエイサービス(株)を設立、グループ共通業務の一本化とともに業務の標準化・効率化・ローコスト化を具現化することに取り組んだ。

また1989年(平成1年)4月に、南のグループ4社の薬専事業を統合した(株)創健が業界に先駆けて設立されたこともあり、薬専事業広域化の流れが全国的に加速されていた。この年、設立30周年を迎えた協組は、組合員は6社、社員数1765名、年商1216億円の一大グループへと成長していた。そこで協組においても、薬専事業の一元化に取り組み、事業共同化の第二弾として、グループ薬専部門の仕入・物流・情報の一本化のための「薬専の情報・物流共同センター」を飯塚に建設、1990年(H2年)5月にキョーエイサービスの業務を継承したキョーエイ・システム(株)がこれら業務を担うこととなり、協組の結束力は更に強まっていった。

さらに1991年(平成3年)12月には、「協組グループの理念」を決定、(1)自らの経営を良くする、(2)協業により自らの向上を図る、(3)自らの発展とグループの繁栄を一致させる、という3つの理念にのっとり、各社社長による理事会を筆頭に、六つの委員会、十二の分科会が設置され、各社よりそれぞれの分野の代表者が参加し、活発な活動が始まった。

https://forestpedia.jp/data/file/photo/1036916605_647b94b0_1036916605_4b703265_F05_KYK_29.jpg









◆二つの中国にも注力

慶元はまた、二つの中国にも注力した。一つはコーヤクの中国地区における営業であり、山陽地方では広島県の最東端の福山まで、山陰地方では島根県の浜田(後に益田に統合)までに商圏は及び、山口・広島・島根の3県をカバーするまでに至った。進出当時はメーカーの支持もあまり得られなかったが、地道なオーソドックスな営業を継続して展開することにより、次第に業界における市民権を得るようになってきた。
 もう一方は海外事業としての中国であり、市や地元財界からの要請もあり、北九州市と中国・大連市との合弁商社「北大貿易」の設立に参加、その後の事業運営にも積極的に関与し、地場企業として地域密着を実践していった。

◆北の統合、キョーエイ薬品(株)の誕生

共栄協組は、正当な競争を前提に、共有できる部分は共有する相互扶助を目的とするため、グループ内でもシェア争いがあるし、メンバーとなるのは武田薬品主力の卸のみならず、三共系列卸がメンバーとなっている点が特徴でもあった。
1994年(平成6年)5月、協組加盟6社のうちの医専部門の3社、コーヤク、大石薬品、シンコー薬品の3社が、卸競合関係の変化やメーカー政策の転換といった環境変化や、協組内での市場の隣接や重複を勘案し合併を決意、九州南部の(株)ダイコーの誕生から2年遅れで、北部のキョーエイ薬品(株)が誕生した。

協組メンバーのうち、ヤクシンはメーカー系列の違いにより合併には加わらず、後に東邦薬品(株)と業務提携[2001年(平成13年)8月]を経て資本提携[2003年[平成15年2月]、その後、鶴原吉井(株)と合併[2007年(平成19年)4月]、商号を九州東邦(株)と変更し、森薬品(株)との合併[2009年(平成21年)10月]を経て今日に至っている。また、医療機器専門卸のコマックは、1998年(平成10年)4月の(株)アステムへ統合合併するまでの間は、独立企業として事業を継続した。

さらに藤村薬品は、市場の重複もなく、長崎市場の安定性や将来展望等から判断しこの時点で合併には加わらず、1998年(平成10年)4月に、南北統合で発足した(株)アステムヘルスケアに薬専部門の営業権を譲渡した。その後、医療用医薬品部門を中心に営業を展開してきた藤村薬品は、機が熟したと判断し合流を決断、2006年(平成18年)12月に再編後のアステムとの第一次資本提携を経て、2007年(平成19年)6月にフォレストグループに正式に加入することとなった。

◆九州は一つ、南北連携の必要性

時代の変化とともに、メーカーも競合卸も「九州は一つ」を認識し始め、卸の適正規模が従前の九州南・ダイコー、九州北・キョーエイ薬品という時代から更にもう一歩スケールアップする可能性が出始めてきた。そこで、これから大手卸同士による本当の競争が始まると判断した南の二代益次と北の慶元は、近い将来、「九州はひとつ」という前提で、南北両社による共同戦線を敷く必要性を感じ始めていた。やがてそれは「九州は一つ(南北連携)!」実現のための(株)アステム(共同本部会社)の設立として実を結ぶことになる。





沿革

1940年 昭和15年 小倉薬局発足
1947年 昭和22年 ㈱小倉薬局設立
1950年 昭和25年 田川出張所開設
1951年 昭和26年 下関支店開設
1953年 昭和28年 小倉薬品㈱に改称
1956年 昭和31年 社屋新築移転(馬借町)
1958年 昭和33年 行橋出張所開設
1959年 昭和34年 北九州医薬品卸協同組合を発足
1959年 昭和34年 特殊薬品部を新設
1959年 昭和34年 小倉医療品㈱を山口医療器の協力で設立
1962年 昭和37年 本社屋を移転(大手町)
1971年 昭和46年 コーエーと小倉薬品が合併し㈱コーエー小倉薬品を設立
1972年 昭和47年 本社屋新築移転(下曽根)
1973年 昭和48年 広島店、福岡西部店、益田店、長門店を開設
1974年 昭和49年 早田店(現東福岡)、筑豊店を開設
1977年 昭和52年 コーヤクアビリティーズ(株)を設立
1978年 昭和53年 コーヤク(株)に改称
1978年 昭和53年 05月 北九州薬品(株)を合併
1978年 昭和53年 09月 西日本特殊臨床検査センター設立(ダイコーG.と共同出資)
1979年 昭和54年 09月 南福岡営業所を開設
1980年 昭和55年 04月 コーヤク福岡検査サービス(株)を設立
1981年 昭和56年 01月 小郡店を開設
1981年 昭和56年 12月 吉村重喜 逝去。 吉村慶元 社長就任
1982年 昭和57年 04月 若狭薬品(株)北九州支店の営業権譲受
1982年 昭和57年 11月 キョーエイ・サービス(株)を設立
1982年 昭和57年 12月 呉営業所を開設(呉市焼山町)
1983年 昭和58年 05月 浜田営業所(浜田市下府町326)を開設
1983年 昭和58年 08月 八幡支社(現、八幡支店)を新設
1984年 昭和59年 07月 福山店を開設
1987年 昭和62年 フジタトレーディング(株)設立、50%出資。(藤田通商(株)とコーヤク貿易部門の合体)
1987年 昭和62年 09月 呉店を新設
1987年 昭和62年 12月 KOYAKU.U.S.A.,INC.設立
1990年 平成2年 11月 情報・物流共同センター竣工
1990年 平成2年 12月 (株)メディクリーン設立
1991年 平成3年 05月 コーヤクG.福岡地区本部(現、福岡営業部)竣工
1991年 平成3年 11月 開発部門の営業権を(株)サン・ダイコーへ譲渡
1993年 平成5年 10月 コーヤク、大石薬品、シンコー薬品との合併契約書承認
1994年 平成6年 11月 (株)ヤクシンのヘルスケア部門を譲受
1994年 平成6年 合併でキョーエイ薬品(株)設立
1995年 平成7年 08月 南北協業プロジェクト「コンパス」発進
1997年 平成9年 09月 ヘルスケア部門を㈱創健に営業譲渡契約書承認
1998年 平成10年 01月 アステムの森を新設
1998年 平成10年 04月 キョーエイ薬品、ダイコー、コマック、サン・メックが合併し㈱アステムを設立



歴代経営者

吉村重喜
吉村重喜
任期:1947年 (昭和22年) ~ 1981年 (昭和56年)
コーヤク(株)(コーエー小倉薬品、小倉薬品㈱、㈱小倉薬局)
吉村慶元
任期:1981年(昭和56年)~1994年(平成6年)
コーヤク(株) コマック(株)



著作や参考文献




セレクト画像・映像


コーヤク(株)のディスカッション