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[各社の歴史] 南陽薬品(株) 
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創業:南陽医科器械薬品(株) 1907年(明治40年)沖縄



歴史の概要

前身は南陽医科器械薬品(株)。創業者は医師の金城清松。

(株)ダイコー沖縄の源流企業のひとつ。前身は1907年(明治40年)に設立された南陽医科器械薬品(株)。創業社長は医師の金城清松。しかし1940年(昭和15年)、第二次世界大戦・日中戦争による統制令により会社は一旦、解散した。その後、沖縄県医薬品衛生材料配給統制(株)が設立され、社長には金城保吉が就任する。終戦後、米軍統治下の沖縄では、米軍及び官営のため個人企業は許可されなかったが、1951年(昭和26年)ようやく民間企業設立が許可されると、金城清松を社長として、南陽薬品(株)が復活設立した。1974年、光南薬品と合併後、コーヨー薬品から ダイコー沖縄へ。


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南陽薬品店舗



南陽薬品(株)
南陽薬品(株)


詳細

沖縄の「タケダ」勃興の立役者。復活設立後、ダイコー沖縄の源流企業のひとつとなる。


創業後、局所麻酔薬原料の栽培を行うが、日中戦争で解散。

(株)光南薬品と並び(株)ダイコー沖縄の源流企業のひとつであり、1907年(明治40年)に設立された南陽医科器械薬品(株)が南陽薬品(株)の前身。創業社長は金城清松(医師)。 
南陽薬品(株)は、主として武田薬品系の商品を販売(武田系商品の社内シェアは9割)。戦前より委託販売を担い、沖縄における「タケダ」勃興の立役者であった。ちなみに我部祖河(名護市)にあった武田薬草園の開設・運営については南陽薬品(株)の功績が大きいとされている。総面積50ヘクタール。主として局所麻酔薬の原料コカ樹の栽培を行なっていた。園内には18万本のコカ樹が生い茂り、終戦後米軍に接収されるまで16年の間栽培は続いた。

昭和10年頃には沖縄には医療用医薬品の卸売業者が3社あった。南陽薬品(株)(金城保吉社長)、沖縄薬品株式会社(宮城普喜社長)、那覇新薬(株)(尾花仲次社長)の3社であり、他の卸は一般用医薬品を主に扱っていた。
1940年(昭和15年)、第二次世界大戦へ続く日戦争による統制令のため、実質会社は解散。その後、沖縄県医薬品衛生材料配給統制(株)が設立された。社長は南陽薬品社長をしていた金城保吉であった。

米軍統治下の民間企業設立不許可期に耐え、1951年(昭和26年)、念願の復活設立を果たす。

統制時代の医薬品の流通経路は、厚生省から割り当て配給量で那覇市の配給統制会社に送付され、沖縄県内政部衛生課薬事係の立会いのもと医師会、歯科医師会、薬剤師会、配給統制会社、小売組合へそれぞれの数量を割り当てられた。 
終戦後、米軍統治下にあった沖縄は米軍及び官営のため約5年間にわたり個人企業は許可されなかった。 
1951年(昭和26年)になって民間企業が許可されるようになると、米軍の「サプライズ」と言われていた物資供給部門のなかで、医薬品部に勤めていた人が独立して医薬品卸会社を起こした。そのなかの一人である金城清松が再び社長となり、南陽薬品(株)を復活設立させた。

医薬品を輸入品として販売。

『琉球列島における外国為替と貿易手続』により、民間業者が自ら信用状を開設して民間貿易が始まった。貿易の主たる相手は「日本」。米軍統治のもと、本来は同じ国であるにもかかわらず「内地」と「沖縄」の間に「貿易」上の手続きがなければ「商品」の流通もできないという時代であった。医薬品業界が取り扱う薬品の取引においても事前に税関で商品登録を済ませていないと未登録品として沖縄への「輸入」は許されなかった。「輸入」品の支払については銀行が取引先の輸入商に自己の信用を提供して、一定の条件のもとに輸出商の振り出した手形に引受支払を保証することで「貿易」が成り立った。1972年(昭和47年)沖縄本土復帰まで、南陽薬品の武田系の商品、光南薬品の田辺・萬有・第一等の商品は「日本」からの「輸入品」として沖縄全土に出廻ったのである。
1974年(昭和49年)、既にダイコーグループに加盟していた同じ沖縄の光南薬品と合併しコーヨー薬品(株)となり、その後、(株)ダイコー沖縄へと改称した。



沿革

1907年 明治39年 南陽医科器機薬品(株)設立 社長 金城清松
1940年 昭和15年 「沖縄医薬品衛生材料配給統制(株)」が設立され南陽薬品の金城保吉社長が代表取締役に就任
1945年 昭和20年 終戦で「沖縄県医薬品衛生材料配給統制(株)」は消滅。医薬品等の管理は琉球列島米軍政府管轄となった。
1951年 昭和26年 民間会社の自由開業が認められ国際通りに南陽薬品(株)を設立 金城清松 社長就任
1955年 昭和30年 大城剛 社長就任
1961年 昭和36年 千原成悟 社長就任
1965年 昭和40年 宮平善雄 社長就任
1965年 昭和40年 那覇市下泉町2丁目6番地新社屋建設
1974年 昭和49年 05月 光南薬品(株)と南陽薬品が合併、コーヨー薬品(株)設立 社長 宮平善雄 就任



歴代経営者

金城清松
任期:1951年(昭和26年)~1955年(昭和30年)
大城 剛
任期:1955年(昭和30年)~1961年(昭和36年)
千原成悟
任期:1961年(昭和36年)~1965年(昭和40年)
宮平善雄
任期:1965年(昭和40年)~1974年(昭和49年)



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南陽薬品(株)のディスカッション

2:
2014/05/09 森田移設
明治40年に設立された南陽医療器機薬品(株)が南陽薬品(株)の前身。創業社長は金城清松(医師)。
南陽薬品(株)は、主として武田薬品系の商品を販売(武田系商品の社内シェアは9割)。戦前より委託販売を担い、沖縄における「タケダ」勃興の立役者であった。ちなみに我部祖河(名護市)にあった武田薬草園の開設・運営については南陽薬品(株)の功績が大きい。総面積50ヘクタール。主として局所麻酔薬「塩酸コカイン」の原料コカ樹の栽培を行なっていた。園内には18万本のコカ樹が生い茂り、終戦後米軍に接収されるまで16年の間栽培は続いた。

昭和10年頃には医師向医薬品の卸売業者が3社あった。南陽薬品(株)(金城保吉社長)、沖縄薬品株式会社(宮城普喜社長)、那覇新薬(株)(尾花仲次社長)の3社であり、他の卸は家庭薬を主に扱っていた。
昭和15年、日支戦争による統制令により実質会社は解散、沖縄県医薬品衛生材料配給統制(株)が設立された。社長は南陽薬品で社長をしていた金城保吉であった。

統制時代の医薬品の流通経路は、厚生省から割り当て配給量で那覇市の配給統制会社に送付され、沖縄県内政部衛生課薬事係の立会いのもと医師会、歯科医師会、薬剤師会、配給統制会社、小売組合へそれぞれの数量を割り当てられた。
終戦後、米軍統治下にあった沖縄は米軍及び官営のため約5年間にわたり個人企業は許可されなかった。
昭和26年になって民間企業が許可されるようになると米軍の「サプライズ」と言われていた物資供給部門のなかで医薬品部に勤めていた人が独立して医薬品卸会社を起こした。そのなかの一人である金城清松が社長となり南陽薬品(株)を復活設立させた。

『琉球列島における外国為替と貿易手続』により民間業者が自ら信用状を開設して民間貿易が始まった。貿易の主たる相手は「日本」。米軍統治のもと、本来は同じ国であるにもかかわらず「内地」と「沖縄」の間に「貿易」上の手続きがなければ「商品」の流通もないという時代であった。医薬品業界が取り扱う薬品の取引においても事前に税関で商品登録を済ませていないと未登録品として沖縄への「輸入」を許されなかった。「輸入」品の支払については銀行が取引先の輸入商に自己の信用を提供して、一定の条件のもとに輸出商の振り出した手形に引受支払を保証するとことで「貿易」が成り立った。南陽薬品の武田系の商品、光南薬品の田辺・萬有・第一等の商品は「日本」からの「輸入品」として沖縄全土に出廻ったのである。
 
◆志手編集
Posted By 管理者 at 14-05-09 16:35
1:
2014/05/09 森田移設
南陽薬品(株)は主として武田薬品系の商品を販売(武田系商品の社内シェアは9割)。戦前より委託販売を担い、沖縄における「タケダ」勃興の立役者であった。ちなみに我部祖河(名護市)にあった武田薬草園の開設・運営については南陽薬品(株)の功績が大きい。創業社長は金城清松(医師)。 昭和15年、日支戦争による統制令により実質会社は解散、沖縄県医薬品衛生材料配給統制(株)が設立された。社長は南陽薬品で社長をしていた金城保吉であった。 終戦後、米軍統治下にあった沖縄は米軍及び官営のため個人企業は許可されなかった。 昭和26年になって民間企業が許可されるようになり、金城清松が社長となり南陽薬品(株)を復活設立させた。
Posted By 管理者 at 14-05-09 16:35