創業:九州エムイーエス1973年(昭和48年)が前身
歴史の概要
人工臓器専門商社として九州エムイーエスを藤原正記が個人で創業
1973年(昭和48年)、人工臓器専門商社として九州エムイーエスを藤原正記が個人で創業、翌1974年(昭和49年)に法人化。
1979年(昭和54年)(株)バイオメディカル九州、(株)長崎医療器と合併し、(株)ユニファが誕生。技術スタッフが透析機器のメンテナンスをしながら担当医師や職員と信頼関係を築くという独自の営業スタイルで九州一円へと商圏を拡大していった。事業の多角化としてSPD(Supply Processing & Distribution)システムや現在国内で普及している薬袋印字システムなどを開発した。その後、人工臓器部門に特化し、1993年(平成5年)キョーエイ薬品グループに加盟。
2013年(平成25年)に(株)アステムと合併した。 ユニファ本社屋 |
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詳細
体外循環医療を支えた続けた「ユニークファースト」スピリッツ。
◆ユニファの前身「人工臓器専門商社 九州エムイーエス」の創業
医療機器業界の将来性に目をつけた藤原は(株)東機貿に入社。入社から3年後、30歳を迎えた1973年(昭和48年)に独立し、透析機器の販売とメンテナンスを行なう九州エムイーエスを個人で創業した。◆社名に込められた、ユニファの独自性の原点
社名の九州エムイーエスは「メディカル・エンジニアリング・サービス」の略。サービスのSには、医療器械屋としてサービス=修理を中心とした会社にしたいという藤原自身の強い願いが込められていた。翌、1974年(昭和49年)に法人化し、(株)九州エムイーエスとなり、「透析機械のメンテナンスを行なう会社だから、技術に精通した人間が営業をするのが一番良い」を原点に、腎臓に関する医療サービスと情報提供を本格的に開始した。
◆株式会社ユニファ誕生 ~バイオメディカル九州、長崎医療器との3社合併~
1979年(昭和54年)、(株)バイオメディカル九州と(株)長崎医療器と合併し、(株)ユニファが誕生、販売網は九州一円に拡大した。新社名の「株式会社ユニファ」とは、「ユニーク」「ファースト」というキーワードをもとに「ユニークなことを何処よりもファーストにやろう」という意味を込めた。
◆20億円からのスタート、多角化へ乗り出す
売上は約20億円(設立時)からのスタートだった。1981年(昭和56年)には本社を福岡市東区の多の津へ移転。
1981年(昭和56年)には人工腎臓に加え「その他の体外循環機器」の市場に参入。CAPD療法の治験開始により、独自の「医薬品宅配システム」を構築した。その後、1985年(昭和60年)には病院新築に必要な医療機器の設備設計・納入をする病院設備機器部門の市場に参入。
1986年(昭和61年)には電子応用機器の開発製造部門開設。東京大学との散薬分包機の共同開発から生まれた、現在の印字された薬袋の原型ともなる日本初の技術、薬袋印字システムを開発した。
1990年(平成2年)には、お得意先からの「院内の医薬品を全て院外に出し、必要な時に必要な分だけ持ってきて欲しい。」という要請に応えたSPDシステム事業に着手した。当時、アメリカの一部で行なわれていた「SPD( Supply Processing & Distribution )事業」を研究し、SPDシステムソフト開発に多額の費用を投入して、日医大 永山病院、東邦医大、大橋病院などへSPDシステムを導入した。現在の日本にある多くのSPD事業の原点はこのユニファのSPDシステムと言っても過言ではない。
◆多角化がもたらした経営難
事業の多角化が進むに連れ、資金繰りに苦慮するようになった。その当時の九州での透析シェアは37%もあったが、多角化により収益基盤が低下し、資金繰りが厳しくなり、1993年(平成5年)にキョーエイグループに加わることになった。
2002年(平成14年)には鳥栖物流センター(USLセンター)を稼動し、コールセンターも開設した。
その後、2003年(平成15年)の佐世保出張所開設をはじめ、日向出張所、鹿屋出張所、広島営業所を相次いで開設し、エリア展開を進めていった。そして2013年(平成25年)(株)アステムと合併した。
沿革
・ | 1973年 | 昭和48年 | 03月 人工臓器専門商社九州工ムイーエスとして創業 |
・ | 1974年 | 昭和49年 | 03月 法人に改組。株式会社九州エムイーエスとなり「腎臓に関する医療」に対しサービスと情報提供を本絡的に開始 |
・ | 1979年 | 昭和54年 | 03月 株式会社バイオメディカル九州及び、株式会社長崎医療器と合併、商号を「株式会社ユニファ」と変更、販売網を九州一円に拡大 |
・ | 1981年 | 昭和56年 | 04月 人工腎臓に加え、Iその他の体外循環器」の市場に参入。CAPD療法の治験開始により「医薬品宅配システムJを構築し、九州一円の更正医療の確立に寄与。 |
・ | 1984年 | 昭和59年 | 11月 本社を「福岡市東区多の津2-3-4」に移転 |
・ | 1985年 | 昭和60年 | 03月 病院設備器部門に参入、総合企画から機器販売とコンサル卜業務までを取扱い開始 |
・ | 1986年 | 昭和61年 | 02月 電子応用機器の開発製造部門開設、薬袋印字システムを開発 |
・ | 1989年 | 平成元年 | 03月 医薬品物流センターを東区松島に設置 |
・ | 1990年 | 平成2年 | 03月 SPDシステム事業に着手 |
・ | 1992年 | 平成4年 | 03月 有限会社福岡中央企画を合併 |
・ | 1993年 | 平成5年 | 01月 キョーエイ薬品株式会社グループの一員となる |
・ | 2002年 | 平成14年 | 鳥栖物流センター(USLセンター)竣工 |
・ | 2002年 | 平成14年 | 佐世保出張所開設 |
・ | 2010年 | 平成22年 | 日向出張所開設 |
・ | 2010年 | 平成22年 | 鹿屋出張所開設 |
・ | 2012年 | 平成24年 | 広島営業所開設 |
・ | 2013年 | 平成25年 | アステムと合併 |
歴代経営者
藤原正紀
任期:1973年(昭和48年)~2007年(平成19年)
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山内孝美
任期:2007年(平成19年)~2010年(平成22年)
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宮崎忠憲
任期:2010年(平成22年)〜2013年(平成25年)
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エピソード録
◆創業者 藤原 正記社長インタビューより
【時代背景】
昭和48年10月のオイルショックにより、それまでの高度経済成長に終焉をむかえる。 インフレ化が進み、病院建設資材が高騰するため受注した建設会社がバタバタと倒産するなど、日本経済は未曾有の大型不況に突入した。
【九州エムイーエス創業】
学生時代から起業したいという志を抱き、若い頃は試行錯誤しながら様々な業種に身を置く。 そうした中で医療機械業界が自身の性格にも合ってると感じたため医療機器関連会社に入社。 入社から3年が過ぎ、30歳を迎えた昭和48年に独立、透析機器の販売とメンテナンス会社として スタートした。
【社名の由来】
九州エムイーエスとは、メディカル・エンジニアリング・サービスの略。
サービスのSは、医療機械屋としてサービス=修理を中心とした会社にしたいと命名した。
【経緯】
・昭和48年
薬院で創業(個人会社時代の1年間)
・昭和49年
荒戸(西公園の近く)に移り、法人化
支店展開:最初に宮崎営業所開設、続いて北九州営業所を開設。
透析室の増加に伴い、営業所を各地に開設していく。
・昭和51年
大手門に3階建て新築建売ビルを購入、荒戸から移る
(1階 倉庫、2階 事務所、3階 会議室) ※メンテ関係、機械も3階
この大手門の本社ビルには10年近くいたが、業務の拡大により倉庫 スペースが手狭になり、本社移転を決断した。
・昭和54年
(株)バイオメディカル九州、(株)長崎医療器と合併。商号を(株)ユニファに 変更。販売網を九州一円に拡大した。
・昭和59年
多の津に新本社新築移転。 大勢の社員が当時、大手門周辺(小笹にも社員寮があった)に居住して おり、社員からの不満も予想できたが2~3年住めば必ず慣れてくれると 信じ、移転を決行した。
・平成5年
コーヤクグループの一員となる。この年の夏、鹿児島甲突川(こうつきがわ)の水害によって、鹿児島営業所は 机の2段目くらいまで泥水に浸かり、隣人が流されて亡くなるなどした。 この営業所の建屋の上には大きな岩もあり、落下したら社員の命の保証が できないとして取締役会に報告、吉村慶元社長からの移転の指示を受け、 営業所は吉野に一時期仮住まい(事務所)していたが、水害にあった営業所 が収容にかかり移転費用や営業補償がでることとなった。 その後、鹿児島市宇宿(うすき)へ移転。
【創業時の業績】
拡大再生産の時代で、業績の伸長に応じて社員を増員し続けた。
24時間体制の忙しい状態が10年ほど続くが、得意先からの回収が遅れ資金繰りに頭を痛めた。 昭和48~49年頃の透析治療は、現在のように身体障がい者(1級)扱いでなかったが、患者負担による高額治療にもかかわらず患者さんは大勢いた。 当時ダイアライザー(コイル型を主として取り扱う)の患者さんの負担額1本21,500円(血液回路込み)/ 内訳:当社仕入14,500円、病院には18,000円で販売していた。 この時代、ハイエースにダイアライザーを満載し日帰りで九州中を走り回って販売すれば、半月分から 1ヵ月分の給料が稼げていた。2年ごとの価格改定により、現在ではダイアライザーの価格は900円~1,000円程。
【従業員数の変遷】
昭和48年創業時は、5~6名。翌、昭和49年には、10名を超えていた。
前職時代に採用した従業員が独立した藤原社長を慕って、九州エムイーエスに入社したいと押しかけた。 その社員たちを食わせないといけないという思いが当時強かった。 昭和54年のユニファ設立時は、22名。
【株式会社ユニファ誕生~バイオメディカル九州、長崎医療器との3社合併~】
薬価改定による消耗品の価格は下落を続けるなか、自分たちのエリアだけの売り上げでは経営が厳しくなってきた。そこで、バイオメディカル九州と長崎医療器との3社合併を決断した。 バイオメディカル九州と長崎医療器、双方から役員を受け入れ、藤原社長が代表取締役社長に就任。 株式会社ユニファの誕生である。
この3社合併により、福岡・熊本・鹿児島に強いバイオメディカル九州と
長崎医療器のエリアが加わり、販売網は九州一円に拡大した。 ユニファ設立時の売り上げは20億円。
【新社名決定の経緯】
3社合併後、新たな社名を決めるべく社内公募を実施する。新社名には「医療器」「薬品」を外した社名にしたいという藤原社長の要望に応えるべく、各エリアの責任者と役員は応募された候補を絞り込んでいく。 候補には「ユニーク」「ファースト」というキーワードが多数含まれており、「ユニークなことを何処よりもファーストにやろう」ということで、2つのキーワードを組み合わせて造語することを藤原社長が提案。 最終的に「ユニファー」「ユニファ」のどちらを社名にするかで話し合い「ユニファ」に決定する。 併せて、ロゴマークもデザイナーに発注し、制作した。
当時、ユニファという社名は斬新であったため当初は化粧品会社と混同されるなど苦労もあったが、藤原社長は新社名に自信を持っていた。
以来、プロの技術集団として、常に業界の先駆けを歩んでいく。
◆山本営業本部長インタビューより
※在職期間:昭和51年~平成17年
【昭和51年9月入社(創業3年目) 】
入社前は火力発電所や原子力発電所のプラント建設をしていたが、技術者として2~3年単位で現場を移る生活。結婚し子供ができ、そうした生活が厳しくなったため同級生の藤原社長が経営する(株)九州エムイーエスに入社する。以来、ずっと技術畑を歩む。技術部長であった山本氏を営業本部長にする際、藤原社長に違和感はなかった。それは(ユニファとなってからも)九州エムイーエスの発想「サービスのS、機械のメンテナンスを行なう会社なのだから営業マンはいらない。 技術に精通した人間が営業をするのが一番良い」が原点にあったからである。 そのため、山本営業本部長はお得意先を訪問した際も透析室に直行、一通り機械の様子をみてから職員さんに院長先生を呼んでもらうスタイルで、他卸のように廊下で先生を待つ必要はなかった。 それほど、機械屋とお得意先の信頼関係は強かった。
365日24時間体制、当時は携帯などもないため多の津の物流センターには当直室を作り、ユニファ本社社員は1日おきの当番制で当直を行なっていた。藤原社長がちょうど電話番として当直(技術関係は山本技術部長)をしていた時に一度、お得意先から夜中に機械が動かないと呼び出されたことも。
また、盆正月もなく元日からお得意先に対応していた。
【藤原社長の社員指導】
「営業をするな! その暇があるなら技術を学びなさい!」。
新入社員は、多の津本社の1階技術ルームで毎日遅くまで機械をバラしたり組み立てたりしながら技術を磨いた。変に営業をかじって(名刺を持って)お得意先を訪問するよりメンテナンスの方が入りやすい。 お得意先の職員さんからも頼りにされ、すぐに名前を覚えていただける。技術力の下支えによって2時間も廊下に待たされることもない。廊下で待たされたなどという話を聞くのが一番嫌で変えたかった。
当時の入社希望者のなかには所謂落ちこぼれと呼べるような人間も多かった(海外で弁当屋さんをやりたいなど個性的な社員)が、そんな社員が他社の優秀な人たちに立ち向かうためには、どうすればいいのか? そのことばかり考えていた。結果、他社の営業マンが持っていないモノ=技術力をお得意先へお届けすることに徹した。あえて荒くれ者を採用した時期もあったが、そうした社員がしっかりと技術を身につけ、やがて優秀な社員として活躍していった。
会社というのは、ある程度の規模をカタチ作ってからは社会的信用も大切になるが、自然発生的に大きくなっていく過程というのは、そういったものかもしれないと当時を振り返られた。
【地獄の特訓! 鬼の管理者養成学校(社外研修)】
社員に文句を言われず研修に参加してもらうために、まず自分からと藤原社長は7日間の上級コースを山本営業本部長は13日間コースにそれぞれ最初に参加(山本営業本部長はその後、上級コースも受講)。 富士山の麓で心身ともに厳しい缶詰研修だったが、電話もない、テレビ・ラジオもないという環境は2人にとってはまさに天国だった。この外部研修には幹部社員(営業所所長・管理者)は全員参加した。 その後、独自にカリキュラムをアレンジし、ユニファ新入社員研修として続けていく。
【ユニファ新入社員研修(7日間)】
緊急連絡用の30円と地図を持たされ、力丸ダムを半周してから篠栗方面に抜け、川づたいに本社へ戻る… 。 名物25キロ行軍に始まり、挨拶の効用、時間厳守、声出しスピーチなど新入社員たちの学生気分を抜き、本人の特性を引き出す研修を7日間缶詰で行なった。ユニファの新入社員は、グループ合同研修の後に、この研修を受講していた。
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