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[各社の歴史] ヨシマツ薬品(株) 
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創業:吉松一心堂 1923年(大正12年)熊本



歴史の概要


創業者は吉松藤三郎。「吉松一心堂」は  ヨシマツ薬品の源流。

1923年(大正12年)、熊本市の細工町で吉松一心堂を創業。創業者の吉松藤三郎は15歳で梁井薬店熊本支店に奉公し、後の梁井一心堂(ヤナイ薬品)創業者の梁井益蔵と共に働き、その後独立。1949年に吉松一心堂(株)を設立。汽車の時刻表付きの大時計を店頭に掲げた店は熊本で有名になり「時計は正確、店は正直」の吉松として業績を伸ばしていった。戦中戦後を通じて、そのキャッチフレーズに恥じない良心的な商いを守り続けた。1963年から1971年まで共栄協組に加盟したが、業界背景と九州南ブロックのグループ体制の整備に伴い退会。市場環境が激変期をむかえる中、1964年ヨシマツ薬品(株)に改称。1964年、南ブロックの4社でダイヤ会を設立。同4社が1992年に合併設立した(株)ダイコーを経て1998年、(株)アステムとなった。


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写真:当時の吉松一心堂社屋



ヨシマツ薬品(株)社旗


詳細

◆創業者 吉松藤三郎

吉村一心堂の創業者は吉松藤三郎である。吉松家は天領基山の士分の出で、維新後は素麺業を生業としていた。1882年(明治15年)父豊助、母イエの三男として三養基郡基山村で生を受けた。小学校を卒業後、しばらく家業を手伝っていたが、当時の世の風潮は日清戦争の戦勝景気で世は好況。じっとしておれず何とか将来の道をと考え、伝手(つて)もあって当時九州一の薬種問屋であった梁井薬店基山本店(鹿児鳥のヤナイ薬品とは直接関係はない)に入社した。藤三郎15歳のときであった。

厳格なしつけで知られた梁井薬店基山本店で、多くの丁稚仲間にもまれ、厳しい番頭の指導を受けて力をつけていった。熊本市の中唐人町の借家でスタートした梁井薬店熊本支店は、翌1905年(明治38年)米屋町の岡崎酒店の家を買い取り梁井薬店熊本支店の大看板を掲げ、藤三郎はこの店に勤めることになった。この支店には後に鹿児島で梁井一心堂(ヤナイ薬品)を創業した梁井益蔵も勤務、当時、熊本薬学校に通学の傍ら店務にたずさわっていた。

店の構えもよく、薬品が店頭に山積みされ業績もめきめき伸びていった。そのなか藤三郎の働きも目覚しく、城南の宇土、小川、松橋、八代、天草、城北では植木、来民、山鹿、玉名と市場を拡大し、「梁井の吉松藤三郎」といえば熊本の業界では知らぬ者はないほどになり、1918年(大正7年)には支店長に抜擢されている。


◆「時計は正確、店は正直」。吉松一心堂の創業期。

1923年(大正12年)藤三郎は「吉松一心堂」を創業した。店は熊本一の物資の集散地、細工町1丁目1番である。その前年の1922年(大正11年)東京で平和博覧会が開催された。ホシ製薬全盛期で藤三郎は南九州売捌元(うりさばきもと)60人の団長として博覧会、ホシ製薬を訪問。これを契機に、梁井薬店を辞めて、独立することを決意した。梁井勤務は25年に及び、42歳になっていた。当初、旭化成が設立された宮崎県延岡に白羽の矢を立てたが、妻ミヨが「子供の教育は熊本に限る」との説と「当時熊本は九州の中心である」の結論のもと、熊本での開業を決意した。その結果、当然辞した梁井薬店と市場は競合することになる。

吉松一心堂の店舗は肥後のモッコスやワサモン(新しがりや)たちの評判になった。その第一は、熊本駅を発着する「汽車」の時刻表とともに掲げられた大時計である。当時時計は非常にめずらしいものであり、熊本駅に通じる道筋に店があったので市民に大変有りがたがられ重宝された。しかしその維持は大変で、もし時計が狂っていたら「店も不正直」になるため、時刻合わせも店の一大行事となった。さらに、鉄道の時刻改正時には一晩で看板をやり変えねばならなかった。
第二は「一心堂の雨戸の閉っとるのば見たことなかばい」といわれ、朝は近くにあった市場通いの人で賑わい、夜は二本木遊郭の客で高い薬が売れた。店は朝6時から夜の12時近くまで開けていた。前者はCM 、CIやキャッチフレーズの先駆けであり、後者は今のコンビニの前身といってもよいだろう。

「時計は正確、店は正直」の看板は「私どもの商売決して問違ったことは行っていません」と熊本の人々に語りかけ、そこで働く従業員もその看板に泥を塗ることのないように一所懸命働いた。(吉松一心堂の一心堂は、「基山梁井商店同門の者が開業するときは「一心堂」とつけよう」と申しあわせていた。基山梁井商店熊本支店で藤三郎と同じ釜の飯を食い、のちに鹿児島の地で独立開業した梁井益蔵氏もその社名に一心堂を冠し「梁井一心堂」とした。)
商品も武田長兵衛商店との特約で、あらゆる薬品が手に入った。その後も藤沢友吉商店はじめ大阪道修町の有力商店と取引が開始され、商品もどしどし到着し、客の注文に応じて即刻出荷した。店は藤三郎の経営の才、薬の知識、外交、人触り、商売振り、ミヨの内助の功によってぐんぐんと業績を伸ばしていった。
藤三郎は市場性のなかったものを育てる名人、つまり事業プロデュサーでもあった。これぞと思った商品の見本を着物の袂に入れ、事有る毎にそれを配った。取引先はもとより、花街の芸者さんまでにもおよび、それは確実に話題となり人気商品となった。今でいうPRやサンプリング・プロモーションを既に行っていた。

◆戦争・統制経済で店頭から活気が消える。

1933年(昭和8年)には卸部も開設し、吉松一心堂の業績も順調に推移していた。店の構えも大きくなり長男、次男が薬剤師として共に働き、家業の礎は磐石となった。しかし時代は移ろい、戦渦の荒波に翻弄されていくことになる。
日本は満州事変から太平洋戦争へと時局が大激動し、経済活動も戦時下における軍需優先の統制経済となり、街に出まわる物資も極端に不足した。店の品物も不足がちであったが、吉松一心堂は市民に分け隔てなく平等に、しかも掛け値なく正直に商品を供給し有りがたがられた。しかし戦局は拡大し、国の統制により商売も窮屈となり、店先も一頃の活気は完全に消え去っていた。将来に対し不安な日々が続く中、藤三郎は病になり、1942年(昭和17年)6月9日帰らぬ人となった。61歳であった。藤三郎の死去により長男義巳が後を継いだ。次男幹一とともに細工町一丁目の小売は商売を続け、細工町四丁目の卸部は閉店のままであった。戦局はいよいよ厳しくなり、熊本市内も空襲により大部分を焼失したが、幸いにも吉松一心堂は焼失を免れた。

◆戦後の再建期を3兄弟で支える。

終戦直後はインフレと物資不足、資材不足で医薬品の入手も困難となった。正規ルートによる薬品は出回らず、極端な品不足であった。売るものといえば統制配給品と在庫の残りぐらいで、品物があれば右から左に即売れるという闇市横行の時代であったが、一心堂創業時代に掲げた「時計は正確、店は正直」の看板通り、メーカー品の定価販売、良心的な商いを吉松一心堂は続けた。戦後の一心堂は、幹一夫婦と和夫の力を合わせた再建への努力がその後発展の基盤となった。長兄の義巳も医薬品統制会社にあって弟たちのために尽力した。1947年(昭和22年)配給会社解散に伴い、長兄義巳が家業に復帰した。兄弟3人の協力は強大であった。そのような中、情勢の平静化と共に中央問屋メーカーからの仕入も増加し、商品も続々と送られてきた。

こうして入荷増と共に、熊本県下の薬店からの注文も多くなっていった。卸部も再開し、小売部・卸部併業して1949年(昭和24年)「株式会社吉松一心堂」として法人化した。税法上の有利さもあったが、開かれた経営、経営の合理化、家業から企業への脱皮を志向したものである。
業容が整った翌年、人心をひとつにするために創業以来一貫してつらぬいてきた「時計は正確、店は正直」の精神を引き継ぎ、あるべき姿勢を示す「社員三信条」“和親敬愛・積極前進・職責完遂”が制定された。更に「企業の方針」を設定し、さらに“ヨシマツ薬品株式会社は企業の方針を基本に価値ある医薬品の供給を通じて、社会に貢献し事業の限りなき発展と社員の心身共により豊かな生活を実現する”という「経営理念」を発表した。

◆社業の右肩上がりの発展

社員も徐々に増え、市場も開拓し広がっていった。それに伴い売上も右肩上がりに増え続け、支店・出張所を熊本県下の拠点に開設していった。
苦しい時も「良心的な商い」を続けて得た信用に加え、得意先、メーカーから「ヨシマツ薬品は礼儀正しい、仕切書、請求書等も絶対に間違いない」と高い評価を得ていた。
社内には活気が充満し、入出荷とも目が回るほど多忙な状況が続いた。薬業界の度重なる環境の変化にもかかわらず、その業績の拡大は以下の周年行事にも表れている。


<創業30周年>
1953年(昭和28年)5月創業30周年を記念して、長崎県小浜温泉一角楼にて得意先、メーカー、役員と社員、総勢170余人の大盛宴を催した。吉松義巳社長の挨拶にはじまり、得意先、メーカー祝辞、八木節笠踊りが興を添えて復興を祝うように盛宴であった。
1957年(昭和32年)細工町四丁目の卸部門の向かいに取得した40坪の土地に二階建ての鉄筋コンクリート造りの倉庫を建設した。

<創業40周年>
さらに1964年(昭和39年)創業四十周年の記念事業として卸部隣接の380坪の土地に鉄筋三階建の新社屋を落成した。同時に会社のイメージ刷新のため「ヨシマツ薬品株式会社」に社名変更し、「クスリのヨシマツ」のネオン大看板を掲げた。

<創業50周年>
1973年(昭和48年)熊本市民会館にて創業50周年記念祭を挙行した。参加者は得意先、メーカー、地域社会代表、社員全員とその家族と総勢1,500名を数えた。吉松幹一社長の挨拶にはじまり、各方面からの祝辞、緑化資金として「みどりの銀行」代表者に50万円の贈呈、社員会松栄会からは創業者「吉松藤三郎」の胸像作成の目録が贈られた。第二部のアトラクションでは「祝舞」、郷土芸能「おざや節」「栖本太鼓踊り」や「バッテン荒川歌とコミックショー」が展開され盛況であった。

<創業55周年>
モータリゼーションの発達に伴い熊本市の市域圏は西から東に移り、卸の拠点の移転は必然となり、ヨシマツ薬品も八王寺町に5,378坪の土地を苦労の上取得した。1977年(昭和52年)創業55周年の記念として建物面積1、284坪の近代的な本社、配送センターを建設(駐車場300台分)、6月に新社屋落成式を挙行した。

<創業60周年>
・1983年(昭和58年)3月「薬局薬店向総合ヘルスフェア」開催
・同4月「医系向NHK医療番組チーフディレクター行天先生講演会」開催
・同4月「地域向教養講演会―薬師寺管主高田好胤氏」開催
・創業60周年記念祭
・同5月ニュースカイホテルにて「創業60周年記念祭」が挙行された。

<一部>
スライドによる「60年のあゆみ」、吉松和夫社長挨拶、来賓祝辞
<二部>
陸上自衛隊第8音楽隊演奏
<三部>
記念祝宴(役員総出・社員有志による「八木節」、銀杏会若手社員による「藤崎宮秋の大祭」の鐘・太鼓入り総踊り等披露され大盛況であった。)


◆グループ経営に参画する。

昭和三十年代に入ると共に、戦後の混乱と物不足も次第に落ち着き、世界的にも稀な高度経済成長期を迎える。交通体系の変化や国際化時代の到来と共に地域経済も広域化傾向をみせはじめ、更には薬業界の特殊性やメーカーと卸の関係等により、従来のような個々の企業では解決のつかない多くの問題に遭遇する状況になっていた。
そのような中、1959年(昭和34年)北九州医薬品卸協同組合が小倉薬品・大石薬品・松井薬品・高瀬薬品 佐藤薬品の5社加盟によって小倉の地に誕生した。この組合の使命は「個々の企業では解決のつかない問題に対し、経営革新を真剣に考える経営者が相集い相考え、経営の集団化に至れば共同作業をやろう(合併統合ではなく、歴史・伝統を尊重する立場から法的にも類似の協同組合へ)それも従来の協同組合的発想ではなく、物心両面の提携による真の同志的集いをめざそう・経営の革新とは究極自己企業を健全ならしめることにある」との理念から出発したものだった。
その頃、九州青年薬業人により組織されていた青雲会の一員でもあった吉松和夫は、その理念に共鳴し、卸協組幹部研修会等にオブザーバーとして参加、1963年(昭和38年)機熟するをみて正規メンバーとして新規加入した。

その後、組合では医専・薬専の営業活動委員会や仕入・教育訓練・事務合理化、債権保全委員会など近代経営化の為の各種委員会活動が活発に展開された。
一方、卸の取り扱う商品の多様性、メーカー・卸と得意先との複雑な取引関係を考えたとき、当時の九州は南北二つのブロックが妥当であると考えられはじめた。そこで熊本県・大分県より南部を南ブロックとして創業者藤三郎以来、親密な関係を持っていた鹿児島のヤナイ薬品(株)、大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、そして熊本のヨンマツ薬品(株)の4社で「ダイヤ会」を結成し、相互に切磋琢磨しあう企業グループとしての第一歩を踏み出したのが1964年(昭和39年)10月であった。

当時の本社社屋
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昭和40年代に入ると、グループ各社の経営思想はあらゆる面で統一され、硬い結束力となっていた。その間、業界も大きく変貌し、加えて情報の発達が経済単位の大型化を必然的なものとしていた。「九州は一つ」「日本は一つ」「世界は一つ」とまで言われるようになっていた。こうした動きの中で4社はさらに具体的グループ化のメリットを追及していく必要性を痛感し、協業体として法人化すべき方向が定まり、4社の中軸となる中枢管理会社「(株)ダイコー」が1969年(昭和44年)発足した。ダイコーの名称はダイヤ・コーポレーション(ダイヤ会の本部的機構の意)の略称から決定された。

南のグループの体制整備に伴い、ヨンマツ薬品は、1963年(昭和38年)以来加盟してきた北のグループ「九州医薬品共栄卸協同組合」を1971年(昭和46年)に円満退会した。
ダイコーグループとして「経営理念」の表現を統一するために、1983年(昭和58年)より、「ヨシマツ薬品株式会社営業の根本理念は薬業のもつ公共的真価を認識し、かつこれに権威あらしめ、職業を通じてより多く社会へ貢献することにある」とした。

◆薬業界の激変に対応するため4社合併を合意。

度重なる薬価基準の引下げや医療機関の経営緊迫化など、卸経営を揺るがす課題が山積するうえに、1992年(平成4年)「新仕切価制度」移行による新流通時代の到来で、卸裁量の価格競争過熱や全国の卸再編の加速等が予想された。4社合併合意は時流に即した決定であり、平成3年5月、翌年4月合併に向けMIKSプロジェクトが活動を開始した。

◆4社合併「株式会社ダイコー」誕生。

1992年(平成4年)4月、吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品の四社は満を持して合併し、「株式会社ダイコー」が誕生した。



沿革

1923年 大正12年 02月 吉松一心堂(熊本市細工町1-1) 吉松藤三郎創業
1933年 昭和8年 卸部門を分離
1942年 昭和17年 06月 藤三郎死去 吉松義巳二代目社長就任
1949年 昭和24年 09月 (株)吉松一心堂設立
1953年 昭和28年 05月 創業30周年祝典開催
1953年 昭和28年 06月 西日本大水害で社屋冠水し大被害を受ける
1959年 昭和34年 09月 八代出張所を開設
1961年 昭和36年 09月 人吉分室を開設
1962年 昭和37年 08月 有明出張所を開設
1963年 昭和38年 九州医薬品共栄協同組合に加盟
1964年 昭和39年 04月 ヨシマツ薬品㈱に改称
1964年 昭和39年 04月 新社屋竣工(熊本市細工町4丁目)「クスリのヨシマツ」の屋上ネオン大看板
1964年 昭和39年 06月 創業40周年記念本社社屋竣工祝賀パーティ挙行
1964年 昭和39年 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で「ダイヤ会」を発足
1967年 昭和42年 06月 天草連絡所を開設
1969年 昭和44年 09月 吉松幹一 三代目社長就任
1969年 昭和44年 10月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品で本部会社(株)ダイコーを設立
1971年 昭和46年 02月 共栄医薬品卸協同組合を円満退会
1973年 昭和48年 04月 衛生材料、雑貨の営業権を(株)ダイヤへ譲渡
1973年 昭和48年 11月 50周年創業祭を開催(熊本市民会館大ホール)
1973年 昭和48年 02月 熊本市八王寺町931に本社建設用地取得
1977年 昭和52年 06月 55周年記念として八王寺町に本社社屋及び配送センター竣工、式典挙行
1980年 昭和55年 04月 医療器部門を分離、(株)サン・メックに譲渡
1980年 昭和55年 吉松和夫 四代目社長就任
1982年 昭和57年 11月 東支店を開設
1983年 昭和58年 05月 創業60周年記念式典挙行(ニュースカイホテル)
1983年 昭和58年 ヨシマツ薬品60年史編纂(S58.12発行)
1983年 昭和58年 08月 本社二階増築完工
1985年 昭和60年 篠原修 五代目社長就任
1989年 平成元年 薬専事業部を㈱創健に譲渡
1990年 平成1年 04月 薬粧部門切り離し→(株)創健設立(南九州4社)
1992年 平成4年 04月 吉村薬品、宮崎吉村薬品、ヤナイ薬品、ヨシマツ薬品4社が合併し(株)ダイコー設立



歴代経営者

吉松藤三郎
任期:1923年(大正12年)~1942年(昭和17年)
吉松義巳
任期:1942年(昭和17年)~1969年(昭和44年)
吉松幹一
任期:1969年(昭和44年)~1980年(昭和55年)
吉松和夫
任期:1980年(昭和55年)~1985年(昭和60年)
篠原 修
任期:1985年(昭和60年)~1992(平成4年)



エピソード録

◆「時計は正確、店は正直」 吉松一心堂での毎日の時刻合わせ。 

まもなく昼を迎えようとする「吉松一に堂」の店内。「店先木村!時計台土山!」当主の掛け声がかかる。 
その号令に従い店の者がそれぞれの持ち場につく。「2分前」「もう少し右」「行きすぎた。戻せ」店のもの総動員でその作業にかかる。「1分前」活気あふれる店先にしばしの静寂が訪れある時を待つ。正午「ドーン」と熊本城の午砲台の大砲が時をつげる。その次の瞬間、再び店に活気が戻り店先の庇に架けられた大時計も正確な時を刻み始めた。 
熊本駅の「汽車」の時刻表とともに掲げられた「時計は正確、店は正直」の看板。その中心をなす大時計の時刻合わせの一コマである。この看板こそ後の「ヨシマツ薬品」を発展させる大きな柱となるのである。 

「おかっつあん」創業者ミヨ夫人 

ミヨは店の者さらにはお客からも「おかっつあん」とよばれ、よく藤三郎を助け家事の切り盛りをした。当時「百本櫃」と呼ばれるビンを藁で巻いた梱包を1人で動かすほど気丈でしかも商売上手、家族も店員も食事の分け隔てはなく、店の者にも自分の子供と同様の愛情を以てした。「おかっつあん」の評判はよく、お客もよく何くれとなく相談していたようである。 

終戦直後の大塚製薬との縁 

終戦直後の品不足の折、大塚製薬から製品一覧表が当時としては驚くほど立派な印刷物で届いた。取引は前金で不安ながら注文、送金したところ即刻見事な商品が届き、それから加速度的に取引がふくらみ入荷も貨車単位で行われるようになった。昭和21年7月大塚製薬の大塚武三郎、芳満の父子が突然来熊され吉松一心堂の座敷に一泊、語り合ううちに意気投合、翌朝鹿児島に発たれるにあたっては、おかっつあんことミヨが「コメ」を芳満氏のリュックに詰め込んであげるといったなごやかさであった。(当時はコメの携行なしには食にありつけなかった)その機縁で益々大塚製薬との取引は活発となった。 

ヨシマツ薬品第二の社歌といわれた「八木節」 

ヨシマツ薬品には第二の社歌がある。「八木節」である。義巳が明薬時代運動会でやっていたのを覚えて帰り、その後機会ある毎に歌詞を替え唄った。しかし半端な「八木節」ではない。唄方はもちろん、お囃子も自前で地方、立方と役割があり社員がそれを努めた。社員手作りの伝統であり、社風であった。ここにヨシマツ薬品創業六十周年記念時に披露された歌詞を紹介する。 

〜歌詞 吉松義巳 作〜 

ハァー 松葉あわせのしるしの店は 
ヨシシマツ薬品 起こりは古く 
大正12年、今年は創めて60年よ 
店を起こした先代こそは 
あだ名藤しゃん 藤三郎で 
音に聞こえた名代の親爺 

ハァー あとを引継ぐ 倅は三人 
心一つに 力を合わせ 
あまた社員はヨシマツ一家 
今日も明日も 明日も今日も 
夜と昼との分ちもなくて 
持ち場 持ち場の仕事に励む 
お蔭でこの日の祝いとなった 

ハァー これから先は詠みたいなれど 
余り長いで留おきまして 
メーカーはじめお得意様の 
厚いお情け お願いまするが 
おおーー ええかーーーーー 

昭和28年西日本大水害 

1953年(昭和28年)6月26日熊本県北部地方は記録的な集中豪雨に見舞われ(この梅雨前線による大雨はこの年九州各地に未曾有の被害をもたらす)熊本市でも午後2時頃白川沿いの古桶屋町辺りから溢れた濁流が細工町の卸部を襲い、次第に水かさを増し店内に侵入してきた。濁流の中店の者総動員で商品を2階へ移動を開始したが、当時6月夏物商戦に備えて商品在庫量も最大の時であり、その作業たるや筆舌に尽くし難いものであった。最高水位は午後10時頃であった。周囲は水、水、水、その中を商品が流れていく、拾おうと思っても濁流の中手が出せない、事務所の机のうえに褌ひとつでうずくまり不安な夜を送った。 
豪雨は熊本市だけではなくその周辺地域にも及び、この日長兄の義巳は天草方面へ出かけなんとか宇土まで辿り着いたものの、とうとう帰社できず夜を迎えた。ふつうこのような場合駅など安全な場所で夜明けを待つものだが、義巳は宇土の得意先へ出向き商品の避難を手伝った。1人でも人手がほしいとき、義巳の突然の来店は大変有り難がられその話は後々までも語り継がれた。このような混乱が続く中、翌日未明より水位は下がり始めひと安心したのはつかの、濁流が運んできたヨナ(阿蘇山の火山灰)が屋内に残り、夜明けと共に今度は泥との闘いが始まった。 

泥との闘いが続く中、吉松一心堂には店の存亡に関わるもうひとつの闘いがあった。折りしも月末、手形決済金の影響が懸念された。店の被害も大きく、各地の道、橋も寸断され集金に出ようにも出られない状況下、どのような手段で来られたのか、早朝よりお得意先メーカーさんが次々と見舞いに駆けつけていただき、お得意先にいたっては見舞い方々わざわざ買掛金まで届けて下さる先も数多くあった。そのお得意先の温情に、社員一同泥まみれの顔を涙でぬらした。そのおかげで手形決済はなんら支障なく行われた。



著作や参考文献




セレクト画像・映像


ヨシマツ薬品(株)のディスカッション

3:
アステム源流の地を尋ねて(原文)

吉松藤三郎とみたりの倅 熊本エリア


まもなく昼を迎えようとする「吉松一に堂」の店内
「店先木村、時計台土山」
当主の掛け声がかかる。
その号令に従い店の者がそれぞれの持ち場につく。
「2分前」
「もう少し右」
「行きすぎた。戻せ」
店のもの総動員でその作業にかかる。
「1分前」
活気あふれる店先にしばしの静寂が訪れある時を待つ。
正午「ドーン」
午砲台の大砲が時をつげる。
その次の瞬間、再び店に活気が戻り
店先の庇に架けられた大時計も正確な時を刻み始めた。
熊本駅の「汽車」の時刻表とともに掲げられた
「時計は正確、店は正直」の看板
その中心をなす大時計の時刻合わせの一コマである。
この看板こそ後の「ヨシマツ薬品」を発展させる
大きな柱となるのである。

1882年佐賀県 基山村
明治15年10月11日(1882)佐賀県三菱養基郡基山村。古松一心堂(後のヨシマツ薬品)の創業者吉松藤三郎はこの地に生まれた。地元の基山小学校を卒業、しばらくは家業(素麺製造)を手伝っていたが、時代は日清戦争の戦勝景気に沸きかえっていた。藤三郎としてもじっとしておれず「何か将来の道を」と考え、当時九州一の薬種問屋であった梁井薬店の基山本店に入社した。明治30年(1897)藤三郎、15歳であった。
梁井薬店(鹿児鳥のヤナイ薬品とは直接間係はない)は、当時配置売薬の九州における拠点であった鳥栖のすぐ北基山に本店を置き、久留米、熊本、博多、北九州若松へと支店を設立していった。「くすりの梁井」といえば信用も取り扱い商品も九州一といわれ、店の躾も厳格を極めた。

1905年梁井の吉松藤三郎
明治37年中唐人町の借家でスタートした梁井薬店熊本支店は、翌明治38年(1905)米屋町の岡崎酒店の家を買い取り〔梁非薬店熊本支店〕の大看板を掲げ、藤三郎はこの店に勤めることになった。この支店には後に鹿児島で梁井一心堂(ヤナイ薬品)を創業した梁井益蔵も勤務、当時、熊本薬学校に通学の傍ら店務にたずさわっていた。
店の構えもよく、薬品が店頭に山積みされ業績もめきめき伸びていった。そのなか藤三郎の働きも目覚しく、城南の宇土、小川、松橋、八代、天草、城北では植木、来民、山鹿、玉名と卸売りの手伸ばし「梁井の吉松藤三郎」といえば熊本の業界では知らぬ者はないほどになった。

1923年「時計は正確店は正直」
吉松一心堂創業期
大正12年2月1日(1923)藤三郎は「吉松一心堂」を創業した。店は熊本一の物資の集散地細工町1丁日1番である。その前年の大正11年(1922)東京で平和博覧会が開催された。ホシ製薬全盛期で藤三郎は南九州売捌元60人の団長として博覧会、ホシ製薬を訪問。これを契機に、梁井薬店を辞し独立せんと決意した。梁井勤務25年40歳であった。当初、旭化成が設立された宮崎県延岡に白羽の矢を立てたが、妻ミヨが「子供の教育は熊本に限る」との説と「当時熊本は九州の中心である」の結論のもと熊本での開業を決意した。当然辞した梁井薬店と市場は競合することとなる。
吉松一心堂の店舗は肥後のモッコスやワサモン(新しがりや)たちの評判になった。その第一は、熊本駅を発着する「汽車」の時刻表とともに掲げられた大時計である。当時時計は非常にめずらしいものであり、熊本駅に通じる道筋に店があったので市民に大変有り難がられ重宝された。しかしその維持たるや前文に述べたとおり時刻合わせも一大行事でありもし時計が狂っていたら「店も不正直」になる。さらには時刻改正時一晩で看板をやり変えねばならなかった。第二は、「一心堂の雨戸の閉っとるのん見たことなかばい」といわれ、朝は近くにあった市場のせり人で賑わい、夜は二本木遊郭週いの客で高い薬が売れた。店は6時から夜の12時近くまで開けていた。前者はCM ・CIの先駆けであり、後者は今のコンビニの前身といってもよいだろう。
「時計は正確、店は正直」の看板は「私どもの商売決して問違ったことは行っていません」と熊本の人々に語りかけ、そこで働く従業員もその看板に泥を塗ることなく一所懸命働いた。(吉松一心堂の一心堂は、「基山梁井商店同門の者が開業するときは「一心堂」とつけよう」と申しあわせていた。基山梁井商店熊本支店で藤三郎と同じ釜の飯を食い、後鹿児島の地で独立開業した梁井益蔵氏もその名に一心堂を冠し「梁升一心堂」とした。)

1929年おかっつあん
昭和4年3月(1929)藤三郎長男義巳は明治薬学専門学校を卒業した。母ミヨは義巳の卒業祝いを兼ね上京、式を終え日光東照宮に参詣、さらには長野の善光寺そして京都、大阪と見物し帰熊、ミヨにとっては一生の快事であった。ミヨは店の者さらにはお客からも「おかっつあん」とよばれ、よく藤三郎を助け家事の切り盛りをした。当時「百本櫃」と呼ばれるビンを藁で巻いた梱包を1人で動かすほど気丈でしかも商売上手、家族も店員も食事の分け隔てはなく、店の者にも自分の子供と同様の愛情を以てした。おかっつあんの評判はよく、お客もよく何くれとなく相談していたようである。商売も武田長兵衛商店との特約であらゆる薬品が手に入った。その後も大阪道修町の有力商店と取引が開始され商品もどしどし到着し客の注文に応じて即刻出荷、藤三郎の経営の才、薬の知識、外交、人触り、商売振り、ミヨの内助の功によって
ぐんぐんと業績をのばしていった。藤三郎は市場性のなかったものを育てる名人でもあった。
これぞと思った商品の見本を着物の袂に入れ事有る毎にそれを配った。取引先はもとより、花街の芸者さんまでにもおよびそれは確実に話題となり人気商品となった。
1942年戦争・統制経済
吉松一心堂の業績も順調に推移していた昭和のはじめ、日本は満州事変から太平洋戦争へと時局は大激動し、若者の多くは戦場に駆り出され命を失った。経済活動も戦時下における軍需優先の統制経済となり、街に出まわる物資も極端に不足した。食料品はもとよりとして薬品の不足は甚だしく、戦局の進展につれて配給品すら底をついた。病院で最も必要とされたガーゼや包帯も再生して使用する
ほど戦時下のモノ不足は言語を絶するものであった。店の品物も不足勝ちであったが、吉松一心堂は市民に分け隔てなく平等に、しかも掛け値なく正直に商品を供給し有り難がられた。しかし戦局は拡大し統制により商売も窮屈となり店先も一頃の活気は完全に消え去り将来に対し不安な日々が続いた。そのような中、藤三郎は病を得、昭和17年6月9日(1942)逝去した、61歳であった。

1945年 3人(みたり)の倅
8月15日、日本はポツダム宜言を受諾し事実上戦争は終わった。「敗戦」である。しかし何故か「敗戦」と言う言葉は使われず「終戦」という言葉が使われている。この日の前後になるとテレビで玉音放送を聞き皇居前にひれ伏し涙する国民の姿のシーンがよく放映される。みなさん一度は見たことがあると思う。この涙戦争に敗れた悔し涙だろうか? 「国を守る」といっても最前線では何ら利害関係のない知らない者同士の殺し合いであった。庶民にとって行きつく先は「破壊」と「死」である。あの涙「破壊」は免れなかったものの「死」は免れた。「生きている」「命を失わなかった」ことに対するうれし涙と思っては不遜だろうか。「戦争」という行為、人々の健康いや生命に関わる究極の〈不〉ではなかろうか。医療という立場で「人の命」に関わる仕事をしている私達にとって「国を守る」といって破壊・殺し合いを行う「戦争」は何かむなしさを感じる。
昭和20年(1945)7月1日熊本市は空襲により市街地の3分の1を焼失した、吉松一心堂は幸いにも被害は免れた。藤三郎は戦争中病を得て亡くなったが、子・義巳、幹一、和夫の3兄弟は生き残った。
1949年近代経営第二次創業期
店は戦災による「破壊」は無かったものの、日本はまさに壊滅状態であった。生産施設も破壊され、戦時中からのインフレと物資不足、資材不足、国民生活の苦悩は目を覆うものばかりであった。医薬品業界もご多分に洩れず混乱の極で生産施設も痛手を受け、さらに原料や資材の人手も困難となった。正規ルートによる薬品は出回らず極端な品不足であった。売るものといえば統制配給品と在庫の残り位で、品物が少なく物でさえあれば右から左に捌けるという闇市横行の時代であったが、 一心堂創業時代に掲げた「時計は正確、店は正直」の看板通りメーカー品の定価販売、良心的な商いを吉松一心堂は続けた。戦後の一心堂は幹一夫婦と和夫の力を合わせた卸再建への努
力が今日の基盤をなし。長兄の義巳も統制会社にあって弟たちに何くれとなく尽力した。兄弟3人の協力は強大であった。そのような中情勢の平静化と共に中央問屋メーカーからの仕入も増加し商品も続々と送ってきた。医家向けについては、大塚製薬から製品一覧表が当時としては驚くほど立派な印刷物で届いた。取引は前金で不安ながら注文、送金したところ即刻見事な商品が届き、それから加速度的に取引がふくらみ入荷も貨車単位で行われるようになった。昭和21年7月大塚製薬の大塚武三郎、芳満の父子が突然来熊され吉松一心堂の座敷に一泊、語り合ううちに意気投合、翌朝鹿児島に発たれるにあたっては、おかっつあんこと母ミヨが「コメ」を芳満氏のリュックに詰め込んであげるといったなごやかさであった。(当時はコメの携行なしには食にありつけなかった)その機縁で益々大塚製薬との取引は活発となっていった。
こうして入荷増と共に県下の薬店からの注文も多くなり、卸部も再開し、小売部卸部併業して昭和24年9月1日(1949)株式会社吉松一心堂として法人化した。

1953年大水害襲来
昭和28年6月26日熊本県北部地方は記録的な集中豪雨に見舞われ(この梅雨前線による大雨はこの年九州各地に未曾有の被害をもたらす)熊本市でも午後2時頃白川沿いの古桶屋町辺りから溢れた濁流が細工町の卸部を製い、次第に水かさを増し店内に侵入してきた。濁流の中店の者総動員で商品を2階へ移動を開始したが、当時6月夏物商戦に備えて商品在庫量も最大の時であり、その作業たるや筆舌に尽くし難いものであった。最高水位は午後10時頃であった。周囲は水、水、水、その中を商品が流れていく、拾おうと思っても濁流の中手が出せない、事務所の机のうえに褌ひとつでうずくまり不安な夜を送った。豪雨は熊本市だけではなくその周辺地域にも及び、この日長兄の義巳は天草方面へ出かけなんとか宇土まで辿り着いたものの、とうとう帰社できず夜を迎えた。ふつうこのような場合駅など安全な場所で夜明けを待つものだが、義巳は宇土の得意先へ出向き商品の避難を手伝った。1人でも人手がほしいとき、義巳の突然の来店は大変有り難がられその話は後々までも語り継がれた。このような混乱が続く中、
翌日未明より水位は下がり始めひと安心したのはつかの問、濁流が運んできたヨナ(阿蘇山の火山灰)が屋内に残り夜明けと共に今度は泥との闘いが始まった。
泥との問いが続く中、古松一心堂には店の存亡に関わるもうひとつの闘いがあった。おりしも月末、手形決済金の影響が懸念された。店の被害も大きく、各地の道、橋も寸断され集金に出ようにも出られない状況下、どのような手段で来られたのか、早朝よりお得意先メーカーさんが次々と見舞いに掛けつけていただき、お得意先にいたっては見舞い方々わざわざ買掛金まで届けて下さる先も数多くあった。そのお得意先のあたたかい温情に、社員一同泥まみれの顔を涙でぬらした。そのおかげで手形決済はなんら支障なく行われた。

1984年 グループ経営
昭和三十年代に入ると共に、戦後の混乱と物不足も次第に落ち着きやがて世界的にも稀な高度経済成長期を迎え、国際化時代の到来共に地域経済も広域化傾向をみせはじめ、更に薬業界の特殊性はメーカー卸の関係等により、従来のような個々の企業では解決のつかない多くの問題に遭遇するに至った。
そのような中昭和34年(1959)北九州医薬品卸協同組合なるものが小倉薬品・大石薬品・松井薬品・高瀬薬品 佐藤薬品の5社加盟によって小倉の地に誕生した。これは個々の企業では解決のつかない問題にも経営革新を真剣に考える人達が相集い相考え、経営の集団化 共同作業をやろう(合併統合ではなく、歴史・伝統を尊重する立場から法的にも類似の協同組合へ)それも従来の脇同組合的発想ではなく、「物心両面の提携による真の同志的集いをめざそう・経営の革新とは究極自己企業を健全ならしめることにある」とする理念から出発したものである。
その頃、九州青年薬業人を以って組織していた青雲会の一員でもあった吉松和人はその埋念のめざすところに共鳴し、卸脇組幹部研修会等にオブザーバーとして参加、昭和38年8月機熟するをみて正規メンバーとして新規加入した。その後医専・薬専の営業活動委員会や仕入・教育訓練・事務合理化 債権保全委員会等など近代経営化の為の各種委員会活動が活発に展開された。
一方、卸の取り扱う商品の多様性 メーカー・卸と得意先との複雑な取引関係を考えたとき当時の九州は南北二つのブロックが妥当であると考えられはじめた。そこで熊本県・大分県より南部を南ブロックとして創業者藤三郎以来親密な関係を持っていた鹿児島のヤナイ薬品(株)、大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、そして熊本のヨンマツ薬品(株)の4社でダイヤ会を結成し切磋琢磨の第一歩を踏み出したのが昭和39年秋であった。折りしもわが国はアジアで初めて開催される「東京オリンピック」で沸きかえり、東海道新幹線が開業したのもこの年であった。

1984年 源流より大河ヘ
グループ化にあたって大切なことは、永続するためには本質的に経営理念に相通じるものがなくてはならぬ、その基本的なものがなければその目的の達成のみならず、維持存続すら困難である。4社のトップはその根本的な経営理念のなかに共通点を雑認し、ダイヤ会発足を決意した。即ち業務の提携は経営方法の研鑽、経営内容の公開・分析・検討 情報の交換などを重ねながら、相互の理解と交流を深め、定期的な経営研究の場としてスタートした。
「ダイヤ会」とは4社の頭文字が企てYであり、Yを四つ組み合わせて円で囲むとダイヤモン
ドの形になることに油来し、更には切艦琢磨「磨けば磨くほど益々輝く」ことを願いグループ
名とした。
昭和40年代に入ると、グループ各社の思想はあらゆる面で統一され硬いい結束力を持つに至った。その間業界も大きく変貌し加えて情報の発達が経済単位の大型化を必然的なものとし「九州は一つ」「日本は一つ」「世界は一つ」とまで言われるようになった。こうした動きの中で4社はさらに具体的グループ化のメリットを追及していく必要性を痛感し、ここに脇業体として法人化すべき方向が生まれ、4社の中軸となる中枢管理会社「(株)ダイコー」が昭和44年10月発足した。ダイコーの名称はダイヤ・コーポレーション(ダイヤ会の本部的機構の意)の略称から決定された。
南のグループの体制整備に伴いヨンマツ薬品は、昭和38年以来加盟してきた北のグループを昭和46年円満退会した。ここに北「共栄薬品卸脇同組合(共栄協組)」南「(株)ダイコー(ダイコーグループ)」の形が完成しその後両社はいくつかの変遷を経て(株)アステムとして流れがひとつとなるのである。

八木節
ヨシマツ薬品には第二の社歌がある。「八木節」である。長兄義巳が明薬時代運動会でやっていたのを覚えて帰り、その後機会ある毎に歌詞を替え唄った。しかし半端な「八木節」ではない。唄方はもちろん、お囃子も自前で地方、立方と役割があり社員がそれを努めた。熊本で開催された九州 山口薬学大会でもアトラクションとして出演、参加者から「ヨシマツ薬品さんプロを呼んでは次からの開催地が困るではないか」と言われた。もちろんプロではなくヨシマツ薬品の社員である、それを知った次回開催地区の担当者はアトラクションに頭を抱え込んだとか。
ここにヨシマツ薬品創業六十周年記念時に披露された歌詞を紹介する。

歌詞 吉松義巳 作
1 ハァー 松葉あわせのしるしの店は
ヨシシマツ薬品 起こりは古く
大正12年、今年は創めて60年よ
店を起こした先代こそは
あだ名藤しゃん 藤三郎で
音に聞こえた名代の親爺
2 ハァー あとを引継ぐ 倅は三人
心一つに 力を合わせ
あまた社員はヨシマツ一家
今日も明日も 明日も今日も
夜と昼との分ちもなくて
持ち場 持ち場の仕事に励む
お蔭でこの日の祝いとなった
3 ハァー これから先は詠みたいなれど
余り長いで留おきまして
メーカーはじめお得意様の
厚いお情け お願いまするが
おおーー ええかーーーーー

この「八木節」は社内外から好評で機会ある毎に歌詞をかえ唄われ・踊られ「ヨシマツ薬品といえば「八木節」、「八木節」といえば「ヨシマツ楽品」と関係者で知らない者はいなかった。社員手作りの伝統であり、社風であった。実際に演じられているのを筆者は残念ながら見たことがないが、昔のその模様を録音したカセットテープまた皆さんからお話をお伺いしていると、アステムフォレストの社員が手作りで行った「合併披露パーテイ」の様子が頭に浮んできた。「皆さんに喜んでいただきたい、しかも手作りの演出で」今後も受け継がなければならない良き伝統である。

ヨンマツ薬品の「企業方針」
「時計は正確、店は正直」の精神を創業以来一貫してつらぬいてきたことは本文でも触れた。
そしてその姿勢は取引先からも、お得意先からも評価され大水害襲来という経営危機すら乗り越えることができた。その精神を引き継ぎ昭和24年法人化の際次の社員三信条が制定された。

和親敬愛・積極前進・職責完遂

さらに種々の推敲を重ね企業経営の憲法というべき五ヶ条の「企業方針」を制定、その実践を通じて企業の発展と全社員の幸福をめざしつつ経営の近代化に努めた。のちにこの方針は更に推敲を重ね
:あらすじ前原稿
「ヨシマツ薬品株式会社営業の根本理念は、薬業のもつ公共的真価を認識し、かつこれに権威あらしめ、職業を通じてより多く社会ヘ奉仕することにある」
この方針は朝礼において日々唱和された。
現在の「アステムフォレスト基本理念」にもこれら企業方針の考え方は受け継がれることとなる。
時代・環境が変わっても会社経営・企業理念の根本は、それが正しければ永遠に不変であり次世代へ受け継がれていくものである。「時計は正確、店は正直」・「人々の健康に関わる〈不〉の打開」と言葉の表現は違うもののその基本理念は藤三郎の時代も、戦争中も、そして現在も脈脈と社員の間に流れている。やがて迎える二十一世紀どんな言葉でその理念は受け継がれていくのだろうか……。

出典:アステム源流の地を尋ねて 吉松藤三郎とみたりの倅 熊本エリアより
Posted By 管理者 at 14-05-20 11:30
2:
F11-05-YMA-P1-BOOK-01(株)アステムへの合流企業であるヨシマツ薬品の(株)原点は、大正12年創業の熊本の「吉松一心堂」である。創業者は初代 吉松藤三郎。藤三郎は15歳で梁井薬店熊本支店に奉公し、後の梁井一心堂(ヤナイ薬品)創業者の梁井益蔵と働き、その後独立。店は汽車の時刻表付きの大時計で熊本で有名になり「時計は正確、店は正直」の吉松として業績を伸ばしていった。昭和39年、ヨシマツ薬品株式会社に改称。昭和39年に九州市場の北の北九州医薬品卸協同組合に対して南の「ダイヤ会」を4社で設立。「(株)ダイコー」を経由し、平成10年(株)アステムに合流した。 @Forestpedia「ヨシマツ薬品(株)」https://forestpedia.jp/bbs/board.php?bo_table=forest_pedia&wr_id=48&sca=業&page=2F11-05-YMA-P1-DIGI-01<前データ>(株)アステムへの合流企業であるヨシマツ薬品の(株)原点は、大正12年創業の熊本の「吉松一心堂」である。創業者は初代 吉松藤三郎。藤三郎は15歳で梁井薬店熊本支店に奉公し、後の梁井一心堂(ヤナイ薬品)創業者の梁井益蔵と働き、その後独立。店は汽車の時刻表付きの大時計で熊本で有名になり、武田長兵衛商店との提携も後押しとなって「時計は正確、店は正直」の吉松として業績をぐんぐん伸ばしていった。昭和24年に株式会社吉松一心堂として法人化、昭和39年、ヨシマツ薬品株式会社に改称した。昭和39年に九州市場の南北化をにらんで設置された北の北九州医薬品卸協同組合に対して南の「ダイヤ会」を鹿児島のヤナイ薬品(株)、大分の吉村薬品(株)、宮崎の宮崎吉村薬品(株)、熊本のヨンマツ薬品(株)の4社で設立グループ経営に乗り出す。平成4年の「(株)ダイコー」を経由して、平成10年(株)アステムに合流した。@Forestpedia「ヨシマツ薬品(株)」https://forestpedia.jp/bbs/board.php?bo_table=forest_pedia&wr_id=48&sca=業&page=2
Posted By 管理者 at 14-05-20 11:26
     
修正を行いたいのですが、コメントでロックされていてできません
Posted By 監修者 at 14-07-02 16:53